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土漠の花


日本の自衛隊。
一度も戦闘をしたことの無い軍隊。

そんな彼らが、ひとたび武装集団に襲われたらどうなるのか。

ソマリア沖の海賊退治の支援にてジプチに拠点を置く自衛隊。
彼らに与えられた任務は消息を絶ったヘリコプターの捜索活動。

12人の部隊がその捜索活動のためにソリマア国境(実際にはソマリランド国境)へ向かう。
そこへ現れたのが救助を求める3人の女性。

ソマリアの氏族間闘争にて、集落をほぼ根絶やしにされたという。
彼女たちそのものが自爆テロ犯で無いことを確認し、部隊長は彼女らの保護を約束する。
それも束の間、3名の女性の内2名が撃たれ、自衛官もまたたく間に2名撃たれる。
女性たちを追って来た氏族の武装集団が自衛官たちをあっと言う間に包囲する。

「我々は日本の自衛官で」と自らの立場を冷静に相手に話そうとする部隊長は、五・一五事件の犬養毅の「話せばわかる」を彷彿とさせられる。武装集団は相手は有無を言わさず射殺する。

全員が並ばせられたところでもはや万事休すだ。
もはや真実を誰にも知られることなく土漠の土となって消え行くのみだ。
と思った時にたまたま小便に出ていた一人の自衛官が帰って来、その光景を目の当たりにして、敵を掃射した瞬間に皆、岩陰へと避難する。

「命令も無しに撃ってしまいました」
って、さんざん味方が撃たれているのに・・。

これが戦闘をしたことの無い自衛隊という軍隊なのだろう。

自衛隊の拠点まで70キロ。
追手に待ち伏せされやすい幹線道路を迂回しながら、大雨の後の濁流や砂嵐に襲われながら、時にはそれを逆に味方に付ける知恵を発揮しつつ追手と闘う集団になって行く。

途中、親切にしてもらった集落の子供たちを助けるために舞い戻り敵と戦う。
そうして一人、一人と味方を助けるため、はたまたは子供たちを助けるために闘い、命を落として行く。

逃げ込んだ廃墟の街では、砂嵐に巻き込まれ、そこでその追手の氏族とアフリカ最強の武装集団が一緒になり、そこへ攻めてくることを知る。

この時点で生き残りは自衛官5名と助けた女性1名。
圧倒的な人数の差。兵力の差。銃火器・武器弾薬の差。

逃げようという部下を前に指揮をとる曹長は、戦略をたててゲリラ戦を挑む決断をする。
もはや、戦わない軍隊の姿は微塵もない。

この話に登場する二人の曹長も一曹も士長も皆、英雄だ。

これはフィクションなので、実際にこんな英雄が居たわけではないだろうが、もし、これがノンフィクションだったとしてもやはりフィクションとしてしか紹介されないだろう。

自衛隊が戦った。
そんな事実が公にされれば、野党やメディアからどんな批判が集中するか。
国内は蜂の巣をつついたようになってしまい、PKOにしろなんにしろ自衛隊の海外派遣など二度と認められないだろう。

闘って命を落とした自衛官も不注意による事故死扱いに甘んじざるを得ない。
英雄が愚鈍な隊員として歴史に名を刻む。
やはり、これが日本の自衛隊なのか。

秋元康をして「この小説は危険です。やらなくてはいけないことを片づけてからお読みください」と言わしめているが、本当だった。読み出したら絶対にやめられない本だ。

土漠の花 月村了衛 著



天才


あの石原慎太郎があの田中角栄を第一人称で書く。

なかなかに想像できなかったので、思わず読みたくなってしまう。

田中角栄と言えば、コンピュータ付きブルドーザーとも呼ばれ、天才的な記憶力でエリート官僚の名前や家族構成なども頭に入れ、官僚を使いこなす天才だった、というあたりはあまり書かれていない。
一人称なのだから、自分を天才とはまぁ書けないか。

岸・池田・佐藤と続いた官僚出身の総理大臣の後に本命は官僚出身の福田。
田中には官僚出身の総理とは発想の原点が違う。

その福田を破って総理になり、日本列島改造論やあの時点での日中国交改善には、賛否両論あるだろうが、官僚の発想や実行力では到底成し遂げられないことを、角栄氏は実行してきた。

