月別アーカイブ: 1月 2014



島はぼくらと


なんて読後感のいい本なんだろう。

瀬戸内海にある冴島という架空の話が舞台。

島にある学校は、小学校と中学校まで。
高校に進学するには本土へ渡らなければならない。
それでもまだ高校なら本土で一番近い学校ならフェリーでの通学も可能だが、それでもフェリーは決まった時間での往復しかしておらず、島へ渡る便は夕方の早い時間が最終。
やりたいクラブ活動があってもほんの出だしだけしか参加できない。

高校後の進路、進学するにしても就職するにしても、島には産業と言える産業がないので、自然と島を出ざるを得なくなる。

島では母親は15歳になれば離れ離れになることを覚悟の上で子育てをする。

主人公は島から本土へフェリーで通う朱里、衣花、新、源樹という女子二人、男子二人の高校生4人組。

彼らの友情もさることながら、島のおばさん達やおじいさん、おばあさんたちの絆も半端じゃない。

島では男は同じ島の住人の誰かと兄弟の契りを結ぶ。
その契りを結んだ相手がだれかと兄弟の契りを結べば、その人も兄弟になる。
一旦、兄弟の契りを結べば、もう親戚同様。冠婚葬祭のみならず普段から助け合う。

そんな兄弟の風習が描かれているが、兄弟の契りなどなくても皆助け合っていそうなのだ。
子供は皆で育てるもの。
都会どころか地方都市にすらなくなってしまった昔の村社会の良さがそのまま残っている。

もちろん、そんなにいい話ばかりじゃない。村には病院が無い。
急病になった時に霧でも発生してしまえば、本土へ行くフェリーさえ動かない。
本来なら助かる命も助からない。

この物語、そういう島での生活や高校生たちの友情を描くだけでも充分に読みごたえがあるのに、かなり盛りだくさんにいろんな話を詰め込んでいる。

島へのIターン者の女性の中の一人に元オリンピックの銀メダリストが登場する。

彼女はメダルを取った途端に変わってしまう周囲についていけなくなったのだ。

そんな彼女をこの冴島は温かく包み込んでしまう。

その元メダリストの話だけでも一冊の小説が書けてしまいそうな話が織り込まれているかと思えば、Iターン者の積極的な受け入れに関する前向きな取り組みと揉め事、地方活性のコミニティデザイナーとして島にやって来て、1年中島の誰かの家に泊まり込み、なんでそこまで出来るの、と皆に思われ、島の誰からも愛される女性の話。

話題もテーマも盛りだくさんなのだが、一つにだけ絞るならば、月並みなようだが「友情」じゃないだろうか。
祖母の世代の友、母の世代の友情、元メダリストとコミニティデザイナーの友情。
買いかけていたパンを子供連れが買ってしまうのだが、その時に朱里は言う。
「あー良かった。パン買わないで」
「だってあんなに喜んで買って行ったんだもん」

それを聞いた衣花がつぶやく。

「この子が親友で本当に良かった」と。

この一言に集約されている。

島はぼくらと 辻村 深月 著



かけら


なんと読後感の無い小説なんだろ。

父親と二人で日帰りのさくらんぼ狩りツアーに参加する娘。
彼女は写真を習いに行っており、出されている課題が「かけら」。

父親と二人で出かけるのはおそらくもの心がついてからは初めてなのだろう。
日帰りの旅の中でみつけた父の知らなかった一面を娘は見る。

父親が人に親切にする姿。
人が困っていたら助けたりする姿。

そんな一面をみた娘は父を犬猫を見るような気分になったりする。

なんともその表現には嫌悪感を感じる。

「かけら」とはそんな身近なはずの父であっても知っているのはほんの「かけら」程度のもの、というところに引っかけた、ということだろうか。

この「かけら」と「欅の部屋」と「山猫」の三篇。

「欅の部屋」は結婚を間近にした男が、以前の彼女のことをしきりに思い出す話。

「山猫」は東京に住む新婚夫婦のところへ、と西表島から親戚の女子高生が東京の大学の見学に、と泊り込みで来てその相手をする話。

妻の一人称ではじまったものがいつの間にか夫の一人称にすり変わっていたり、また妻の一人称になったり、というところに違和感を覚えたが、最後の一行で後に成長した後の西表島の彼女が一人称なっているので、ひょっとしたら、全て彼女目線で読み返せば、この本の話の面白さが出て来るのか、とチャレンジしてみたが徒労に終わった。

いずれも読後には微妙な嫌悪感が残るのみだった。

表題の「かけら」なんかは芥川賞受賞作家の看板が無ければ、出版してくれるところなど無かったんじゃないのか?
わざわざ本にして出さなくても、そんなこと、家で日記帳にでも書いておけばいいのに。
というのが素直な感想。

