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やすらぎの郷


永年、テレビ界に貢献して来た人たち、往年のスターたち、そんな人たちばかりを入居させる老人ホームがある。
入居にあたっての費用は一切無し。入居後も費用は無し。
必要なのはリーズナブルなバーでの飲み代ぐらい。

中には医者も居れば、スタッフも充実。共有スペースでは数々の娯楽が楽しめ、建物を出れば釣りを楽しめる場所まである。
それに何より、かつての有名人ばかりが揃っているのだ。

最近、見ないなぁ、もしかしてお亡くなりになってたりして・・・というような人ばかりが入居している。

そんな施設があるという噂はあるがまるで都市伝説の様でその実態は誰も知らない。

テレビ界に貢献して来た人と言っても局側の人間は対象外であくまで組織に守られていない立場の人たち。

売れなくなったら誰も見向きもしおないばかりか、生活にも困窮してしまうような立場の人たちへの恩返しのような施設なのだ。

そんな施設への入館案内がある脚本家の元へ届く。

数々のヒットドラマを書いて来た脚本家、それが主人公。

まさに倉本聰そのものかもしれない。

この「やすらぎの郷」、テレビのドラマで放映されていたらしいのだが、全く知らなかった。

だが、この本を読むと、まさにドラマを見ている様な気分になる。

本を開けば、脚本そのもの。

俳優が読む台本ってこんな感じで書かれているのかな、と思えるような内容。

主人公の脚本家の先生役を石坂浩二が演じ、その周辺にはそうそうたるメンバーが勢ぞろい。
まだまだ現役の人たちばかりだ。
マヤこと加賀まりことお嬢こと浅丘ルリ子のやり取りはいかにも言ってそうで笑える。
ミッキー・カーチスや山本圭などが主人公の脇を固める。

本を読んでいるのだが、まさに加賀まりこや浅丘ルリ子の姿がありありと浮かんでくる。

なんと言っても、姫と呼ばれる存在の八千草薫の存在は大きい。

心から人の好さが伝わって来る。

そんな八千草薫もお茶目ないたずらをしたりする。

この台本、俳優を決めてから書いただろう。そうとしか思えない。

読んでいて笑いが止まらない本なんて久しぶりだった。

やすらぎの郷 倉本 聰 著



蜜蜂と遠雷


音楽を文章で表現する。
果たしてそんなことが可能だろうか。

日本のある地方都市で行われるピアノコンクール。
世界の一流への登竜門のようなコンクール。
この本、その一次審査から二次、三次、本選と、ほぼ、そのコンクールだけで成り立っている。

そこに3人の天才ピアニストが登場する。

一人は自宅にピアノを持たない少年で著名な音楽家の推薦状を引っ提げて来る。
彼の奏でる音楽は、まるで彼がそこで作曲し始めたかのような、自由さがある。
彼の弾くピアノに、他のコンテスタントは触発されて行く。
皆が感動するピアノを弾くのだが、それは必ずしも審査員受けするものではない。
だが、もう一度聞いてみたい、とは思わせるので、審査を勝ち抜いて行く。

一人はかつてジュニアコンクールで圧倒的な実力を発揮していた女子大生。
子供ながら先々の講演予定がびっしり入っていた彼女なのだが、マネージャーのような存在だった母を亡くしてしまい、その後の舞台をドタキャンし、以降、表舞台から消え去った人だ。
その彼女が幼い時に見出したもう一人の天才。
一流のピアニストに師事し、コンクールでの勝ち方を知りぬいた本命中の本命。

その三人がほぼ主役なのだが、その音楽に感動させれるのは「元消えた天才少女」が奏でるピアノ。

文章を読んでいるのに、その音楽に感動して涙腺が緩んでしまった。
こんなことは初めてだ。

この本、コンクールを舞台に数々の人間模様を描いているが、この世界の裏側を至る所で垣間見ることが出来る。

コンクールに出るにはもうとうが立ったとも言えるような社会人も出場する。
もともと若い頃はピアニストを目指していた人なのだが、今や結婚もし、子供もいる中、最後の挑戦との思いで、仕事をしながら寸暇を惜しんで練習し大会に臨む。
その練習をし、というのも簡単じゃない。
音大生ならいくらでも環境はあるだろうが、ピアノをまともに弾く場所がない。
楽譜を買うのも高くつく。
レッスンなど受けようものならレッスン料も・・。

