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昨夜のカレー、明日のパン


義理の父親の事をギフ、ギフとペットのように呼ぶヨメ。
ヨメと言いながらもその夫は7年も前に他界している。
25才という若さで。
ということはこのヨメも相当若かったに違いない。
姑であるはずの夫の母親は夫が高校生の時に他界している。

ということは、この若いヨメは実家に帰ることを選ばず、ギフと暮す方を選んだわけだ。

職場へ行けば、結婚しよう、結婚しようと言い寄って来る男があり、別に嫌いではないのだが、彼女にその気持ちはこれっぽっちも無い。

亡くなった夫を中心円にして、その生きた時代に周囲に居た人々。
そんな人たちが順番に主人公となり、日常の小さな話を語っていく。

時には、亡き夫の幼なじみだったり、亡き夫の従兄弟だったり、亡くなったギフの妻の若い頃だったり。
彼女は特殊な能力を持っているのだった。
知っている人が亡くなる予兆が現れる。涙が止まらなくなると決って誰かが死ぬ。
百田尚樹の「フォルトゥナの瞳」を思い出したが、あれは寿命の短くなった人がどんどん透明に近づくので、誰が死ぬかはわかっているのだが、彼女の場合は、その誰がまったくわからない。
でも、それがきっかけでギフと結婚することになったようなものなのだ。

秋になればイチョウで黄金色いろになるこの亡き夫家の庭。その庭で取れた銀杏を食することの出来る家。

なんだかんだとそして皆、この家がいごごちがいいのだ。

本屋大賞の2位になったというこの本。
時代は行ったり来たりするが、平凡な日常の中でのちょっといい話が集約されている。

昨夜のカレー、明日のパン  木皿 泉 著



火花


芸人初の芥川賞受賞で大いに盛り上がった作品。

文芸春秋が出る前に購入して読んでしまっていたのだが、選者の評が読みたくてやはり文芸春秋も結局購入してしまった。

選者評では、エンディングの書き方を知らないんじゃないか、という人は居たが、概ね好評。
ただ各選者共、他の作品よりこの作品へのコメントが少ない様に感じられてしまった。

選者の中でも村上龍が「文学に対するリスペクトを感じる」と書いてあった。
村上龍が「リスペクト」という言葉を使う時は大抵、絶賛なのだが、そのすぐ後で「話が長い」とコメントされている。
実際の長さは問題ないのだろう。読んでいる人に「長い」と感じさせるところがよろしく無いのだと。

売れない漫才師の主人公が、これまた売れない先輩漫才師の神谷を好きになり、弟子にしてもらう。
話も大半がこの二人の会話なので、漫才のような軽妙な掛け合いを期待してしまう。
確かにそういうボケとツッコミは各所出て来るが、そこはさほどに大笑い出来るほどのやり取りではない。

主人公も神谷もいかにも要領が悪いように見えるが、神谷は要領が悪いと言うよりも単に自分に正直に生きているだけなんだろう。
その自分に正直の基準が一般人よりかけ離れているのが面白い。

同居していた女性の家を出ざるを得なくなった時に「一緒に来てくれ」までは普通だろう。
そこにいる間、勃起しておいてくれって発想はどこから来るんだ。

かと思うと主人公は芸人を止める決断をする時に、芸人をボクサーにたとえたりする。
ボクサーなら殴ったら終わりやけど、お笑いのパンチをいくら繰り出しても犯罪にはなれへん。
その特技を次の仕事で活かせ!などと凄い説得力のある言葉を繰り出したりもする。

とうとう新たなジャンルが出て来たか、ぐらいの期待度で読んだから、読み手として勝手にハードルを上げすぎてしまった感があるので、少々期待に至らなかったとしてもそれは著者の責ではない。
この神谷の存在が光っているので、まぁ、そこそこに楽しめる本ではあるが、それでも村上龍の言う通りちょっと長く感じたかな。

