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光秀曜変


明智光秀と織田信長って同世代だとばっかり思っていたが、実は違った。

この本に登場する明智光秀は67歳。

織田信長の年齢は書いていなかったと思うが、
「人間五十年、下天のうちを比ぶれば~・・」と舞いを舞ったぐらいだから信長はせいぜい50歳か。

明智光秀が信長よりそんなに年上だったとは知らなかった。

御承知の通り、明智光秀は本能寺の変で自らの主である信長を討ってしまい、謀反を起こしたとんでもない男として歴史に名を残すことになってしまったわけだが、なんのことはない、人生50年と言われた中で67まで生きてしまえば、ここで一花咲かそうとしたとしてもいかしくはない。

まして、信長の率いる兵はわずか。

自らは信長から毛利を責める秀吉を助っ人に行くよう命令されていて、率いる手勢は一万を超える。

方や光秀のライバル達はどうか。

秀吉は助っ人を求めるぐらいだから、播磨を離れられない。

柴田勝家は北陸で上杉勢と対峙していて、これも離れられない。

滝川一益は関東で北条と対峙している。

信長を討った後、近畿圏内を手中に治め、維持し、上杉、毛利、北条と同盟を結んでいけば、存外に治まってしまうのではないか。

本能寺の変は光秀が信長に対する仕打ちを耐えかねた怨恨によるものという説が一般的だが、案外じっくり考えた末のことと思えなくもない。

だが、この本の中の光秀は違うのだ。

もはや本能寺の変よりだいぶ前から物忘れがひどくなっている。

まぁ、老人が呆けていくのは何も現代に限った話ではないだろうから、まんざら有り得ない話と切ってすてることもない。

この本の中の光秀に大きな影響を与えたのは信長が、織田家の譜代とも言える佐久間信盛らを追放してしまったことだ。

役に立たなくあんれば、自分もすぐに放逐されてしまう。

そんな恐怖心から、眠れない。
起きていても無の前に信長の姿が現われてくる。

そんな精神状態の光秀が本能寺の変を決意する。

想定外は、毛利と対峙して播磨を離れられないはずの秀吉が、速攻で引き返して来たこと。
味方につくと信じていた筒井順慶らがことごとく味方につかなかったこと、だろうか。

その後は負けるべくして負ける戦。

どれだけとめても聞かないわが主。主がそこまでの決心なら、とついていく家臣達。

負け戦の中でもわが主光秀のためにと、命を投げ出す家臣達がなんともいたましい。

光秀曜変  岩井三四二 著



幕末史


幕末と言う時代を舞台にした本はもうどれだけ読んだだろう。
司馬遼太郎だけでも相当な数があるはずだ。

司馬遼太郎にしても浅田次郎にしても個々の人物にスポットがあたるが、これだけ体系だてて歴史としての幕末を振り返ってみるのはなかなかいい試みではないだろうか。

しかし改めて歴史として見てみると、よくもまぁこれだけの短期間の間にいろんなことが凝縮して起こったものだ、とつくづく思う。

そもそもは1853年のペリーの来航から始まる。
それから瞬く間に、日米和親条約調印、日米通商条約調印、安政の大獄、桜田門外の変、長州征伐・・・もろもろの事件があった後、江戸城の無血開城が1868年。

ペリーが来てからほんの15年しか経っていない。その15年で江戸幕府は瓦解してしまうのだ。

さらには明治になって西南戦争で西郷が死に、大久保利通がその翌年に死ぬ。それが1878年。
ペリーが来てからたったの25年。

その25年の間に鎖国が無くなり江戸幕府が無くなるばかりか、版籍奉還にて全国の藩すら無くなってしまう。

徴兵制により、武士が要らなくなってしまう。
激動の25年だ。

今の時代は移り変わりが激しくなったと言われるが、25年前の1988年からこっち何が変わっただろうか。
バブルがはじけた、昭和から平成に変わった、携帯電話の普及そしてスマートフォンが普及するようになった、とはいえ、国家として25年前と比べて何が変わったというわけではない。
この25年で中国が台頭して来たのが一番大きいかもしれない。

その25年の歴史を駆け足で、語り口調でわかり易く語っているのがこの本。

大久保さん、西郷さん、勝さん、などと歴史上の人物をお知り合いみたいに語るのも特徴的だ。

自らが長岡の出身だけに薩長閥に対してかなりの嫌悪があるように見受けられる。

昭和初期でも海軍や陸軍の中将や少将の数は圧倒的に薩摩と長州が多いので、その時代まで薩長閥は続いたのだろう。

司馬遼太郎ほどではないにしても、やはり半藤さんにも自身の思い入れというものは入ってしまうのだろう。
勝海舟には特に思い入れが強い。
世界が見えていたのはこの人だけだとか。

