作成者: admin



天使の柩


日本人の父親とフィリピン人の母親の元生まれた茉莉という少女。

小さい頃から父方の祖母に

「おまえはバイタの娘だ」

「なんて、いやらしい」

などと言う言葉を散々投げかけられて育ったのだった。

自分自身で自分を醜いと思っている。

その祖母の仕打ちに耐えられなくなったのか、母親はとうの昔に逃げ出し、そしてその祖母も亡くなり、父親と二人の生活になるのだが、この父親がこの頃にはもうおかしくなっている。

娘と顔を合わせない。

仕事から帰って来ると茉莉は自ら自室に入り、父は外側から鍵をかけ、中から出られないようにする。
朝、出かける前には鍵を開けてから出て行くので、監禁したいわけではない。顔を合わせたくないのだ。

だから、茉莉が風呂に入っている間は父は自室に籠り自室の鍵を閉める。

たった14歳の少女にどんな試練を負わせるのだろう。この作者は。

そんな生活をしているので同じ屋根の下に住みながら、父と娘は顔を合わすことが無い。

そんな異常な生活を激変させたのが、子猫を虐待する子供達から子猫を守った時に、子供達との間に入ってくれた歩太という自称画家との出会い。

学校にも家にも居場所の無かった彼女はとんでもないわるガキにつかまってしまうのだが、初めて出会ったまともな大人である歩太を脅すという人質を取られて、更なる深みへはまっていきそうになる。

彼女は、自分は醜く、穢れている、というのだが、顔も見せない父親のために毎晩夕食を作り、父親が自殺しないようにと心配し、全くの赤の他人である歩太のために自らの身体まで投げ出そうとする。

まさに天使の心を持った少女ではないだろうか。

天使の柩 村山由佳 著



数式に憑かれたインドの数学者


数学という学問、中学・高校までなら論理的思考を身につけるための学問という大義名分があるが、その先の課程、専門課程として取り組む数学やその先を行く数学者と呼ばれる人達が生涯をかけて成そうとする証明。
その証明が出来たところで、世の中何が変わるわけでもない。
誰が得をするわけでもなく、昨今話題を振りまいた「STAP細胞」のように、存在すれば世の中が大きく変わるといったこともない。まぁ、たいていの場合は。

仮に素数の成り立ちを数式で表し、それが正しい事を証明できたとしても、喜ぶのは世の中のほんの一握りの数学者、もしくは数学者を目指す学生達ぐらいのものか。

インドに生まれた天才数学者、ラマヌジャン。
この本、ラマヌジャンの評伝だということだったが、ラマヌジャンのことより、ラマヌジャンをインドからイギリスへ呼び寄せたケンブリッジ大の数学の教授ハーディの周辺の記述の方がはるかに多い。

ハーディの性癖(同性愛者なのだ)とハーディの周辺、そしてハーディから見たラマヌジャン。
そんなハーディ中心のタイトルの方がフィットする。

こお本ではラマヌジャンの偉業よりも彼がイギリスへ来てからの食事の悩みや体調の悩みの方が文字の分量としてかなりウェイトが高い。
大昔、ガンジー伝を読んだ時に、ガンジーがイギリスで学ぶ時にそんな食事の悩みなどという記述があっただろうか、さっぱり記憶に無い。
まぁ、食事の悩みや体調の方をメインにするのは致し方ないのかもしれない。
彼の思い付く算式をえんえんと書かれたって、読者には何のことやらさっぱり、なのだから。

ラマヌジャンには数式が湧いて出て来る。
数式が舞い降りて来る。
彼曰く、ヒンドゥーの女神ナマギーリが彼に数式を示すのだそうだ。
彼は証明が苦手。
ハーディは彼に証明の大事さを教えようとする。

だが、もし数式が勝手に舞い降りて来るのなら、その証明などどうやって出来ようか。

ラマヌジャンが数式を導き出す課程が本当にそのようなものだったのなら、ラマヌジャンにとって数学とは冒頭に書いた論理的思考を身につけるための学問でさえ無いということになってしまう。

この本はノンフィクションではない。

とはいえ、この時代について作者はかなり念入りに調べたのであろう。
第一次大戦前や、大戦中のイギリスという国の空気、ケンブリッジの周辺の空気などがかなり濃密に伝わって来る。

数式に憑かれたインドの数学者 上・下 デイヴィッド・レヴィット 著  柴田 裕之 訳



知られざる坂井三郎 -「大空のサムライ」の戦後


小学校の頃に、ゼロ戦の戦闘記を読んで感激した覚えがある。
戦後も生き延びたとされていたと思うのでひょっとしたら、この坂井三郎さんが書いたのか、誰かが坂井三郎さんのことを書いたのを読んだのかもしれない。

この本「撃墜王」として名を馳せた坂井三郎さんが亡くなって13年、坂井さんをを偲んで「零の会」という会の方々が文章を寄せている。

「零の会」という会の名前からして、元零戦のパイロットの集まりだろうと思っていたが、もうそんな人は何人も残っていないか。
この会の人は全員零戦に乗るどころか、戦争も体験していない坂井三郎さんのファン、もしくは坂井さんを師と仰ぐ人たちだった。
ゼロ戦の操縦士としての達人は人生の達人でもあった。

坂井さんの書いた本を読んだからと、いきなり家へ訪ねて来た人ですら、本に揮毫を書いて下さるだけでなく、家にあげてもてなしてしまう。
ヒマな人かと言えばとんでもなく、講演会では引っ張りだこ。執筆の頼まれごとも数多い。

この本の構成は良く考えられていて、半ばまでがそういうファンの人たちの思い出話なので、これ以上続いてもなぁ、と思う頃に息子さんが登場し、意外な事実を暴露。
次に娘さんが登場。戦後教育の走りだっただろう娘さんにしてみれば、父が軍人だったことそのものが名誉のはずがなく育ってきているのだが、アメリカへ留学し、アメリカ人の軍人と結婚し、父親の通訳を何度も経験した彼女はまぎれもなく父を尊敬している。

そして最後が坂井氏の監修によるゼロ戦に乗る際のマニュアルだ。
とたんに面白くなってくる。

坂井氏の言っていること、書いていることでは、百田尚樹氏のベストセラー「永遠の0」の中で触れられている、ラバウルのことや南方戦線のことを思い出した。

百田氏も坂井氏の書いたものや話されたことをかなり参考にされたのではないだろうか。

「永遠の0」の主人公宮部と坂井氏の何よりの類似は生きて帰るんだという強い意志。
宮部が生きて家族のもとへ帰ることを第一義としていたのに対し、坂井氏は戦うためには生き続けなければなんにもならない、と目的のところは違うかもしれないが、生き残るための安全性の確認たるや、徹底している。

戦後にもそれは生き続けていて、安全性確保のためのネジが3本あるはずのところ、2本で応急対処している状態などを決して放置出来ない。

それより何よりこの人、撃ち落とす相手あったアメリカ軍兵士に絶大な人気があり、毎年のようにアメリカの式典などに招待されている。

それは坂井氏が書いた本の英訳版の英訳本の影響もあるかもしれないが、坂井氏の話に死地をくぐり抜けた軍人同士でしかわかりあえない共感のようなものがよびさまされるからなのかもしれない。

知られざる坂井三郎 -「大空のサムライ」の戦後- 零の会 編