芥川賞の受賞時は取り立てて誉めるところもないが失点が少なかったというだけで、選ばれてしまったような人だ。
それでも芥川賞受賞作家の本をたまに読んでみるのは、受賞作がひどくても、その後におお化けしていることがあるからなのだが、その期待は虚しいのもに終わった。
本屋で買わずに図書館で借りておいて良かった。

ところが驚くことにこの「かけら」という一篇、川端康成文学賞なる賞をを受賞したのだという。

まったくもってわけがわからない。

かけら 青山七恵 著



悲報伝


四国ツアーの続編。

舞台は坂本龍馬像で有名な高知・桂浜から愛媛・松山まで。

この地では高知の魔法少女チームと愛媛の魔法少女チームが悲しいことに終わりなき戦いを繰り広げており、お互いの戦術を知り尽くしているだけに戦いは膠着状態。

前回、空々空と一旦同盟関係になるが、離れ離れとなってしまった「パンプキン」こと鋼矢が愛媛側、空々空は高知側と同盟し、その膠着状態をぶっ壊してしまう。

今回の登場魔法は砂を自由自在に操る「砂使い」にもっとその上を行く「土使い」。
「風使い」だの「水使い」だの「土使い」だのこんなのが集まったら台風は起こせるわ、洪水は起こせるわ、地震は起こせるわ。
地球と戦うと言いながら、ほとんど地球の技である天変地異を味方にしてしまっている?

かと思えば遠隔地に居ながら、仲間の心拍数だとかの体調を知る、というスマホのアプリあたりで出来てしまいそうなしょぼい魔法まで。

今回の初お目見えは、何と言っても地球撲滅軍の新兵器。

新兵器とはなんと魔法少女ならぬアンドロイド少女だった。見た目には人間そのもの。
桂浜の沖合から猛烈なスピードで平泳ぎで登場する。
登場時はなんとすっぽんぽんの裸で登場。

今回は新兵器 VS 空々空なのだろうと思っていたのだが、初っ端から空々空を上官として扱うのでいきなり悲惨な戦いが始まることは無さそうだ。
弁が立ち、空気を読むという人造人間らしからぬ、新兵器。
まだまだその能力のほんの一部を垣間見せただけだろう。

今回のストーリーのかなり早い段階で松山の中心街は灰燼に帰してしまう。
いったい四国をどれだけ無茶苦茶にしてくれるんだ!

子規記念館は無事だったのだろうか。などと今さら言っても始まらない。

なんせ、この四国シリーズ序盤で四国の人間はほとんど死に絶えてしまっているのだ。

道後温泉に入浴するシーンがあるので、あのあたりは無事だったようだ。
どうやら道後温泉あたりは松山中心街とは言わないらしい。

流れから行ってこの四国シリーズ3作目で高知、4作目で愛媛かと思っていたのが、一気に3作目で高知と愛媛を片づけてしまった。

春夏秋冬各チームもこれでほとんど生き残り無し。
次回はいよいよ、この四国ゲームの主催者側でもある「白夜」との決着か。
天変地異と戦うわけだけら、それこそVS地球みたいなものか。

悲報伝  西尾維新 著



エジプト革命


チュニジアのジャスミン革命に始まるアラブの春と呼ばれる革命騒動。
エジプト革命のみならず、チュニジアにしろ、リビアにしろ、時の独裁政権を倒したところで、日本のメディアではあたかもアラブの春は終息してしまったかのようだ。

だが、永らく続いた長期政権がSNSで拡がったような運動が元となる革命で崩壊した後にどんなことになるのか、続報があってしかるべしだと思うのだが、いや、実際には続報はあったのかもしれないが、あったとしてもほとんど目にふれないようなものでしかない。
本書は革命が起きる前のムバラクと軍部の関わり、革命時点、そして革命その後2013年の夏までの一連のゴタゴタを、現地の報道などを元に忠実にわかり易く説明してくれている本である。

アラブの春、中でもエジプト革命の時には、結構 「その後」 を心配する声は多かった。
イスラム過激派が主流になってしまえば、中東はどんどん混迷を深めて行くのではないか、というような。
ところが、ムバラク政権が倒れると同時にいろんな声も収束してしまった。
次に大々的に報道されるとしたら、世界中が混乱するようなよほどの大事件が起きるか、もしくは邦人が殺害された時だろうか。

