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ツナグ


死んでしまった人と会える。

但し、一生に会えるのは一度だけ。

死者の方から誰に会いたいというリクエストは出来ない。
死者は受け身で待つばかり。

生者からのリクエストを断ってもいいし、会ってもいいが、こちらもチャンスは一度っきり。一度会ってしまうと二度と生者とは会えない。

その仲だちをするのが「ツナグ」という人の役割り。

同じ設定でいくつかの短編が載せられている。

第一話は突然死した元アイドルのタレントとの出会いを望む女性が主人公。
バラエティ専門の元アイドルだからバラドルとでもいうのだろうか。元アイドルといいながらもバラエティでは超売れっ子のその人に会いたいと仲介を頼む女性。

同期の女子社員から残業を押し付けられ、真っ暗でたった一人のオフィスで自分の上の蛍光灯だけが灯っているようなところでもくもくと単調な仕事を続けるような人。

楽しみなど何もないような人なのだが、唯一の楽しみがその元アイドルが出ているテレビを観ること。

有名人だけに何人もの人がリクエストするんだろう、と気を揉むが、あんに反して彼女は会ってくれるという。

たった一回こっきりの生者に会えるチャンスを自分のためになど使ってもいいのだろうか、と今度は心配するが、あにはからんや、お別れの会で「もう一度会いたい!」と泣いていた人達など絶対に来ないのだ、と彼女は断言する。

不幸のかたまりのような女性と会ってこの元アイドルがどんな言葉を投げかけるのか。
浅田次郎氏などが好きそうな設定だ。

浅田氏が同じ設定で書いたなら、それこそ読者を涙でぐちゃぐちゃにしたことだろう。
そういう意味では辻村さんの作品はちょっと淡泊なのかもしれない。

同じ設定で、癌で亡くなった母に会いに来る壮年の態度のでかい男性の話。

婚約指輪を渡した途端、行方不明になった女性と会いに来る男性の話。

自分のせいで死んでしまったのかもしれない同級生に会いに来る女子高生の話。これなどは女性作家ならでは、だろうか。

その「ツナグ」の役割りを担うのは、この世の人以外のものだろうと思いきや、生身の人間だった。しかもまだ高校生。

さて、たった一人だけ亡くなった人ともう一度会えるなら、果たして誰を選ぶんだろう。

ツナグ 辻村深月 著



のろのろ歩け


急激な発展を遂げる中国という国。

主人公は10年前に訪れたことがあり、今回は初の中国の女性ファッション誌を創刊のための助っ人として北京に招へいされる。

そこで彼女が見たものは、感じたものはあまりの10年前との違い。

日本の高度成長期や日本のバブル期と重ねるが、もはや成長度合いはそんなものではないだろう。

主人公氏の印象にあるような人民服はさすがに10年前でも無かったかもしれないが、もう少し前ならあっただろう。

一昔前の中国の映像と言えば人民服と自転車の洪水。

今やどうだ。

至る所の高層ビル群。

中国という国に対して、嫌悪感や薄気味悪さを感じる人が結構いるが、これは何も尖閣の問題ばかりが原因ではないだろう。
共産党一党独裁で民主主義の国ではない、これも原因とは言い難い。
他の王政の国にそれほどまでの嫌悪感を持つだろうか。

日本の戦後から高度成長、バブルという他の国が50年かかって為し得たような大成長をたったの五分の一ほどの短期間で成し遂げてしまう、そんな急成長ぶり、急拡大ぶりなんともが不気味でならない。ということなのではないだろうか。

あまりにそのスピードが凄まじいのだ。

当然、いびつなところが残るに決っている。
今年の正月明けのニュースでは、北京は晴れの日でも薄暗いほどに空気が汚れ、人々はなるべく外出を控えるようにしている、とか。

タイトルにある「のろのろ歩け」は「慢慢走」(マンマンゾウ)という言葉から来ている。
意味するところは「Take Care!」「さよなら」の代わりに「気を付けてね!」とか「お元気で!」という言葉を使うような意味合いで使われるらしいのだが、「慢慢走」ということば、「ゆっくり行けよ」と言う言葉が挨拶に使われるというところがおもしろい。

あまりの急ピッチで進んで行く社会に対して、人々の本音は「ゆっくり行けよ」と言っているかのごとくではないのだろうか。

他に上海を舞台とした話、一話。

台湾を舞台にした話、一話。

のろのろ歩け 中島京子著



戦場の掟 (BIG BOY RULES)


