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破局


こちらも昨年(2020年)夏の芥川賞受賞作。
こちらはもう一つの受賞作「首里の馬」に比べるとはるかに読みやすい。

主人公は大学4年生。この男にはあきれる事多々あったりするが、何かしら感情移入する出来るところがあったりする。

高校時代ラグビー部に所属。弱小の公立高校ながら地方予選をなんとか準々決勝まで勝ち残り、そこで敗退。
後輩になんとか準々決勝、準決勝の舞台を踏ませてやろうと、後輩の部活に顔を出し、顧問のコーチすらそこまで望んでない、もちろん現役生も望んでない、スパルタぶりを発揮する。

今は、公務員試験を目指して勉強中の身ながら、身体を鍛える事を怠らず、筋トレでどんどん強靭な身体を仕上げて行く日々。
この主人公青年に後輩に対する悪気は一切ない。
パワハラだとかいじめだとかは縁遠く、純粋にそんなことでどうする、準決勝行くにはそんなことで音を上げていたら、行けないぞ、という思いだけでやっている。

後輩どころか、世の中の人全員の夢がななうのを願うような男なのだ。

自分なりのルールに厳格で、父親から唯一言われた言葉「女性には優しくせよ」を守るのはもちろん、数々のルールで自分を縛る。

ルールを自分に課すだけならまだしも、他人に向けられる厳しさには、少し怖いものを感じる。
食事時に、チャッチャッと音を出して食べるのが許せない、というより嫌い。
自分の彼女が滑り台を登って行く際に、スカートの中が見えるかもしれない場所に居る男が許せない。
男女共用のトイレから男が出てきた際に便器が上げられた状態だった、これは後に入る人の事を考えていないからだ、許せない、とルールを作るのは構わないのだが、彼の場合、そのルールを破った相手に殴りかかってしまうのではないか、とひやひやするのだ。

通常、公務員試験を受けようとする男なら暴行をはたらくなどという愚行を犯すはずがないのだが、何故か彼にはその危うさがつきまとう。

ここで上げられたルールだとか、好き嫌いなどは、おそらくだが、この作者の好き嫌いそのものの様な気がする。

それにしても、学生時代ってこんなにも元気だったっけ。
朝から2回連続で自慰で抜くのが日課って。どれだけ元気なんだ。
さすがにここばかりは作者そのものでは無いだろう。



線は、僕を描く


水墨画などという地味な題材がテーマなので、途中で眠くなる様な本なんじゃないだろうか、と思いつつ読み始めたが、なんだろう、このぐいぐいと水墨画の世界の中に引っ張られるような感じは。
とまらなくなってしまった。

結局、一度も休むことなく読み切ってしまい、翌日から二度目の読みに入った。

これを、書くのにどれだけ取材したんだろう。書かれているセルフの中にはその世界に居る人でなければ絶対にわからないような表現がいくつもある、などとと思っていたが、この砥上さんという作家そのものが水墨画家なのだった。

小説家が水墨画のことを勉強して小説にしたのではなく、水墨の絵師が小説の形を借りて、水墨の世界を紹介したということなのだが、この水墨画の先生の文章は卓越している。
登場人物はもちろんフィクションだろうが、水墨に関するところはノンフィクションなのではないだろうか。

ストーリーは、高校時代に両親を交通事故で失い、その後、空っぽになってしまった大学生が主人公。
大学へ進学するも空っぽのまま。内に籠ったまま誰とも親しくなる気が無い。
そんな彼が大学で開催される水墨画の展示会の設営のアルバイトを引き受けた時の出会いがまさに人生を変える出会いとなる。
日本の水墨画のトップに君臨する絵師、篠田湖山という著名な先生だとは知らずに、一緒に水墨画を見て廻り、思ったままの感想を述べただけで、君には見る目が備わっている、と「私の弟子になりなさい」と半強制的に弟子になる嵌めになってしまう。

芸術というものを文章で表現するなど、ほぼ不可能だろうと思えるような事を砥上氏はやってしまっている。
白と黒とその濃淡だけで表される水墨画。しかし、主人公の青年は描かれた薔薇を見て、黒いはずなのに赤く見えるという。それを読んでいるこちらも黒いのに赤く見える薔薇を想像している。

巨匠が認めただけあって、この主人公君は見る目を持っているのだ。
観察眼がすごい。
日本の水墨画の頂点の二人、またその頂点の絵師の一番弟子、二番弟子が実際に水墨画を描くところを目の前で見、その観察眼で、腕の動き、筆の動き、そして出来上がった生き生きとした水墨画を見て、頭に叩き込む。

