作成者: admin



昭和史〈戦後篇〉


いわゆる戦後史というものを体系だって読むのはおそらく初めてかもしれない。
断片的にはそれぞれ知っていることでも一気通巻で読むことでその流れが良く分かる。
戦後史というものを眺めてみると、その中における昭和天皇の果たし役割りがいかに大きかったかが良く分かる。

日本がポツダム宣言の受諾を連合国側へは伝えたのは8月14日。
従って本当の終戦記念日は8月14日のはずなのだが、何故8月15日になっているか。
昭和天皇の玉音放送が流れたのが、8月15日だからである。

いくら政府がポツダム宣言を受諾したところで、軍の強硬派は徹底抗戦をするのではないか、連合国側もそう思っていたはずである。

それがあの玉音放送一つで、兵は銃を捨てた。

マッカーサーと昭和天皇との11回に及ぶ会談の内容も興味深いが、何と言っても初対面の時に、昭和天皇が発した「すべての責任は自分にある。自分の処分をあなたに委ねます」の潔さ。
地下室に隠れてみじめな姿で発見されたイラクのフセイン元大統領は記憶に新しいが、自らの命運が尽きた後の一国の独裁者の末路は、かなり憐れである。
国外への亡命を希望したり、命乞いをしたり・・と。
ところが、連合国側からは専制君主と思われていた昭和天皇のあまりの潔さにマッカーサーは天皇の処置を決めるより前に逆に昭和天皇を尊敬してしまう。

実際にマッカーサーの元には老若男女の日本人から山のような手紙が寄せられたのだという。
天皇に何かがあれば、日本人は未来永劫にその相手に憎しみを抱き続けるだろう、とか。もし、天皇に危害が加わるなら、占領軍はこの先10年先も兵を引くことができなだろう、と暗にゲリラにての徹底抗戦を辞さないことを記す、ほとんど脅しと言ってもいいような手紙まで寄せられる。

かくして天皇の無事を確約した後、GHQによる徹底的な日本人の精神的な骨抜き戦略が始まって行く。
その最たるものが現在の憲法だろう。
この憲法の改正のきっかけとなったのは単なる誤訳だった、という逸話まである。
近衛文麿がマッカーサーの元を訪れて、いろいろお伺いを立てていたそうな。
その際に 国の Constitution(構造)を変えねば、と言われたのを、Constitution(憲法)と誤訳されてそのまま、憲法改革の委員会などを立ち上げるきっかけを作ってしまった、と言うものだが、この逸話は少々眉つばものかもしれない。

GHQは農地解放だの財閥解体だの公職追放だの、とおよそ日本人自身では為し得なかった改革を行いつつ、併行して徹底的日本人精神骨抜き改革を行っている。
教育勅語を廃止し、先の戦争にては日本人は騙され、いかにひどいことを世界にして来たかを繰り返し繰り返し国民に聞かせ、自信を喪失させ、また言論統制は戦時中よりよほど厳しかったのだという。

筆者はそんな日本に4つの選択肢があったのだ、という。
・陸海空軍を整備した普通の国への道。(1)
・社会民主主義国家への道(ソ連参加ではなく、米とも欧とも違う独自の道)(2)
・スイスやスエーデンのような中立国家。(3)
・軽武装・通商貿易至上主義国家への道。(4)

果たしてそうだろうか。
(2)に関してはソ連とアメリカとの冷戦の日本がその橋頭保である以上、選択肢としても上がって来ようがない。
(3)も同じ理由で選択肢には成り得ないが、この選択肢の中立を維持することはすなわち、強力な軍事国家を維持せねばならず、(1)よりもはるかに困難な選択肢だろう。

(1)の陸海空軍を整備した普通の国家の実現に取り組んだのが鳩山一郎さんなのだという。ルーピーさんのお祖父さんは、ものすごくまともな人だった。
結局、岸内閣の後の池田内閣は(4)を選択肢し、所得倍増計画を打ち出してまたそれを実現させた。

今ここにきて、いきなり(1)へとは思わないが、この生い立ちの不純な憲法を変える手段さえほとんどない状態からは早く脱却すべきだろう。
幸いにしてこの夏の参議院選挙、96条(改正手続)の変更が争点になるかもしれない。

「もはや戦後は終わった」の言葉は何度も登場するが、真に戦後が終わるのは自らの国民の手で憲法を変更可能になったときなのではないだろうか。


昭和史〈戦後篇〉1945-1989  半藤 一利 著



空の拳


あの「八日目の蝉」とかを書いた角田光代さんがボクシングを題材に?
ハテナマークが付きすぎてしまう。

文芸部を希望して出版社に就職した主人公氏。
配属されたのは念願かなわず「ザ・拳」というボクシング専門の雑誌の編集部。

主人公氏にしてみれば、全く志望と異なる部署になるわけで、左遷されたような気分で出社するのだが、取材に行った先のジムで、「習いに来たら?」と誘いを受け、そして入会し、やがてボクシングのとりこになって行く。

そのシムから新人王決定戦への出場選手が登場する。
その名もタイガー立花。

リングに上がる前にゾンビの格好で出て来てみたり、相手の選手を睨みつけてみたり、勝ったあとのインタビューでは、悪態をついてみたり、舌を出して中指を突き立てみたり、KO予告をしてみたり、と嫌われそうなキャラクターを演出しながらも、ボクシングの試合そのものに花があるためか、人気がある。

