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羊と鋼の森


2016年の本屋大賞受賞作。

なんかとっても美しい本だった。

過去、こういう美しいだけの本が本屋大賞になったことってあったっけ。

「村上海賊の娘」のようなわくわくするような躍動感があるわけじゃない。
「海賊とよばれた男」のような感動と勇気を読者に与えるわけじゃない。

ただ、美しい。

人間、天職に巡り合うほど素晴らしいことはない。
主人公はなんと17歳にして天職と巡り合ってしまう。
たまたま学校の体育館までの道案内をした相手がピアノの調律師だった。

後にわかることだが、その調律師は著名なピアニストから調律の指名を受ける様な人だった。

最初に出会ったその人の調律がどれだけ彼の心を打ったのか、ピアノを弾いたことがあるわけでも、音楽の素養があるわけでもない少年が、その人に次に会った瞬間には「弟子にして欲しい」とまで言い出してしまっている。

調律の専門学校を出た後にその師と憧れた人の店に入社するが、人の何倍も努力してもなかなか調律は上達しない。
いや、上達していない、と思い込んでいるだけなのかもしれない。

この話の中では音というものがいろいろな比喩で表現される。
調律という作業もまたいろいろな比喩で表現される。

正直、その比喩が本当に妥当なのかどうかはわからないが、その比喩の言わんとするところに共感してしまうし、そこにも美しさを感じてしまう。

調律という作業がこれほどに奥の深いものだとは思わなかった。

羊と鋼の森 宮下奈都著



道徳の時間


「道徳の時間を始めます。殺したのは誰?」ってインパクトあるなぁ。

とにかく、ぐいぐい引っ張られるような勢いのある小説。

関西のとある地方の町で発生したイタズラ事件。
小学校のウサギの死体の傍らに「生物の時間を始めます」のメッセージ。
女児をブランコから離れなくさせておいて傍らに「体育の時間を始めます」のメッセージ。
いたずらで済まないのが、陶芸家の老人が自殺を図って死んだ後にみつかった三つ目」のメッセージ。
「道徳の時間を始めます。殺したのは誰?」

とはいえ、この一連の事件はこの話の中では、ほんのおまけ。

メインは13年前に起きた殺人事件。
小学校で講演中の元教師の著名人。
そこへ、かつての教え子で現在大学四年生の男が演壇につかつかと真っ直ぐに歩んで行き、生徒、父兄、教師たち、と衆人環視の中、講演者を刺し殺してしまう。
逮捕された後も一切しゃべらず、黙秘を貫き、唯一話したのが精神鑑定にかけるかどうかの時だけ。
「自分は正常だ。責任能力はある」と。
そして裁判にて判決言い渡しの後、裁判長から一言を求められ、発した言葉が

「これは道徳の問題なのです」の一言。

あまりに摩訶不思議なこの犯人を扱ったドキュメンタリー映画を作成したいという話が主人公のところへ持ちかけられる。
主人公はビデオジャーナリストのベテランで、ある事件でつまづき、ここ半年ばかりは休業中。
ドキュメンタリー映画を作成したいというのはまだ駆け出しの若い女性監督。

そうして、ドキュメンタリーと言う名の創作映画の撮影が始まる。
女性監督は13年前の当時を知る元小学生や教師、父兄などを次々とアサインし、インタビューして行く。
誰もが当時の青年がナイフを取り出し刺したに違いない、と言う先入観ありきだったのだが、結局、そのナイフを取り出す瞬間をはっきりと見たと言う人間は居ない、という方向にインタビュアーは誘導して行く。

一体、この監督兼インタビュアーはどこへ向かって行くのか。
事件を冤罪事件としてねつ造してしまうのか。

途中は、さほど面白い展開でも無いのに、とにかく先を知りたくなってしまう。

この単行本、興ざめなのは、巻末に江戸川乱歩賞の選者評が掲載されているところ。
そう。この本、江戸川乱歩賞という賞の受賞作なのだ。
受賞作を発表する雑誌への選者評の掲載は当たり前だろうが、それをこの本を目的で読んでいる人に読ませるか?

