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レインツリーの国


「はて、どこかで聞いたことのあるようなタイトル・・・」図書館戦争の連作を読んだ人ならそう思うのではないだろうか。
図書館2作目の「図書館内乱」で登場する話。小牧という図書館員が近所に住んで小さい頃から知っている女の子(今は女子高校生なのだが、耳が不自由)に薦める本、それが「レインツリーの国」という本だ。
「レインツリーの国は障害者を傷つける本だ。それを耳に不自由な女の子に読ませるとは、あまりにひどい」と騒ぎ立てる人が居り、小牧隊員はメディア良化委員会にしょっぴかれてしまうのだが、肝心の薦められた彼女の方は「私には本を読む自由もないのか」と「レインツリーの国」を読む権利を主張する。

その架空の「レインツリーの国」を実在にしてしまったのが、この本。
本編の「図書館内乱」とは並行で書かれていたらしい。

で、その内容。
ある女性がネット上にUPしていた読書感想文。
同じ本を読んで同じ様に影響を受けた主人公の男性が1本のメールを送るところからメールのやり取りが続き、メールではかなり親しい仲に。
やがて会うことになるのだが、その初デートの別れ際に彼女の耳が不自由なことを知る。

耳が不自由ということは人とコミュニケーションを取る上で非常に不利だ。
某サムラゴウチじゃないが、本当は聞こえてるんじゃないの?などと言われることもしばしばで、職場ではあまりいい思いはしていない。

この主人公の青年のなかなかに立派なところは、耳の聞こえない人の気持ちは自分にはわからない、と開き直って付き合っていくところ。
なんでも耳の障害のせいにしてしまう彼女に対して、時には厳しく、そして思いっきり優しく、誰にだってつらい事の一つや二つは抱えているんだ、と教え諭して行く。

この話、障害を乗り越えてのハッピーエンド物語でもなければ、障害者が可愛そう的なお涙頂戴ものでもないところが素晴らしい。

小牧隊員が難聴の娘に薦めたくなるのがうなずける

レインツリーの国  有川 浩 著



羊と鋼の森


2016年の本屋大賞受賞作。

なんかとっても美しい本だった。

過去、こういう美しいだけの本が本屋大賞になったことってあったっけ。

「村上海賊の娘」のようなわくわくするような躍動感があるわけじゃない。
「海賊とよばれた男」のような感動と勇気を読者に与えるわけじゃない。

ただ、美しい。

人間、天職に巡り合うほど素晴らしいことはない。
主人公はなんと17歳にして天職と巡り合ってしまう。
たまたま学校の体育館までの道案内をした相手がピアノの調律師だった。

後にわかることだが、その調律師は著名なピアニストから調律の指名を受ける様な人だった。

最初に出会ったその人の調律がどれだけ彼の心を打ったのか、ピアノを弾いたことがあるわけでも、音楽の素養があるわけでもない少年が、その人に次に会った瞬間には「弟子にして欲しい」とまで言い出してしまっている。

調律の専門学校を出た後にその師と憧れた人の店に入社するが、人の何倍も努力してもなかなか調律は上達しない。
いや、上達していない、と思い込んでいるだけなのかもしれない。

この話の中では音というものがいろいろな比喩で表現される。
調律という作業もまたいろいろな比喩で表現される。

正直、その比喩が本当に妥当なのかどうかはわからないが、その比喩の言わんとするところに共感してしまうし、そこにも美しさを感じてしまう。

調律という作業がこれほどに奥の深いものだとは思わなかった。

羊と鋼の森 宮下奈都著



道徳の時間


「道徳の時間を始めます。殺したのは誰?」ってインパクトあるなぁ。

とにかく、ぐいぐい引っ張られるような勢いのある小説。

関西のとある地方の町で発生したイタズラ事件。
小学校のウサギの死体の傍らに「生物の時間を始めます」のメッセージ。
女児をブランコから離れなくさせておいて傍らに「体育の時間を始めます」のメッセージ。
いたずらで済まないのが、陶芸家の老人が自殺を図って死んだ後にみつかった三つ目」のメッセージ。
「道徳の時間を始めます。殺したのは誰?」

とはいえ、この一連の事件はこの話の中では、ほんのおまけ。

メインは13年前に起きた殺人事件。
小学校で講演中の元教師の著名人。
そこへ、かつての教え子で現在大学四年生の男が演壇につかつかと真っ直ぐに歩んで行き、生徒、父兄、教師たち、と衆人環視の中、講演者を刺し殺してしまう。
逮捕された後も一切しゃべらず、黙秘を貫き、唯一話したのが精神鑑定にかけるかどうかの時だけ。
「自分は正常だ。責任能力はある」と。
そして裁判にて判決言い渡しの後、裁判長から一言を求められ、発した言葉が

「これは道徳の問題なのです」の一言。

あまりに摩訶不思議なこの犯人を扱ったドキュメンタリー映画を作成したいという話が主人公のところへ持ちかけられる。
主人公はビデオジャーナリストのベテランで、ある事件でつまづき、ここ半年ばかりは休業中。
ドキュメンタリー映画を作成したいというのはまだ駆け出しの若い女性監督。

そうして、ドキュメンタリーと言う名の創作映画の撮影が始まる。
女性監督は13年前の当時を知る元小学生や教師、父兄などを次々とアサインし、インタビューして行く。
誰もが当時の青年がナイフを取り出し刺したに違いない、と言う先入観ありきだったのだが、結局、そのナイフを取り出す瞬間をはっきりと見たと言う人間は居ない、という方向にインタビュアーは誘導して行く。

一体、この監督兼インタビュアーはどこへ向かって行くのか。
事件を冤罪事件としてねつ造してしまうのか。

途中は、さほど面白い展開でも無いのに、とにかく先を知りたくなってしまう。

この単行本、興ざめなのは、巻末に江戸川乱歩賞の選者評が掲載されているところ。
そう。この本、江戸川乱歩賞という賞の受賞作なのだ。
受賞作を発表する雑誌への選者評の掲載は当たり前だろうが、それをこの本を目的で読んでいる人に読ませるか?

選者達の多くはこの本の結末について、結構クソミソ。バカバカしくて話にならない、とまで言う人も。その人は全般的にボロクソだったが・・。
それほどではなくても結末はひどいが次回作に期待しよう、という消極的賛成の人が多いように見受けられた。

ミステリというジャンル、そもそも結末ですべてを明らかにしなければならないのだろうか。

結局、謎が謎のままでは受賞作にはならないのかもしれないが、世の中の事件、大抵は何某かの謎は残ったままだろう。
他のジャンルなら、結末はぼやかして読者の想像に委ねるということしばしばだ。
結末のリアリティの無さをけなす前に、「必ず最後に謎は明らかになる」というミステリィのジャンルならではのリアリティの無さに言及する人は居ないのだろうか。

そうか。この本のキーワードは「道徳」だ。

自ら受賞作に選んでおきながら、ボロカスにけなし、しかもそれがその本の単行本の巻末に掲載させるという大作家たちや出版社の行為は道徳的にはどうなのか。
この選者評を載せることで「これは道徳の問題なのです」という言葉を後押しするのが出版社の本当の狙いだったのかもしれない。

道徳の時間  呉 勝浩著