そして、薩長の為した明治維新をして暴力革命と切って捨てる。

それはその通りだと思うのだが、半藤さんはどんな形が最適と思っておられたのだろう。松平春嶽やら山内容堂やら徳川慶喜やらの合議制の内閣が良かったという意見なのかもしれないが、徳川慶喜の存在だけで全ては台無しになるのではないだろうか。

戊辰戦争では慶喜は味方を置いてさっさと大阪から江戸へ船で逃げ帰ってしまうのだが、慶喜側の言い分としては水戸の出身としては錦の御旗には絶対に歯向かわないという心情からなのだとか。

明治に入っての政府の混乱ぶりについてはかなり辛辣だ。
海図を持たない船出をした政府の無能ぶりを語っておられる。

とはいってもその言われるところのシロウト政府にしては版籍奉還や廃藩置県なんて海図無しにしては、かなりダイナミックなことまでもちゃくちゃくとやってのけたとも思えるのですが・・・。

幕末史  半藤一利 著



片想い


アメフトが題材として用いられるのは、日本の小説ではかなり珍しいと思う。
「どしゃぶりが好き」須藤靖貴 著(光文社)という小説があるにはあるが、これなどはアメフト部を率いる監督が主人公でアメフトそのものを描いているので、物語の背景としてのアメフトの存在を据えるのとはまた異なる。

大学時代のアメフト仲間達の集い。卒業して10年を経過しても尚、再会して必ず出るのが最終戦の敗北ゲームの話題。
QB(クオーターバック)が完璧なフリーで走っている選手へパスを出せば、そのままタッチダウンで優勝だったはずが、そこへは投げずに敢えてマークされている選手ヘパスを出してしまい優勝を逃してしまうという、その話題。

大学時代のアメフト仲間達はアメフトを離れてそれぞれの道を歩んでいるが、近況はこうした集いで知れる。
だが、中には同窓会にも全く来ない、どうしているのかわからない者もいる。

二人いた女子メネージャーのうちの一人がそうだ。
もう一人の女子メネージャーは、QBの妻となっている。

そのかつての女子マネージャーとQB夫妻が再会する。
彼女はかつての女子ではなく男の容姿であった。

彼女は性同一性障害なのだという。
卒業してからそうなったのではなく、学生時代も、もっと前の幼少時代からずっとそうだったと。

かつての仲間が女でありながら男たりたいと思ったところでさほどの問題ではない。

問題は彼女が男性の容姿をしている時に起こした殺人だ。
男性の恰好でバーテンの仕事をしていた彼女は、ストーカーに付きまとわれているホステスの女の子を自宅まで送り、その際にしつこくつきまとっていたストーカーを殺害してしまったのだという。

QB夫婦は彼女に自首をすすめるのではなく、かくまう方を選択する。

女性の格好にさえなれば、絶対みつからないだろうとQBの妻はいい、彼女はそれを嫌がる。

それにしても「性同一性障害」ってなんで「障害」なんだろうか。

女性の身体を持つ人が男性の心を持ったとして、それの何が障害なのだろうか。
女性の心を持って男性の身体を持つ人などは、テレビにいくらでも登場している。

この小説ではこのような女性の身体を持つ人が男性、男性の身体を持つ人が女性が複数登場するが、染色体の性にもふれている。

男女の染色体とは男が「XY」で女が「XX」だと一般的には言われている。

高校陸上で圧倒的な脚力を持つ女子選手。
彼女の染色体には「Y」が含まれているのだという。

それゆえ、有名な大会に出てしまってオリンピックの候補にあがってしまっては一大事。陸連そのものが方針を出せないでいる、ということで一流大会には出場しないまま、もくもくと練習を続けている。

彼女の場合は、心も女、身体も女。ただ染色体だけに「Y」が含まれている。

その話は余談ではあるが、この事件の結末は元QBの主人公次第。

それぞれ、登場するかつての仲間がランニングバックならランニングバックとしてのかつての役割りや個性を残していたり、ここでフェイクをしかけるだとか、アメフトのゲームをもじりながらの物語運びがなかなか面白い。

さて、主人公氏はかつての司令塔QBのように、この事件でも司令塔となり得るのだろうか。

片想い  東野 圭吾 著 (文春文庫)