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桜ほうさら


上州だったか甲州だったかの方便で「いろいろあって大変やったねぇ」ということを「ささらほうさら」 と言うのだそうだ。

剣の腕もさほどではなく、犬に脅えて逃げたとのうわさがたつほど。
土いじりをし、庭で野菜を植えるなど、妻から言わせれば武士にあるまじき情け無き夫。ただ、謹厳実直だけが取り柄で誤った道に進むことだけはありそうにない。

そんな父。

そんな父があろうことか出入りの商人から賄賂を受け取った嫌疑をかけられ謹慎させられ、その謹慎中に自らの潔白を晴らすこともなく切腹してしまう。

賄賂のやり取りの証拠として店が出して来たのがまさに自分が書いたとしか思えないほどに自分の筆跡にそっくりな証文だったのだ。

その息子である主人公の笙之介。

江戸へ出て来て、町人の長屋に住み、貸し本屋から頼まれた写本業をやりながら、人の筆跡をそっくり書ける代書屋探しを始める。

それにしても江戸時代の武家にこんな家があるだろうか。

笙之介の母は、いくら位の高い家から嫁に来たとはいえ、夫をないがしろにし、事あるごとに息子には夫が情けないとぼやく。
笙之介の兄は剣の道を極め、母親には自慢の息子。
その兄もまた父を尊敬しようとはしない。
父と性格の似た笙之介は母から疎んじられる。

現代の家庭ならそこらにありそうな話だ。
「お父さんのようになりたくなかったら、勉強しなさい」なんてそこら中で言っていそうだ。

うだつのあがらない亭主を妻が馬鹿にし、エリートコースを貪欲に目指す長男を溺愛し、父に性格の似た次男は相手にすらしない。

さしずめ、江戸時代を舞台にした現代物語といったところか。

現代もまた「ささらほうさら」いろいろあって大変なのだ。

桜ほうさら  宮部みゆき著



紙の月


過去に女性のベテラン行員による巨額の横領事件は何度か起きている。

その内の一つがモデルだったのだろうか。

この手の事件が起こるたびに思い出すのが某食品大手メーカーの社長が男性社員の一人に1年間、会社の仕事はしなくていいし、いくら使ってもいいしどんな遊びに使ってもいい。1年間で一つだけ何か商品開発のアイデアを持って来てくれればそれでいい、と言われたサラリーマン氏の話。
彼は億どころか何百万の単位ですら使う事が出来なかった。

それに比べてどうだろう。
若い男への見栄なのかもしれないが、高級ホテルのスイートルームを常宿としてみたり、若い男が住めるようにマンションを借りてみたり、そのマンションの家具や食器類まで高級なもので揃えてみたり、若い男に車を買ってやったりと、散在してしまった金は1億円。

元はと言えば正義感の強い女性。
不真面目だとか自堕落なところは学生時代を通して一度も無い。
クソがつくほどに真面目な人なのだ。

夫が自分の方が稼ぎが多いことをあからさまに言われたところで、彼女の友人が勧めたように、おだてておけばいいものを、それが出来ない。
夫の言葉に違和感を遺したまま、過ぎて行く。

もしあの時、あの若い男性と会わなければ、もしあの時・・・とIFは続くが、
そもそも、自分から何かをやりたいと感じたり、何かをやろうとしたことがないひとなのだ。
違和感を持ってもそれを解消することなく、惰性ですごしているが、実は本当ははじけたかったわけだ。
そのいくつものIFはそのきっかけを与えたにすぎない。
多かれ少なかれ、形は違えど何か道を踏み外していたのではないだろうか。

この本に登場する人たち、同じように際限なくカードローンで買い物をしてしまう人。
真逆に節約節約で子供に小遣いさえ与えず、貯め込む人。

離婚した後に夫と暮らす娘が会いたいと言ってくるのは金のかかる欲しい物がある時だけ、という人。

みんな金に振り回されている人ばかり。

なんとも夢の無い本を書いてくださったものだ。

「アンタ達、男には到底マネできないだろ!ガッハッハ!」とでも笑い飛ばして終わりにしてくれた方がよほど救いがある。

紙の月 角田光代 著



いつまでも美しく


                   -インド・ムンバイのスラムに生きる人びと-

ムンバイのスラムと言えば「シャンタラム」という本を思い出す。
ムンバイがまだボンベイと呼ばれていた頃の話なのだが、母国で犯罪を犯した男がボンベイへ辿りつき、スラムで暮らす。
そしてそのスラムの中に溶け込んで行く。
スラムの中の風景が存分に描かれていた本だ。