その立花のとんでもない生い立ちをトレーナー氏が披露する。
幼くして父母を失い、親戚家へ預けられるが、邪魔者扱いされ、今度は祖父母の元へ。
そして不良仲間とつるんでいるうちに少年院へ。
少年院を出たり入ったりを繰り返した末に出会ったのが、ボクシングだった。

その生い立ちをトレーナーから聞いた主人公氏は、「ザ・拳」の雑誌で大きく取り上げる。
ところがその生い立ちはトレーナーが作ったキャラ作りの一環だった。
彼は両親健在、普通に高校へ行き普通にサッカーをやっていて、普通に大学へ行く犯罪歴もない健全な青年だった。

そんなトレーナーのオチャメなはずのキャラ作りも、一旦ウソだとわかると、一勢に経歴詐称だと大騒ぎになる。
最初は売れてない雑誌一誌が書き始めてから、週刊誌各誌、スポーツ新聞・・軒並み経歴詐称だと立花をこき下ろす。

ネットでも経歴詐称男として悪く書かれ、試合にのぞんではかつての人気はどこへやら。完璧アウェイ状態。

そんな状況を見たベテラン編集者は嘆くのだ。
いつからこんなみんなで正義を声高に叫ぶ世の中になったんだ、なんでこのくらいのこと笑ってすませられないんだ。
人のちょっとした過ちを見つけたらとことん糾弾する。
いやな時代になってしまった・・・と。

格好良くそして圧倒的に勝ち続けるつことでしか、その傷は払拭されないのだろうか。

作者はボクシングを題材にしたのはこれを書きたかったからなのか・・。

立花はこんな言葉を残している。
「強いやつが勝つんじゃない。勝ったやつが強いんだ」

なかなか、 ボクシングの試合の描写などはかなり微に入り細に入っているのだが、どうしても女性の視点だよな、と思えてしまう。
ボクシングしている姿を見ながら「痛い」とかって思うかな。
主人公氏がなよなよしているからかもしれないが、その設定そのものが作者が女性であることと無縁ではないだろう。
彼は見る側に徹してしまうが、同じジムで練習していたら、パンチも出したくなりゃ、試合も出たくなるだろうに。

作者はボクシングの試合をかなりの数観たのだろう。
ものすごく研究はしているが、それはあくまでも観察者としてのものだ。

実際にグローブをはめてボクシングにむかっていたら、「八日目の蝉」もびっくりのすごい作品になってたんじゃないだろうか。

空の拳 角田光代著 日本経済新聞出版社



新世界より


2050年頃にはこうなる、あーなるという話を良く聞く。
2050年はおろか、2030年と言われたってなかなかイメージすら湧いてこない。

そこへ来て1000年後の世界などだという。
1000年後の世界を描いているSF長編。

冒頭、読みだした時は、1000年前の間違いじゃないのか?などと思ってしまった。
呪術だの迷信だの仏教用語のようなものからお化けみたいな話から始まる。

しかし、未来だった。
呪術とはすなわち現代でいうところサイコシネシスなどの超能力。

1000年後の世界は今でいう超能力者達が支配する世界だった。

その世界では人が人を殺めるなどということは有り得ない。
過去にも未来にも・・子供達は、そう思っている。いや、ほとんどの大人もか。

過去の歴史は封印され、歴史の授業で習うこともない。

歴史年表など戦争の年表のようなものなのだが、人が人を殺めたような歴史などは知ってはならない世界なのだ。

そういう社会は好奇心旺盛な子供達にとってはとんでもない管理社会。

自分達の周囲にかつて居た子供がいつの間にか居なくなっている。
何故だか名前が思い出せない。
そう、大人達は子供達の記憶を改ざんしてまでして、不穏分子が育たないようにしている。
基本的人権は17歳までは存在しない世界だ。

現代からその1000年後に至るまでの間には、まず超能力者が生まれ、そして増える。となると、今度は疎んじられ、中世の魔女狩りのようなことも行われ、やがては超能力者対一般人の戦争に。
そして最終的には力をつけた超能力者達が勝ってしまう。

1000年の間にあまたの戦争があり、超能力者達の無謀もあり、平和な社会のために、人を殺めるために超能力は使えないように植えつけが行われる。

人に危害を加えるような行為をしようとしただけで、その人は命を落とすことになる。
だからこの時代には殺人というものは存在しない。

だが、もしその成長過程で何らかの要因にて人を殺めてもなんともないような人が出来てしまった場合、その世界ではもはや対処のしようが無くなる。

それは悪鬼と呼ばれるが、悪鬼も人なので誰も彼を攻撃出来ないのだ。
攻撃しようとした途端に自分に抑制がかかってしまうのだから。

だから、一旦そういう人間が出来てしまえば、ひたすら、人々は惨殺され続けるしかなくなる。

そういう理由で、成長過程にある子供達は、がんじがらめの管理を施し、その社会に適合出来ない子供と判断されれば、教育委員会が処分の決定を下し、同級生の記憶からも抹消される。

もう何年か先には無くなるのではないか、とまで言われている「教育委員会」が1000年後に登場するのには少々苦笑してしまった。

主人公がまだ小学生の頃から、中学に相当する全人学級へ、そこから始まる冒険譚。
その冒険譚の続きは、主人公が成人した後にものすごい展開へと拡がっていくわけだが、この本、未来SF小説としての面白さ、冒険ものとしての面白さ、登場する幾多の耳慣れない名前の動物たちについての綿密な生態説明、それらが作者の綿密な設計によりなりたっている。

上・中・下巻の結構なボリュームの読み物だが退屈するどころか、後半へ話が進めば進むほどおもしろくなって手放せなくなる一冊。いや三冊か。

新世界より 貴志祐介 著