わたしを離さないで
2017年ノーベル賞受賞作家の代表作である。
この話、既に日本でも著名な役者によって舞台化され、最近ドラマ化されたとのことなので、ストーリーについてはご存知の方も多いだろう。
前半は寄宿舎のような施設での子供たちの日常の描写でかなり退屈な話が続く。
ここで断念してしまった人にはこの話の面白さは分からず仕舞いとなる。
中盤になってくると、教育の施設のなかで「提供」という言葉が頻繁に登場してくる。
人様に提供を行うという類の善行を施せという教育なのだろうか。
で、だんだんと明らかになって行くのが、彼らは一般の市民では無いということ。
彼らは普通に恋愛をし、自己顕示欲の強い子がいるかと思えば、いじめられっこもいる。絵を描くことを熱心に指導され、健康診断が頻繁にあること以外はごくごく普通の子供たちだ。
施設を卒業するころになると、コテージのようなところ一時的にへ移り住み、その提供の日を待つ。
主人公たちが育ったのはヘールシャムという施設で全英で最も恵まれた施設だったらしく、ヘールシャム出身者には、提供の猶予が与えられるのでは?というまことしやかな噂が流れ、彼らは動揺し、猶予の為に出来ることを行おうとする。
施設で育ったと言っても彼らは捨て子でも無ければ、育児放棄された子供たちでもない。
病気を持った赤の他人に自らの臓器を提供することだけを目的としてこの世に生を受けたクローンなのだった。
なんと残酷な話なのだろう。
この話では成長した主人公達がヘールシャム主任保護官だった女性を訪ね、助かる道について尋ねるシーンがある。
答えはNOだ。
臓器移植の技術がいくら進歩したところで、臓器ドナーがいなければ、結局は助からない。
一旦出来てしまった便利なものはさらに便利なものが出来ない限りは決して無くならない。
臓器をいくらでも調達できるとなれば、人道的かどうかよりも自分の周囲の人たちの生命維持が優先されてしまうのだ。
ならば、いっそのこと一切教育など施さなければ・・
人間らしい感情を持たなければ、臓器を差し出すことに何の感情も無いのでは?
人間と思っていないのなら、それぞれの施設はブロイラー工場と何が違うというのだろう。
いやもっと言えば、一切他人とも関わらない、カプセルを並べチューブで栄養補給させるという本当の工場のような場所で成長させればどうなのだ。
下手に人間らしい暮らしをしているだけに悩み、苦しむ。
この施設という制度のうまいところは、徐々に徐々に「提供」という言葉を浸み込ませ、違和感を無くし、差し出すことに違和感がなくなるようにゆっくりと教育していく。このやり方がまた絶妙なのだ。
カズオ・イシグロ氏はこの作品、他の作品でイギリスの文学賞も受賞している。
クリスチャンの国でこの本は受け入れられたということだろうか。
ものすごい発想ではあるが、人道的観点はさておいたとして、社会保障費の観点から見てどうなのだろう。年間に臓器移植を必要とされる患者の数ってそんなに多いのだろうか。
これだけの子供たちを立派な大人にまで育てたんだから、まともな職場を与えて労働人口になってもらった方が、イギリス経済にとってははるかにプラスのような気がするが、余計なお世話だったか。
そんなことを言ってしまえばノーベル賞も台無しになってしまうな。