選者達の多くはこの本の結末について、結構クソミソ。バカバカしくて話にならない、とまで言う人も。その人は全般的にボロクソだったが・・。
それほどではなくても結末はひどいが次回作に期待しよう、という消極的賛成の人が多いように見受けられた。

ミステリというジャンル、そもそも結末ですべてを明らかにしなければならないのだろうか。

結局、謎が謎のままでは受賞作にはならないのかもしれないが、世の中の事件、大抵は何某かの謎は残ったままだろう。
他のジャンルなら、結末はぼやかして読者の想像に委ねるということしばしばだ。
結末のリアリティの無さをけなす前に、「必ず最後に謎は明らかになる」というミステリィのジャンルならではのリアリティの無さに言及する人は居ないのだろうか。

そうか。この本のキーワードは「道徳」だ。

自ら受賞作に選んでおきながら、ボロカスにけなし、しかもそれがその本の単行本の巻末に掲載させるという大作家たちや出版社の行為は道徳的にはどうなのか。
この選者評を載せることで「これは道徳の問題なのです」という言葉を後押しするのが出版社の本当の狙いだったのかもしれない。

道徳の時間  呉 勝浩著



土漠の花


日本の自衛隊。
一度も戦闘をしたことの無い軍隊。

そんな彼らが、ひとたび武装集団に襲われたらどうなるのか。

ソマリア沖の海賊退治の支援にてジプチに拠点を置く自衛隊。
彼らに与えられた任務は消息を絶ったヘリコプターの捜索活動。

12人の部隊がその捜索活動のためにソリマア国境(実際にはソマリランド国境)へ向かう。
そこへ現れたのが救助を求める3人の女性。

ソマリアの氏族間闘争にて、集落をほぼ根絶やしにされたという。
彼女たちそのものが自爆テロ犯で無いことを確認し、部隊長は彼女らの保護を約束する。
それも束の間、3名の女性の内2名が撃たれ、自衛官もまたたく間に2名撃たれる。
女性たちを追って来た氏族の武装集団が自衛官たちをあっと言う間に包囲する。

「我々は日本の自衛官で」と自らの立場を冷静に相手に話そうとする部隊長は、五・一五事件の犬養毅の「話せばわかる」を彷彿とさせられる。武装集団は相手は有無を言わさず射殺する。

全員が並ばせられたところでもはや万事休すだ。
もはや真実を誰にも知られることなく土漠の土となって消え行くのみだ。
と思った時にたまたま小便に出ていた一人の自衛官が帰って来、その光景を目の当たりにして、敵を掃射した瞬間に皆、岩陰へと避難する。

「命令も無しに撃ってしまいました」
って、さんざん味方が撃たれているのに・・。

これが戦闘をしたことの無い自衛隊という軍隊なのだろう。

自衛隊の拠点まで70キロ。
追手に待ち伏せされやすい幹線道路を迂回しながら、大雨の後の濁流や砂嵐に襲われながら、時にはそれを逆に味方に付ける知恵を発揮しつつ追手と闘う集団になって行く。

途中、親切にしてもらった集落の子供たちを助けるために舞い戻り敵と戦う。
そうして一人、一人と味方を助けるため、はたまたは子供たちを助けるために闘い、命を落として行く。

逃げ込んだ廃墟の街では、砂嵐に巻き込まれ、そこでその追手の氏族とアフリカ最強の武装集団が一緒になり、そこへ攻めてくることを知る。

この時点で生き残りは自衛官5名と助けた女性1名。
圧倒的な人数の差。兵力の差。銃火器・武器弾薬の差。

逃げようという部下を前に指揮をとる曹長は、戦略をたててゲリラ戦を挑む決断をする。
もはや、戦わない軍隊の姿は微塵もない。

この話に登場する二人の曹長も一曹も士長も皆、英雄だ。

これはフィクションなので、実際にこんな英雄が居たわけではないだろうが、もし、これがノンフィクションだったとしてもやはりフィクションとしてしか紹介されないだろう。

自衛隊が戦った。
そんな事実が公にされれば、野党やメディアからどんな批判が集中するか。
国内は蜂の巣をつついたようになってしまい、PKOにしろなんにしろ自衛隊の海外派遣など二度と認められないだろう。

闘って命を落とした自衛官も不注意による事故死扱いに甘んじざるを得ない。
英雄が愚鈍な隊員として歴史に名を刻む。
やはり、これが日本の自衛隊なのか。

秋元康をして「この小説は危険です。やらなくてはいけないことを片づけてからお読みください」と言わしめているが、本当だった。読み出したら絶対にやめられない本だ。

土漠の花 月村了衛 著