彼の観察眼で見たものを描写して表すことで、読者もまた、その目の前に日本の頂点を極めた人たちの水墨画を思い描く事ができるのだ。
それが表現できてしまうのが自身が絵師としての表現力を持っているからなのだろうか。

クライマックスは二番弟子の斉藤湖栖という先生が白い薔薇を描き最後にその薔薇に蔓を描くシーン。もう一つは湖山先生が大学の学園祭に引っ張り出され、キャンパスで揮毫を披露するシーン。
ただの線のはずなのに見えないはずの風が吹き、匂うはずもないのにかおりがし、重さががあるはずもないのにその質量を感じるその線。
そこに描かれたのは生命の息吹きそのもので、見るものは誰しも感動する。

水墨画は瞬間的に表現される絵画で、その表現を支えているのは線である。
そして線を支えているのは、絵師の身体。
線を眺めているとどんな気質のどんな性格の持ち主が描いたのかも推察できる。

主人公君が空っぽで真っ白な自分に生き生きとした生命の宿った水墨画という線を描いていく、そんな話だ。

まるで芸術作品を鑑賞させてもらったような豊かな気持ちになる本である。

二度目をじっくりと読んだ後もしばらく余韻に浸っていられた。眠ろうと目を閉じても生命力ある水墨画が頭に浮かんでくる。こんな読後体験は初めてかもしれない。

水墨画展など、ついぞ聞いた事も無かったが、今度開催を見つけたら、なんとしてでも行ってみたい。

線は、僕を描く  砥上 裕將著



疫病2020


今や寝ても覚めてもコロナコロナコロナ。人の話題もコロナ。天気の挨拶の代わりにコロナ。
テレビのニュースをつけてもコロナ。バラエティをつけてコロナの3文字を聞かない日はまず無い。

今これを書いている日のトップニュースは、東京一都3県にての緊急事態宣言の期間延長のニュースだった。
そもそも日本でこの新型コロナ(新型肺炎と言っていたか)についての初めて報道が為された1年3か月前に
その半年後、1年後にまだそのコロナの事をえんえん報じている日を想像し得た人が居ただろうか。

2019年12月に武漢にて原因不明の肺炎患者の症例が相次ぐ。
不審に思った医師の一人が調べたところ、SARSと同じ感染症ウィルスを確認。
すぐに医療関係者達に伝えなければ、とウィルスの情報を共有しようとしたところ、当局からストップをかけられる。
その情報を引き継ぎ、後に英雄となる李文亮氏が発信した途端、今度は公安が来て「デマを流した」という理由で彼を拘束してしまう。
この12月の初動にての情報隠ぺいが無ければ、世界はこんなことになっていなかったのではないか。
もちろんタラレバの話である。仮にここで隠ぺいしなくともやはり蔓延したかもしれないし、日本政府はやはり入国を止めなかったのかもしれない。

中国による初期の情報隠しは致命的すぎるが、その後の日本政府の対応もひどすぎる。
1月に入って武漢が大変な事はわかっているにもかかわらず、厚労省はまだ人から人への感染は確認されていないと、入国制限を行わない。
中国政府が武漢封鎖を行った後になってようやく湖北省からの入国制限を行うも、中国全土の入国制限は行わない。
門田氏によると厚労省は当初入国制限など全く考えもしなかったというほどに危機管理意識が無い。

感染対策の優等生である台湾はというと1月早々に中国からの入国をSTOP。
次から次へと相次いで感染対策を打ち出している。
この違いはなんだ、門田氏の嘆きは続く。

習主席を国賓として招いてしまっていたことが中国の入国制限へのブレーキとなり、夏にオリンピック・パラリンピックを控えていたことが、欧米からの入国制限へのブレーキとなり、初手の感染防止対策の判断をゆがめてしまう。

門田氏は何も政府だけを批判しているのではない。
180度態度を変えた専門家と呼ばれる人たちや、感染対策を真っ先に討論すべき国会で野党が追及し続けたのは未だ「桜を見る会」。これにも呆れている。

初手を誤ると、感染経路は全く追えず、あとは何もかもを停止せざるを得ない最悪の状態に。

わずか1年間のこととはいえ、この本は充分に歴史書だ。

コロナ後も世界からはどんな厄介事が日本に降りかかるかわからない。

迅速な判断と実行が出来る台湾を羨んでばかりはいられない。

2020年から日本は何を学んだのだろう。

疫病2020 門田隆将 著