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ジパング島発見記


以後よく(1549年)伝わるキリスト教。
誰しも頭に残っている年表語呂合わせではないだろうか。

1500年代に日本を訪れた宣教師たち。
その時代に日本を訪れた7名の西洋人の目から見た日本。

彼らも布教するためなら、と数多の危険を顧みず、ここまでたどり着いたというキリスト教でいうところの聖人君子ばかりだったか、というと、どちらかと言えば、せっぱつまって、やむにやまれぬ事情でジパングまで流れ着いてしまったという人の方が多かったりする。

7名の人の視点で、ルイス・フロイスが書いたが如くに書いてはいるが、それぞれの一篇一篇はルイスフロイスが書いたものを下敷きとした作者の創作だろう。

7名の人達の見る日本と日本人のイメージはそれぞれ異なるが、共通しているのは、仏教や八百万の神を悪魔だのと嫌う点。
それに織田信長に対する畏敬の念だろうか。

「織田信長が本能寺で討たれなければ、日本は早い段階から開かれた先進国ぬなっていたものを、三河の田舎の閉鎖意識が国を閉ざしてしまったために最新技術に乗り遅れた」のとおっしゃる歴史学の先生がおられたが、果たしてそうだろうか。

江戸鎖国260年は、日本独自の洗練された文化を生み、日本独自の道徳観、倫理観などに磨きをかけたのもこの期間あってのことだろう。

それに宣教師を送りこんで、住民を懐柔した後にその地を植民地化していくのは当時のキリスト教国の常套手段だった。

秀吉がバテレン追放を行い、江戸幕府がキリスト教を禁教したのは極めて妥当なことであったろう。
逆に言えば、その当時にこの島国にあってよくぞそれだけアンテナを張りめぐらせてキリシタンの情報を収集したものだと感心してしまうほどだ。

この作品、こころみとしては面白いが、好きか?と尋ねられたら、決して好きな作品とは言い難い。

ジパング島発見記  山本 兼一 著



海辺の小さな町


ある青年が住み慣れた東京で受験せず、愛知県の大学へ進学し、知多半島と思われる海辺の小さな町で暮らした4年間を描いたもの。

宮城谷昌光と言えば、中国古代の専門家。中国古代ものと言えば宮城谷昌光以外の名前はそうそう浮かんで来ない。
そんな宮城谷氏が、日本を舞台にした現代の青春小説を書いているというのを聞き及んで早速、購入に至った。

確かに青春小説には違いないだろが、ずいぶんと良く出来た学生さん達なのだ。
今どき、こういう学生さんにに巡り合うことはそうそうないだろう。
学生というより書生さんという言葉がぴったりとくるような学生さん達だ。

下宿へ入ったその日に隣の部屋の同じ一回生と早くも友達になる。
クラシックが好きでかなりマイナーな曲でもすらすらと作曲家やタイトルが言えてしまう。
女性に対する視点も一昔前の少年のような純朴そのもの。

宮城谷さんの学生の頃ってこんな感じだったんだろうな、と思わせられる。

主人公は友人のすすめもあって写真にはまり出すのだが、その描写はこの作品が写真雑誌に連載されていただけあって、かなり専門的なところまで掘り下げられている。

実際に宮城谷氏そのものも本格的に写真にはまっていた時期があって、この本にも出てくるような写真雑誌の月例コンテストに応募し、賞も受賞したのだという。

写真がテーマだからというわけではないだろうが、文章が写実的で美しい。
風景が目に浮かんで見えるようにも思える。

それを持って宮城谷氏らしいという評に出くわしたが、私はそうは思わない。
中国古代を描いている宮城谷本からはこんなありありとした風景は見えて来ない。

宮城谷作品の新たな一面を見たような気がする。

海辺の小さな町  宮城谷昌光



abさんご


いやぁ、どんだけ読みづらいんだ。

こんな読みづらい読み物ってそうそうあるもんじゃない。

小説が横書きだとこんなに読むづらいものなのか。
いや、横書きというだけでなく、ひらがなばかりというのはこんなに読みづらいものなのか。
「アルジャーノンに花束を」で主人公のチャーリイがだんだんと元の知能に低下していく最中の文章 「 けいかほうこく 」 みたいなのが最初から最後までだったらどうだろうか。

冒頭3ページを読んで、結局何も頭に残っていないことに気付き、また先頭から、ということを何度か繰り返えすうち、これはこのまま読み進んだ方が良いのだ、とばかりに最後まで一気に読んではみた。読んではみたと書いたが実は読んだとは言えないのだ。文字の上も目がなぞったにすぎない。

なるほど、確かに中ごろになると少しは横書きにも、ひらがな文にも多少は慣れては来るが、内容を理解したとは言い難い。

二度目のチャンレジをしてみてもまだ、ようやくおぼろげに、といったところか。

読みながら、なんでこれが芥川賞なんだろうか。と何度いぶかしく思ったことか。
なんでも作者は校正を手掛ける人。
常日頃、作家はかなり校正者にお世話になっているのだという。
まさか校正者へのおもねりではあるまい、と、選者の先生方の評を読んでみると、どうだろう。結構選者先生達も苦労して読んだらしく少し安堵。

3回読んでようやくわかった、という人もまでいる。

選者の先生方の評を読んでようやくわかったことはこの本はあえて読みにくく、ゆっくりと何度も反復して読まれるように書かれている、ということ。

では、なんでそんなに敢えて読みにくく書く必要があったのだろうか。

作者のインタビューの中に答えがあったように思う。
この作者、一作を仕上げるのに10年の歳月を費やして推敲を重ねるのだと言う。

10年もかけて書いたものをたった2~3時間で読み終えさせてたまるか!
この作者はそんな無粋な言葉は言わないだろうが、あえて何度も反復して読まれるように、という気持ちの本音はそれだけ推敲した後をしっかりと探しなさい、という意思の表れなのかもしれない。

「蚊帳」のことをわざわざ「へやの中のへやのようなやわらかい檻」と表現し、「傘」のことをわざわざ「天からふるものをしのぐどうぐ」と表現するところなど、ある選者をして自分なら絶対にしない表現と言わせてはいるが、こちらはそれが蚊帳とか傘だとか、選評を読んで初めてわかったほどだから、選者先生はさすがにプロなんだなぁ。

なんでわざわざこういう表現をするのだろう。

それも 作者インタビューにその答えがあるように思う。
作者は、幼児の頃に物の名前を自分なりの表現の仕方で呼んでいたのだという。その幼女がそのまま大人になった。
そんな表現がいたるところにある。

選者の先生達は読み込むことで、大和ことばの美しさを見つけたり、強固な文学観をみつけたり、稀に見る才能を発見したり、たゆたうリズムが心地よくなられたりしたらしいが、我々シロウトにはあまりに高尚すぎて、この本の良さにまではなかなか辿りつけない。

abさんご 黒田夏子 著 第148回 芥川賞 受賞作