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夜の国のクーパー


まるでおとぎ話のような物語。

妻に浮気をされたという、株好きで釣り好きの仙台の公務員が主人公。

海に釣りに出たはいいが、遭難。
気づいたら見知らぬところで縛られて横たわっていた。

で、目に前には一匹の猫。

その猫が話し始める。
もう一人の主人公はその猫だ。

猫が語り手となって物語はすすんでいく。

その猫の住むという国は戦争に負け、占領軍がやって来て、住民から慕われていた王様を撃ち殺してしまう。
ちょっとこれまでの伊坂幸太郎の作品とはやや、趣が異なる。

猫はあくまでも人間の世界のこと、と傍観者の立場なのだが、やはり自分の住む国の人を応援する気持ちはあるのだ。

王様の息子というやつがとんでもない自分中心主義のやつで国民のことなどこれっぽっちも考えない。
自分の身の安全のためなら、平気で国民をだましたりもする。

そんな一部始終を冷静な目で猫から観察される人間たち。

クーパーというのは杉の木のさなぎから孵化する怪物で、身体の中には毒の液体があり、それを浴びると人は透明になってしまうのだという。
その町から選抜された兵士が毎年選抜されてそのクーパーを退治しに行っていたのだという。

クーパーを退治しに行った兵士が透明になって町を救うという伝説があり、占領軍に脅える人々はクーパーの兵士の登場を期待する。

この物語はいくつものどんでん返しが待ち構えているので、それを書くわけにはいかないが、まさに占領軍の隊長が言う
「何が正しくて、何が誤っているのか、自分で判断しろ」
という言葉はそのまま現代人にあてられた言葉なのではないだろうか。

戦争に負けるとはどういうことなのか。

占領軍に支配されるとはそういうことなのか。

この国はかつてそれを体験したはずなのに、それは忘れられようとしている。

かつての敗戦の時は、天皇の存在が日本を救った。

全ての責任は自分にある。
自分の身はどうなっても良い。

そんなことを口にした敗戦国の支配者に遭遇するとはマッカーサーは露ほどにも思っていなかっただろう。
実際には支配者などでは無かったのにも関わらず。

この物語に出て来る国王の息子とは正反対。

しかしながら、日本人が支配を受け入れる中でどんどん骨抜きにされていくことは止められなかった。

さて、この物語の中の国民たちはどんな形で骨抜きにされていくのだろう。

猫に追いかけられてばかりにの鼠が猫に交渉するシーンも面白い。

蹂躙されるのが当たり前の立場の連中が、それは実は理不尽な行為なのだと思い当たり交渉してみようとする。

何か深く読めば一つ一つの事柄にいろんなメタファーが込められているようにも思えてくるが、なーに難しく考えることはない。

楽しんでもらうために書いているんだ。

面白いおとぎ話として、存分に楽しめば、それで充分だろうと思う。

夜の国のクーパー 伊坂 幸太郎 著



ことり


身寄りのない男性の遺体が鳥籠を抱えたままの状態で発見されるところから物語は始まる。
男性は近所の幼稚園の鳥小屋の掃除を永年やっていた人で、人からは「ことりのおじさん」と呼ばれていた。

このおじさんには幼い頃から鳥のさえずりを話し言葉として理解する兄がおり、その兄もある時を境に、人間の言葉を捨て、「ボーボー語」という自らが編み出した言葉でしかしゃべらなくなる。
何を言っているのか誰にも理解出来ないのだが、不思議な事にまだ幼い弟だったおじさんだけにだけは理解できたのだ。

やがて兄弟は成長し、弟であるおじさんは保養施設の管理人の仕事につき、兄は仕事をするでもなく、弟の世話になる。
弟は昼時ですら毎日欠かさず帰宅し、家で待つ兄とサンドウィッチの昼食をとる。

兄は、ひたすら幼稚園の鳥小屋の前で小鳥のさえずりを聞く。
唯一の行動はといえば、昔から行きつけの薬局へ必ず水曜日に行き、棒つきキャンディーを買ってくることぐらいだろうか。

周囲の人から見れば、小鳥と話している、などと理解されるわけもなく、失語症の兄と自閉症気味の弟の二人が世間と隔絶した生活を送っている、としか見えなかっただろう。

超絶してしまった人間というものは強い。
人の目を気にすることも無い。
誇り高く気高いほどに小鳥を理解し小鳥を愛している。

弟はというと人と話せてしまうので、兄よりは不利ではあるが、それでも小鳥に対する愛情は人並み外れている。

生涯独身のまま小鳥だけを愛したこの兄弟。

行動半径もまるで鳥籠の中の小鳥のように狭く、日々の行動もほとんど変わりがない。

兄の亡くなった後の幼稚園の鳥小屋は弟が引き継ぎ、その掃除を園長に任され、おじさんは無償奉仕で引き受ける。

孤独でせつない人の話と思えることだろう。

ところが、それを決して可哀そうな人たちとして描かないのが小川洋子さんの持つ独特の世界。

小鳥と共に幸福感で一杯の人生を送った二人。

他人の目というものは誠にあてにならないものなのだ。

ことり 小川洋子著



下妻物語


先日レンタルビデオショップで深田恭子・土屋アンナが主演の映画「下妻物語」を借りた。

だいぶ前の作品だが、面白かったので原作の小説も読んでみた。
主人公はロココの時代のフランスに生まれたかったという17歳、桃子。

ロココは、バロックというとてもお堅い文化が弾けた後に台頭してきた文化である。
実用的や合理的だとかいうことを主軸としていない文化で、美しくて可愛いならそれでいいし、楽しいならなんだって良いのだ。

快楽主義なこの時代は、軽薄で不真面目な文化だったと言われることもしばしば。

華やかなフリルやレースのついた服、パニエで膨らませるスカート。
桃子はロココの精神を受け継いだ、ロリータファッションをこよなく愛している。

お気に入りのボンネットに穴が開けば、その穴に一生懸命かわいらしい刺繍をほどこして使い続ける。
ひとつひとつのロリータアイテムに愛着を持ち、大事に使い続けている。

服に穴が開けば捨ててしまい、流行が過ぎれば飽きてしまう我々は、見習わなくてはならないところがありそうだ。

そんなロココに夢見る桃子だが、現実は兵庫県尼崎出身で、今住んでいる場所は茨城市下妻。

「今が楽しければそれでいい」というロココの精神を貫く彼女だが、それはただの自己中心的な性格でしかなく、友達は一人もいない。

そんなある日、桃子とは見た目も中身も対照的な下妻のヤンキー、イチコに出会う。
最初はイチコに連れられて、嫌々行動を共にしていた桃子。
自分の幸せにしか興味のなかった桃子が、イチコに振り回されているうちに、次第にイチコの為、人の為に行動するようになっていく。

その姿があくまで「さりげなく」描かれているのが、この作品の魅力かもしれない。

ロリータとヤンキーという異質な組み合わせの、コントのような面白さだけでなく、人がそれぞれ持つ性質を深く掘り下げた作品でもあるようだ。

下妻物語 嶽本野ばら 著