エジプト革命において、ムバラクが最終的に退陣せざるを得なくなったのは軍がムバラクに見切りをつけてしまったことがその要因。

エジプトにおいては軍は国民の味方という立場を終始とっており、国民の意識の中でも軍は国民を裏切らない、という意識が高いのだという。

ムバラク政権崩壊後、革命の中心的存在だったSNSに刺激された青年団達はリーダーの不在もあって徐々に力を失って行く。
代わりに台頭してきたのが、ムスリム同胞団らのイスラム教勢力。

崩壊後から文民統制を望まない軍とムスリム同胞団との綱引きが始まる。

それは県知事の任命においてだったり、次の憲法をどうするか、であったり。

大統領の権限を大幅に削減し大統領による独裁を無くすという条項を盛り込んだ憲法改正ですませたい軍部と、新憲法をという軍以外の勢力。

2011年の革命からすったもんだの後に2012年には正規の選挙によって、ムスリム同胞団出身のムルシーという大統領が選ばれるのだが、その命運もたったの1年。
2013年の夏には軍によるクーデターによって解任されてしまう。

エジプトはこの3年の間に2度の革命を経験したことになる。

筆者はエジプトの地方の識字率の低さに注目する。
エジプトにおける民主主義の難解さは、そこから来るのではないか、と。

識字率だけでもないような気がするが、識字率の低い中で民主的な選挙で多数を取るのはどうしても組織化されたムスリム同胞団のようなイスラム教勢力になってしまう。

しかしながら、投票数の多数がすなわち民意ではない、というエジプトならではの複雑さ。

ただ、イスラムが組織化されている、識字率が低い・・・などはエジプトに限った話ではあるまい。
永年にわたるイギリスの支配下からの独立運動を経て、ナセルによって果たされた真の独立とアラブの雄としてのゆるぎない国としてのプライド、そして19世紀に導入された宗教の分け隔ての無い国民皆兵の徴兵制。
案外このあたりに、「エジプトならでは」の根っこがあるのかもしれない。

さて2度目の革命後のエジプトは今後どうなって行くのか。
ますます混迷を極めるという考えもあるだろう。
ナセルやムバラクそのものがそうだったように軍人の中から大統領が出て従来通りで収まる、という道もあるだろう。
そうなればアメリカも安心だ。

だが、多数決以外の形式の民主主義、投票数だけで選ばれない選挙制度など、エジプト式の新たな民主主義というものが生まれる可能性があるとしたらどうだろうか。
エジプトの今後はまだまだ未知数なのだ。

エジプト革命 -軍とムスリム同胞団、そして若者たち 鈴木恵美著 著



ロスト・トレイン


ちょっと大人の青春小説、みたいな宣伝文句で思わず手にしてしまったが、青春小説とはいかがなものなのだろう。
新潮社にしてはちょっと過大な宣伝文句じゃないだろうか。

一言で表すなら「鉄道マニアが喜ぶ架空廃線ファンタジー」といったところだろうか。

なんといっても鉄道マニアにはたまらない一冊だろう。

主人公はさほどの鉄道マニアではなく、どちらかと言えば廃線歩きマニアというような立ち位置だが、他の登場人物はなかなかに熱烈な鉄道マニアばかり。

「日本のどこかに、まぼろしの廃線があり、その始発駅から終着駅までを辿れば奇跡が起きる」
そんな話をキーワードに物語は進んで行く。

主人公氏は鉄道マニアの老人と知り合いになり、行きつけの店で酒を酌み交わす仲になるが、ある時、その老人はまぼろしの廃線を見つけたかのような言葉を残して失踪してしまう。
その老人を同じ鉄道マニアの女性と一緒に探しに行く話。

今ではすっかり見かけなくなった駅の伝言板。
その伝言板に二人だけがわかる符牒でやり取りし、飲みに行く時の合図に使う。
これは鉄道に関係無くても携帯電話や携帯メールのやり取りよりも押し付けがましくなくて、何やら情緒を感じる。

戦前の鉄道の話やら、ゲージのサイズについてのくだりやらは鉄道ファンなら大喜びしような話ではあるが、何と言っても鉄道マニアのお得意は「乗りかえ上手」なのではないだろうか。

鉄道乗りかえの妙技は松本清張の推理ものを連想ししまうが、考えてみると時刻表片手に鉄道を乗っていた時代には、この時刻の電車に乗って、ここで下車すればこの電車に乗車でき、ここへはこんな時間へ到着出来る、みたいな事は鉄道マニアでなくても一般的な大人なら普通に行っていたことだろう。

インターネットの路線検索では絶対に出てこないような上手な乗りかえ方を時刻表片手の時代には容易に出来ていたわけだ。

そういう意味では鉄道マニアという存在、ある時代のある文化を残すという意味でなかなかに貴重な存在なのかもしれない。

ロスト・トレイン  中村 弦 著