この著者、キャサリン・ブーという人、ピュリッツァー賞を受賞ことがあるというから、ジャーナリストとしては優秀なのだろう。

ムンバイの空港の近くにある「アンナワディ」という名前のスラムについて、3年半に及ぶ現地での密着取材の上に書かれたのだという。

もちろんドキュメンタリーかそうでないかの違いは大きいが、「シャンタラム」に登場するスラムの住人たちは、互助の精神が有り、スラム全体が運命共同体であり、尚且つ貧しい中にも明るさがあった。

こちらは100%ドキュメンタリーだが、この圧倒的な絶望感はなんだろう。
ボンベイからムンバイになって約20年。この20年でインドは国としては目覚ましい勢いで経済成長を遂げている。
その発展とは裏腹にどこまで行っても救いの無い人々。
ゴミ扱いされる人。
金の亡者となった人。
役所も警察も司法も政治家も汚職まみれ。賄賂無しでは話は何も進まない。

この本の中では「アンナワディ」の中でも少数派のイスラム教徒でゴミの仕分けをなりわいとするフセイン一家に見舞われた災難が取り上げられる。
隣家の女と口論の末、女が「はめてやる!」と言ったかと思うと灯油を身体に被って自分に火を付けてしまい「連中が火をつけた!」と叫ぶ。
想定よりも灯油が多すぎたのだろう。惨事となる。

その女の娘が母親が自分で火をつけたのを目撃したという証言があるにもかかわらず、警察はフセイン一家の父親と稼ぎ頭のアブドゥルを拘束し、自白を迫り、暴行する。
フセイン一家ならふんだくれると踏んだのだろう。不利な証言を撤回させるから金をよこせ、と誰もが言って来る。

この本に登場する人の中で異色を放ったのはアシャという女性だろう。
女性では珍しいスラムの長になる野心も満々。
ヒンズーの勢力の党に属し、地方政治家をバックに持ち、何かとトラブルがあれば間に入って口を聞くことで金を巻き上げる。

スラムの人も決して彼女を好きではないが、頼りにせざるを得ないので、彼女に相談に行く。
ゆくゆくは女性政治家でも目指しているのだろうが、住んでいるところは相も変わらないスラムの中。

この本に登場する人物も全てそのままの名前で実在するドキュメンタリーなのだという。
実名をそのまま使う、というのはまさかスラムの人間からクレームを付けることがないからだろうか。

とても不思議なのが、3年半もその地に密着していれば、スラムの人たちになんらかの影響を与えないはずがないと思うのだが、この本には作者の影が全くない。
ドキュメンタリーに徹したと著者は言い、登場人物が三人称で表現され、彼らに介入しないことで小説のように見えるドキュメンタリーと書評や訳者は誉めており、全米で大きな反響を呼んだとされているが、影響を与えないとはどういうことを意味するのだろう。

相談事などでも自分たちを取材するアメリカ人が身近にいるとなれば、強欲なアシャに頼むことなく、このキャサリン・ブーさんに頼んだのではないだろうか。
シャンタラムの中で皆がリンを頼ったように。

アシャにしたって、ピュリッツァー賞を取ったかどうかは知らないにしても欧米のメディアの人が近所に居るとなれば、かなりのおべっかを使いに来ただろうし、自分が人をだましている姿などは見せないようにするのじゃないのだろうか。むしろアシャはこの記者を利用しようとするだろう。

アシャの娘のマンジュが開く学校での英語の教育も黙って見、マンジュがEnglishで悩んでいた際も黙って見て、とにかく影響を与えないようにしたのだろうか。

人の命がかかっていても黙って見ている方を選ぶのだろうか。

このあたり、取材をする側、される側双方に信頼関係が無ければ本音の取材はできないだろうから、実際には影響は与えていたのではないのか。
ならば、それをそのまま書いた方が自然であろうし、それもドキュメンタリーだろう。

いつまでも美しく -インド・ムンバイのスラムに生きる人びと- キャサリン・ブー 著