すごいものを読んでしまった、という実感。
逆に言えばこんな世界があるなんてこの本を読むまで一切知らなかった。

傭兵という存在はあるのは聞いたことがあったが、傭兵の実態などというのは映画や小説の中でしか知らないものだった。

傭兵を雇っているのは、警備会社という名目の軍事会社。

彼らの存在、人員は公には世間しない。
米軍兵士の死者数は公にされても傭兵の死者数はどこにも出ないし、誰も知らない。

軍事ももはやアウトソーシングする時代に入っていたのだ。
そんなことは露ほども知らなかった。
警察や軍を民間に委ねた社会がその民間会社の独裁状態になっていたりする近未来映画などがよくあるが、もうそれに近い状態が起こりつつあるのだ。

彼らには国際法も無ければ、イラクの国内法も無い。
反対通行の道を平気で全速でぶっ飛ばし、障害物は片っ端から撃ちまくったところで誰からも裁かれない。

今日は誰かを殺したい、そんな動機だけでイラク人が殺されていく。

イラク戦争後のイラクと言えば、シーア派やらスンニ派やらのイラク人によるテロばかりが取り上げられてきたが、そんなイラク人よりはるかにひどいテロ行為をこの軍事会社の連中は起こしていた。

彼らは軍隊を警護するのだ。
要人警護も行う。
アメリカはもとより、イタリア軍も日本の自衛隊の名前も出ていた。
警備会社に警護される軍隊・・・。

イラク戦争は、ある人々にとってはとんでもないビジネスチャンスなのだった。
当初は輸送を行うビジネスを始めるつもりが、輸送には武装が必要となりやがてそちらの武装し、軍事を行う方が専門になって行く。

そんな軍事会社の傭兵の数は多国籍軍の兵の10倍はいるだろう、と言われる。
傭兵には各国の人間が集まる。
イラク人も雇われる。

そんな軍事会社もやり過ぎれば歯止めがかかる。

唯一歯止め無しの会社がブラックウォーター社という巨大企業。
アメリカ国務省の後ろ盾があり、もうやりたい放題。
何をしてもお咎めなしだ。

15分間で17名を撃ち殺すなんて、もうがむしゃらに撃ちまくらなければ出来ない所業だと、軍のプロをして言わしめる。

アメリカはこのイラク戦争で何を得たかったのだろうか。
フセインの独裁による犠牲者がいたとしても、戦後のこの無政府に近い状態よりははるかに治安は良かっただろうに。
おそらく戦後の日本のようなアメリカ主導による安定平和統治を目指したのだろうが、このブラックウォーターという会社もアメリカの会社だ。
米軍はやっていない、はイラク人には通用しない。
この会社の人道無比な虐殺行為の為にアメリカ人憎しは深まる一方。
結果、治安はますます悪くなり、米兵の死者も増えれば、イラク人の死者も増える一方。
そこに得た物はあったのだろうか。

このスティーヴ・ファイナルという人はワシントンポストの記者。
同じアメリカ人でアメリカ人憎しのイラクの中でよくこれだけイラクの人にも取材が出来たものだ。
イラクの民間人はもとより、傭兵の人、民間警備会社(軍事会社)の経営者、イラク政府高官、アメリカ政府の高官、まんべんなく取材をして書かれたこの本、原著「BIG BOY RULES」はピューリッツァー賞を受賞している。

民間警備会社の傭兵5名がイラクで拉致される事件が起きる。
米軍兵士が拉致されたとなると何千人規模の捜索隊が編成されるのに、彼らが傭兵だったがために誰も助け出そうとしない。

まだ、生きていることを証明するビデオテープが交渉用にアメリカ寄りのイラク高官の手に渡されるが、彼は知らぬ存ぜぬで関わらないのが一番とばかりにそれを公表しない。

本の中でかなりのページが割かれているのは、その傭兵達のアメリカに残された家族達の姿。
最終的に動かない政府のためか、彼らは死体で発見され、そのむごたらしさに家族達は憤る姿が描かれるが、そのあたりはウエイトとしてどうなのだろう。

傭兵達に何の落ち度も無い、普通に暮らしているはずの民間人が何人も何人も殺されて行く中、自らの意思を持ってその傭兵になりに行った5人の死はイラクの人々の命より重かったのだろうか。

同胞ならでは、なのだろうか。
ならば、やはりイラクの人にとってはこのピューリッツァー賞も憎いかもしれない。

戦場の掟 スティーヴ・ファイナル 著  伏見威蕃(翻訳) (BIG BOY RULES)