石原慎太郎氏は、田中政治を若い頃は批判していたが、彼もまたも官僚の出身ではないだけに、実はその政治家としての類まれなる実行力には共感するもの大だったのだろう。

中国との接近、アメリカのメジャーに牛耳られていた石油についても、アメリカに依存しない自主外交にて資源ルートを確保して行く。

そんな脱アメリカ属国的な外交がアメリカの虎の尻尾を踏んでしまう。

田中角栄を失墜に追い込んだロッキード事件という事件は、石原氏が書くようにまさに奇妙な事件である。

アメリカでのコーチャンらの証言は、「証言内容に偽りがあっても、偽証罪とならない」つまりは何を言ってもOKという摩訶不思議な証言を元に始まったあの事件、結局、日本の司法は田中氏を有罪と断じ、政治の表舞台に立てないようにしてしまった。

政治家になってからの田中角栄氏が成立させた議員立法の数は記録的なもので、その後その記録を塗り替える政治家は現れそうにない。

石原慎太郎氏は自らの都知事時代に国相手に何度も折衝をしたがなかなか聞き入れてもらえず、その時に角栄氏が居たなら、さぞかし違っていたことだろう、と思いを馳せる。

昨年の北陸に続き、今年の3/26には北海道まで新幹線が到達した。

それを聞いたとしたら、列島に隈なく新幹線を走らせたいと思っていたであろう角栄氏は喜んだのだろうか・・・。

角栄氏が望んでいたのは脱東京一極集中、地方分権だったのでは無かったか。

昨年・今年の新たな新幹線開通は、ますます東京への集中を促すものになってやしないか。角栄氏の本音を聞きたいものである。

天才  石原 慎太郎 著



ナニカアル


なかなかにチャレンジ精神旺盛な珍しい本ではないか。
林芙美子という実在の小説家の手記が別の作家の手によって書かれてしまう。

他の実在の小説家の名前が実名で何人も出て来るので、どこまでが作った話なのか、どこまでが実際に有った話なのか、判別が付きづらいが、巻末に掲載された膨大な参考文献の数から言っても、かなり当時をまた林芙美子を忠実に再現しようとしたのだろう。

話は林芙美子が亡くなった後で、芙美子の遺品を管理していた夫も亡くなったところから始まる。
遺品の管理は芙美子の姪で芙美子の夫と結婚している女性が、知り合いに遺品の相談などを手紙でやり取りする。
冒頭はその手紙の往復から。

亡き夫は売れない画家で自ら描いた絵は全て処分するように遺しているのだが、その絵の裏から、芙美子の手記を発見してしまう。
そして、その林芙美子の手記そのものがこの小説そのものなのだ。

林芙美子は従軍作家として中国戦線の第一線を取材し、それを書き、国威発揚の文章として発表される。
もっと年を経て女流作家だけ数名集められ、シンガポール、ボルネオ、ジャワといった南方戦線へ行っての視察団に選ばれ、陸軍の意図に沿った取材、執筆を命じられる。

病院船を偽装した船で南方へ行くまでの間に船の乗務員といい中になって抱き合ってみたり、南方へ行ってから、長年の恋人だった新聞記者との再会を果たす。
お互いに妻ある身、夫ある身だ。

南方では、作家としての本来の物書きではなく、陸軍の意図に沿ったものしか書かせてもらえない。
従卒として身の回りの世話をしてくれる老兵を付けてくれ、彼は常に身近なところに居て、恋人との仲を応援してくれたりするのだが、実は彼もまた、彼女を監視する役目だったことがわかったり、と、だんだん誰も信用出来なくなってしまう。

南方各地が日本国の地図になっていくその当時の高揚感が軍部からは伝わって来るが、作家としては欧米の支配という役割を一時的に肩代わりしただけではないのか、という冷静な視点もあるのだろうが、書けるのはおそらくこの手記の中だけだろう。

結構、夫をないがしろにした人なのだが、帰国してから、夫に内緒で出産するところまで来ると、思わず「ホヘッ」と驚いてしまった。

いくら膨大な参考文献を当たったところでこの手記がどれだけ林芙美子があたかも書いたものと思わせられるかが、この本の値打ちを決めるのだろうが、残念ながら、林芙美子という人、「放浪記」を書いた人ぐらいの予備知識しかないので、私にはその値打ちの判断はつかない。
ただ、桐野氏にそのぐらいの自信が無ければ書きはしなかったであろうから、おそらく、林芙美子を良く読んでいる人にも納得させられるほどのものだったのではないか、と推察する。

大作家が書いたものとしての文章を書いてみるという作業、かなり勇気のいることだろう。
よくぞ、こういうものを書いてみようと思い立ったものだ。

ナニカアル 桐野 夏生著