火花 又吉直樹 著



占星術殺人事件


1980年代後半という結構古い作品なのだが、最近になってまた改訂されて文庫化されている。
事件そのものはそれよりさらに昔の40年前。
二・二六事件のあった日が事件の発端。
そんな時代の事件を解決して欲しいと依頼を持ちこまれる話。

放蕩画家でもある資産家の家の主人の異様な手記から話は始まる。
その手記の中に書かれていたのは、この主人、なんと実の娘と妻の連れ子の娘、そして弟の娘、20代の娘合わせて6人を占星術ならぬ星座の情報を元に引き裂き、つまりは殺人をしてその後自分も自殺をこれからしよう、というシロモノ。

ところが、この画家が真っ先に殺害されたのにも関わらず、娘六人の殺害は手記通りに行われ、手記に書いてある通り、日本全国の各地に遺棄され発見される。
この事件が報じられてから40年間、日本全国のにわか探偵にありとあらゆる推理をさせたが、解決に至らなかったという事件だ。

この話、トリックものとしては別にケチをつけるつもりはないが、結構突っ込みどころ満載の筋書き書いておきながら、この作家の自画自賛、自惚れの強さがどうにも好きになれない。

身体を切り取るって臀部なら臀部の一部を切り取るのかとばっかり思っていたら、身体を切断するんじゃないか。
ネタバレ承知で書くと、これで若い女でも充分に出来るだろう、ってどんな神経で書いてるんだ。

桐野夏生の小説に「OUT」というのがあるが、これには死体を切断するのがどれだけ大変な作業なのか、えんえんと書いてある。

桐野夏生はひょっとしたら、この本をかつて読んでそれに反発して書いてたりして・・・。
まぁそれはないか。
風呂場で大人の女性の身体を切断する。
どれだけの血が出るんだ?昭和11年頃なら、風呂の水はそのまま家横のどぶにでも流れてたんじゃないのか。
家脇のどぶが血で一杯になって、隣近所の付き合いの多い時代、それに気がつかないで放置する隣人なんていないのでは?と思ってしまう。

それに犯人が警察官を巻き込むのも計画通り、というよりあれがなければ計画は成り立たないが、うずくまって気分が悪そうな女性を家の中まで連れて帰ることぐらいは誰しもするだろうが、電気を消したからと言って誰でも即男女の関係になれてしまうような計画ってずさんすぎるだろ。
中にはそういう男(警察官)もいるかもしれないが、大抵は、そこで安静にしてなさいね。私はこれで失礼するから。とそそくさと帰ってしまうとは考えないのか。

そんな突っ込みどころは満載であっても、普段は「ああこれはそういう読み物なんだから」で流してしまうところなのだが、この作者の厚かましいところは読者に挑戦状をたたきつけるところ。しかも二度にもわたって。
この作者、江戸川乱歩が大好きで松本清張のような刑事が足を使って捜査をするような作風が世を謳歌しているのがよほど気に入らなかったのだろう。

この一冊が出たことで、世の流れを変えたみたいなことをあとがきで書いている。
戦後のミステリのBEST3の一つだとも思っているようだ。

今回の改訂でだいぶん書き直したらしいが、それならもっと要らないところを削ったらどうなんだ。
事件の真相とは全く無関係な東淀川区の豊里あたりの風景だとか、明治村だとかやたらとその情景を細かく書いているが、後々の伏線にもなっていない。
自分が訪れた所は書かなきゃ損みたいにでも思ってるのだろうか。
なんでもデビュー作だそうで、ならば、若気の至りを少しでも反省するかと思えば真逆なのに驚いた。
原作には無い図解を増やしたというが、20枚の一万円札を21枚にするトリック(これは実際にあった事件らしいが)にしても図解が下手で、21枚になったというのがこの絵からはわかりづらい。

女の人を切断する絵を何枚も何枚も使って説明する必要があるのか。
これは猟奇殺人ですよ。
これだけ突っ込みをいれたくなるのも作者のあとがきのせいだろう。

だまって終わりにすれば良かったのに。
なんとも残念な人だ。

占星術殺人事件   島田荘司著