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ラン


レーンを超える、と言う言葉、自分のコースからはずれてしまって、隣のコースに移ってしまった時などに使われると思うのだが、特にボーリングなどでレーンを超えてしまったら、ハタ迷惑やら、恥ずかしいやら。
いや、ボーリングに限らずどの競技でもそうか。

この本の中では「レーンを超える」という言葉が、生者の世界から死者の世界へと飛んでしまう時に使われる。

13歳の時に両親と弟を亡くして、その後の育ての親だった叔母さんにも死なれた天涯孤独の女性。

唯一の話相手が猫と自転車屋のおじさん。

その猫も亡くなり、おじさんも田舎に引っ越してしまう。

いよいよ本当の一人ぼっちになってしまった。
その自転車屋のおじさんが別れ間際にプレセントしてくれた特別仕様の自転車、ほとんど漕いでないのに勝手にスピードが出る、というシロモノでそれに乗って走っている内に彼女はレーンを超えてしまう。

レーンを超えた先に居たのは、生きていた頃より優しくなった父親、母親、弟で、その後、彼女は失った期間の家族の団欒を取り戻すかのように週に何度もレーン超えを行うようになる。
ここまでは前振り。

そのレーン超えするにはいくつかの条件が必要となるのだが、その自転車の存在がその条件をカバーしていたのに、ある時期を持ってその自転車を手放さなければならなくなる。
自転車無しにレーン超えをするには、一定時間内に40キロを走破しなければならない。

これまで5分も走れなかった彼女が、40キロ走破を目標にランニングに打ち込んで行く。

毎日、早朝に走り、仕事場の昼休みにも走る。

個性豊かなメンバの集まっている「イージーランナーズ」というチームに勧誘され、毎週の休みには集まってのチームランニングをする。

チームの目標は久米島で行われるマラソン大会へ全員が出場し、マラソン雑誌に掲載されることなのだが、彼女の目標は42.195キロではなく、あくまでも40キロの走破。

さすがに毎日走っているだけのことはある。
1時間で10キロを走るのだという。
同じペースで2時間。20キロを2時間なら、市民ハーフマラソン大会女子などでは真ん中よりもかなり上のペースではないだろうか。

孤独だった彼女に仲間が出来たこと。走り続けることで湧いて来た自信。
死者たちに会うのが目的だったものが、だんだんと、死者たちの世界との別れを受け入れられるようになって行く。

どんどん走る距離を伸ばして行く話を読んで行くうちに、読んでいるこちらも走りたくなって来る。

読み終えた翌日に久しぶりに20キロ走ってしまった。

後で後悔したことは言うまでも無い。

ラン 森 絵都 著



図書館戦争


しばらく前まで、図書館のア行の有川浩の棚には図書館戦争とその続きがずらりと数冊並んでいた。映画化が決まったり、テレビで放映された途端、棚から本は消え、予約も数週間待ちに。
映画・テレビの影響が本の業界に及ぼす営業をつぶさに見せられた格好だ。

人類の歴史の中で「焚書」という行為は行くたびも行くたびも行われている。
日本ならば、最も近いところではGHQによる、本の検閲。黒塗り。これは焚書とは言われないが事実上の焚書だろう。

ナチスドイツによる焚書。スターリンや毛沢東と言った共産党独裁国家の中での焚書。
中国の古代史の中では、秦の始皇帝があまりにも有名だが、他にも統治者が変わる都度の焚書というのはいくらでも繰り返されている。

この図書館戦争、昭和が終わって新たな年号になるというだけで、日本が戦争に負けたのでも無ければ、統治機構が変わったわけでもないのに、いきなり成立してそまった「メディア良化法」なる法律。
それを遂行すべく特務機関なる組織が出来、彼らの行うことはまさしく現代の焚書。

抵抗しようものなら力づくにても奪って破棄。
この焚書に唯一立ち迎えるのが図書館。
ここら辺の理由が良く分からないのだが、図書館法という法律で守られ、「図書館の自由に関する宣言」などを謳いあげる。
焚書にしては一貫していない、というか、図書館だけは別みたいな取り決めにしつつも武力衝突は黙認する、という極めて国の統治の上では危ない施策ではないのだろうか。
もし反政府勢力が出来るなら、当然図書館という安全地帯を根城にするだろうし、図書館へは市民の出入りは自由なのだから、そこを通しての勢力拡大も容易だろう。

そのあたりの、何故、現代の日本でいきなり・・。と言う疑問は残りつつも結構楽しめる本なのだ。

テレビの報道にては、足の不自由な人、目の不自由な人、耳の不自由な人・・・それぞれに該当する日本語が、その使われ方如何に関わらず、使われなくなってしまっている。
というよりも、絶対に使ってはいけない言葉になってしまっている。
そんな言葉が実はいくつも存在するのだが、これって「メディア良化法」みたいなものによる検閲と一緒じゃないのか。
それが行きついた先にはこんな世界が・・・というあたりが何故現代の日本でいきなり・・・の理由だろうか。

それにしても主人公の笠原郁と言う女性とその教官とのやり取り、面白すぎるだろ。



スクラップ・アンド・ビルド


又吉氏の「火花」と同時に芥川賞を受賞した作品。

母親が働きに出て、息子は一旦は就職はしたものの、辞めてしまい現在中途採用の就職活動中の無職。
そんな二人家族のところへ要介護老人の祖父が転がり込んでの三人の生活。
母が実の父である祖父を邪険に扱うのだが、これがなかなかにリアルなのである。

祖父が薬を飲もうと、水を所望したところしたら、
「自分で汲め!」
「そんな薬、飲んでも飲まんでも同じやろうが・・・」
「これみよがしに杖つきやがって」
みたいな。

それに対して祖父の方は、
「自分なんか早よう死んだらええ」
「もう死にたい」
「早ようお迎えが来んかな」

こんなやり取りに対して息子はある時、ふと目が覚めた。
自分は今まで、祖父の魂の叫びを、形骸化した対応で聞き流していたのではないか。
毎日天井や壁だけを見ている毎日など、生きているだけ苦痛だろう。
「死にたい」というぼやきを、言葉通りに理解する真摯な態度が欠けていたのではないか、と。
祖父の「死にたい」という気持ちをかなえてあげられるのは自分しかいないのではないか、と考え始めてしまうところがこの息子の面白いところ。

となると実現に向けて突っ走る。
過度な介護を行うことで、筋力を衰えさせようとか、思考能力を低下させようとか、画策し始める。
これを足し算介護と本人は呼んでいる。

方や、デイサービスなどの介護は歩ける人も車椅子に載せ、同じような足し算介護をやっているのだが、一見優しさに見えるその介護も動機が違う、とデイサービス職員に対しては、批判的なのだ。

介護老人が年々増え続ける、今日だ。
そりゃ早く死なせてあげなきゃ、と考え始める人が出て来てもおかしくはない。
しかしそれを実践しようという人は身内の介護に疲弊しきって、このままじゃ自分もダメになる、と追い込まれた人だろう。

この青年ほどに祖父の事を思いながら実践しようという例は皆無ではないのだろうか。
祖父は予科練から特攻隊へ行くはずだった。だから生への執着などあるはずが無い。
誇り高い特攻隊の生き残りにちゃんとした尊厳死を、と真剣そのものなのだ。

それにしてもこの祖父・母をはじめとする周囲のやり取り、あまりに生々しく実体験してないものにはなかなか」書けないだろう。

こちらの受賞そのものは又吉氏フィーバーでほとんど騒がれることも無かったが、面白さの点ではこっちに軍配かもしれないな。