小さい頃から親が環境を与え、時間を作り・・、とそもそも、かなり恵まれた環境の人にしか挑戦権はない。それでも予選に辿り着く前に大抵は落とされる。

ごくごく限られた天才たちだけが予選まで到達できる。

フィギアスケートの選手たちを連想してしまった。

果たして、音楽を文章で表現するなんて可能なのだろうか?という疑問をこの作者は見事に払拭してくれた。
見事と言うしかない。

蜜蜂と遠雷 恩田 陸著



狼の牙を折れ


最近の大規模なテロと言えばパリだのロンドンだのニューヨークだのと、ほぼ日本から遠く離れた地で発生しているが、テロの発生件数にランキングがあるとしたら、1970年代後半の日本はかなり上位ランキングされていたのではないだろうか。
1974年東京丸の内のと言う日本のオフィス街の中心で起きた三菱重工ビル爆破事件。
そのビルだけでなく周囲のビルからも窓ガラスが降り注ぐ死者8人、重軽傷者376人の大惨事。
同年 三井物産爆破事件。17人が重軽傷。
同年 帝人中央研究所爆破事件。
同年 大成建設本社爆破事件。
同年 鹿島建設爆破事件。
翌1975年 間組爆破事件。
同年4月 オリエンタルメタル社・韓産研爆破事件。
同年4月 間組爆破事件。
同年5月 間組爆破事件。

大企業ばかりを狙ったこの立て続けの爆破事件、東アジア反日武装戦線 「狼」を名乗る組織、「大地の牙」を名乗る組織「さそり」を名乗る組織が次から次へと起こし、犯行声明を出したもの。

この本は、その組織を追い続けた公安組織の捜査を徹底取材したドキュメンタリーである。
今なら、どこにでもある監視カメラである程度、足はつくのだろうが、当時はそんなものはない。
捜査員が足を棒にしてようやくその主犯格の男たちに辿り着くが、そこからがまだまだ大変。彼らへの行確(尾行や面会者をさぐる)は慎重に慎重に行われて行く。
日々、どうのような行動をとるのか。何時にどの道を通って何時にどのルートで帰宅するのか。
その日々の行動と違う時が別の仲間との接触の可能性が高い。

今のようにどこにでも監視カメラのある時代ではない。
一旦、追尾に失敗してしまえばまた一からやり直しになってしまう。

特ダネを狙う新聞記者たちとの攻防もなかなか熾烈だ。
全ての容疑者をほぼ同タイミングで一勢に確保しなければ、一人でもメディアにすっぱ抜かれてしまえば、もう普段通りの行動は行わなくなる。
証拠隠滅の恐れもあるし、確保も困難になる

そうして行確を続ける間にもまた別の企業爆破事件が起きる。

捜査員たちの執念でようやく三つのグループの犯人たちの確保に成功するのだが、あろうことか、この犯人たちをハイジャック犯の要求に応じて超法規的措置にて釈放させられてしまうのだ。

捜査員たちの苦労はどこへやら。さぞかし悔しかったことだろう。

こうして、日本は世界中にテロリストを放ってしまうのだ。

どうにもわからないのが彼らの心理だ。彼らは企業を爆破することが本当に世の為、人の為などと信じていたのだろうか。
特定宗教に嵌ったわけでも無ければ、金銭目的でも無い。
有名になりたかったわけでもなんでもない。
学生運動を行う学生でない。
外目には、日々勤め先との往復をする、ごく普通の勤め人たちばかり。

この事件、まだ終わったわけではない。
世界中に拡散したテロリストたちの何人かはまだ、世界のどこかで生きている。

狼の牙を折れ  門田隆将 著