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死に神のレストラン


「ほっこり・じんわり大賞」受賞作とのことで読んでみました。

死に神のレストランって響きが悪い気がするが、そんな恐ろしいところではない。

不慮の死をとげ、この世にまだ思いを残している人がその店に入ることになっている、あの世とこの世の間にあるレストラン。

さすがに「死に神のレストラン」では響きが・・となったのか文庫版では「神さまのレストラン」に改題されたとか。
実は別物を私が勘違いしているだけかもしれません。

事故死の人の場合、その死者はまだ自分の死を受け入れていない。

婚約者とちょっとした喧嘩で結婚破棄を一旦口にしてしまった女性が、やはり仲直りをしようと彼のところへ向かう途中で事故死してしまう。

このレストランで一品だけ思い出の一品を注文することで、自暴自棄になった彼のところへ赴き、生きる元気を与えて帰って来てこころおきなく旅立つことが出来る。

そんな小編が何篇か。

ちょっと心が温まるような作品が掲載されている。

確かに「ほっこり・じんわり」にふさわしい。

不治の病を宣告された人なら、覚悟はできているかもしれないが、不慮の事故で亡くなった人の大半は何某かの心残りを残したままなんだろうな。
となるとこのレストランいつも満員御礼じゃないか、などと全然「ほっこり・じんわり」にふさわしくない感想を持った私の眼は曇っていること間違いない。

死に神のレストラン 東万里央著



愛なき世界


三浦しおんさんと言う人、いろんな事を探求される方だ。

男の祭りにスポットをあててみたり。広辞苑を作る人にスポットをあててみたり・・。
たぶん誰も書いていない分野を開拓してみたい、知ってみたい好奇心に溢れていらっしゃるのだろう。

今度はとうとう植物だ。
植物にまで手を拡げて来たか。

正確には植物を研究する研究者にスポットをあてたわけだが、植物の研究などと言う地味な分野、果たして読み物になるのだろうか、などと余計な心配は杞憂に終わる。
人物を描写が絶妙な人なので、扱う題材が珍しかろうが、地味だろうが、なんでも楽しく読ませて下さる。

主人公はおそらく東大と思われる大学のすぐ近くにある洋食屋で働く青年。
彼が一目惚れをしてしまうのがその大学の植物学の博士課程で研究する女性。

その女性の研究対象が「シロイヌナズナ」という植物。
葉っぱはどうして一定の大きさ以上にならないのだろう。

そんなことを疑問に思う人はそうそういないだろうが、そういう事を疑問に思う人たちがいるから、自然界の謎が一つ一つ解き明かされて行くのだろう。

恋愛の話では男が女の気持ちに鈍感、というのが通例だと思うが、この研究者の場合は逆だ。彼女は洋食屋のお兄ちゃんのことは嫌いではない、むしろ好きな方だと思うが、彼女の方が男の気持ちに鈍感なのが面白い。
むしろ、それだけに彼の方も立ち直りが早い。

今、ちまたのニュースで聞かない日はない「PCR検査」。

この本には何度も「PCR検査」という言葉が登場する。

変種の遺伝子を配合させてさらにその種どうしを配合させてさらに・・と途轍もない労力をかけて最後の最後に使うのが、そのPCR検査。

今、ニュースで聞くPCR検査とおそらく同じものなのだろうと思う。

そんな研究者が最終手段で使うような検査を毎日毎日、全員やれだのとニュースで流れているのか。

こういう研究者たちはどんな思いでそのニュースを聞いているのだろう。

ちょっと、気になってしまった。

愛なき世界 三浦しおん 著



日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた


ウズベキスタンの首都タシュケントでかつて大地震が起こった際、3万戸以上の住宅や公共施設が倒壊し、7万世帯以上が住む場所を失ったという。

そんな倒壊、倒壊の中で唯一無傷で整然と立ち続けた建物があった。ナヴォイ劇場というオペラハウスで多くの市民の避難場所となった。

そのナヴォイ劇場を建てたのが、第二次大戦末期に日ソ中立条約を破棄し、突然攻めて来、日本が無条件降伏した後も侵攻し続けたソ連軍の捕虜となった日本兵だった。

日本兵の捕虜の多くは極寒の地シベリアで強制労働についたが、彼らはひたすら西へ西へとソ連の東の果てから西の果てまで送られて、革命から30周年の記念に建設計画のあったナヴォイ劇場という壮大な建物を建造する事となったのだ。

戦前に日本人が海外にて建造した建造物の評価が高いうわさは良く聞くが、あくまでそれらはデベロッパーによる建造物である。
彼ら兵隊になる前はそれぞれ、左官業だの建築関連に携わって来た人も居るだろうが、組織として、建築業を営んでいたわけではない。

この劇場建設の総司令官はもちろんソ連側の将校だが、実際に建設を行う部隊を取り纏めていたのは永田少佐というまだ若干24歳の青年。
今でいえば年齢的には社会人2年目の新人に毛が生えたような年齢。

彼はこの部隊の人間を一人残らず、生きて日本の地を踏まそうと決意を固め、部隊の隊員たちにもその考えを伝える。

また、この建造物に関しても「我々はソ連の捕虜ではあるが、日本人の誇りと意地にかけても最良のものを残すんだ」という強い信念と決意を持って取り組む。
世界に引けをとらない建築物の完成をこの目で見届けたいと帰国のチャンスまでも断る。

ソ連将校の言いなりになっていただけではない。
一日のノルマをこなさない捕虜には食事の量も減らされるのがソ連の決めたルールだったが、これに対して永田隊長、理詰めでソ連将校のTOPと直談判をして、平等な食事を勝ち取ったりもしている。

ウズベク人にしてみれば日本人捕虜たちは驚きの連続の存在だったであろう。
ドイツや他の国の捕虜ならば、強制的に働かされているわけなので、自ら積極的に働こうなととは到底考えないし、それが当たり前に思っていた事だろう。

日本兵捕虜は積極的に取り組みばかりでなく、楽しく働けるために様々な工夫をし、周囲のウズベク人達も楽しませようとする。

おかげでウズベク人後々まで誇れる立派なオペラハウスを手にし、日本人への感謝の気持ちを忘れないという。

我々現代の日本人は、こうやって先人たちが世界に残してくれた親日の遺産を受け継いだわかなのだが、いつまでも遺産だけでは持たないだろう。

令和の日本人も将来世代のために日本人として感謝される何かを残したいものだ。

日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた 嶌信彦著