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ルポ資源大陸アフリカ


アパルトヘイトに関しては小学生時代に徹底的に学んだ覚えがある。日教組の先生方が教材に使いたかったからだろうか。
表現に語弊があるかもしれないが、あまりに見事な白人と黒人の区別化。隔離化。
子供が通う学校は別々。
乗り合いバスも別々。
住む場所も座る場所も遊ぶ場所も学ぶ場所も鑑賞する場も全部別々。
海岸(ビーチ)に至っても別々なのだ。
あそこまで徹底すれば、それはそれで一つの秩序というものが生まれるだろう。
アパルトヘイトの制度さえ、無くなれば南アには明るい未来が、と若き日の筆者は本当に考えたのだろうか。

あの制度はいずれ、無くなるだろうとは思ったが、これだけの差別を超越した完璧な分別という秩序は、よほど緩やかな是正でない限り、急な制度廃止は無秩序を生みだすのではないか、という懸念は、誰しもが思い馳せたのではないだろうか。

それにしてもこの筆者は偉いなぁ。

何故?をとことん取材という形で解き明かそうとして行く。

辿りついた結論は、皆が皆、貧乏なら犯罪はおきない、というもの。
方や南アの高度成長の波に乗れた若い世代。
方やアパルトヘイト時代の教育の無い世代は新しい南アの中にあって高度成長の波に乗るどころか、取り残されてしまっている。
このロスト世代の人達による犯罪。
また南アの急成長に取り残されたのはロスト世代ばかりではない。
モザンビーク、スワジランド、ナミビア、ボツワナ、ジンバブエといった周辺国から流入する労働者達。
国境は賄賂さえ払えば無いも同然。
不法入国などは当たり前。
まともに労働しても大した賃金にならないから手っ取り早く儲けようと、強盗になって行く人が後を絶たない。
また、周辺国の田舎町で美少女コンテストを開き、優秀者は南アでスターに、の言葉に乗せられて集まった少女を軒並み南アへ連れて来て売春宿へ売る男達。

ありとあらゆる犯罪の巣窟を丁寧に犯罪者にまでアポを取って取材する筆者。

中でも一番の悪はナイジェリア人だと聞いてナイジェリアへ足を運ぶ。
そこで見たものは、資源国ならではの悲哀だ。
ナイジェリアは屈指の石油産出国だ。
ならば、国民は働かずとも豊かなのか、というとこれが真逆なのだ。
あろうことか、石油を採掘しているその近隣の村には電気が無い。
漏れる重油によって、川も畑も汚れ、農業も営めない。

そうやって筆者は南アを拠点にモザンビーク、ナイジェリア、そして内戦中のコンゴ、スーダンと取材の足を運ぶ。

コンゴの内戦もすさまじいが、スーダンなどでも国家が民衆を虐殺する。
アメリカの大学で銃乱射があれば、日本の秋葉原で無差別に何人かの人を刺す若者が現われれば、新聞はTOPでそれを扱うが、アフリカのある国で何千という命が虐殺されていても、その扱いの小ささはほとんど報道されていないに等しいと筆者は、日本でのアフリカのウェイトの低さを嘆く。

いずれの国でも、資源というものが元凶になっている。
下手に資源大国だからこそ、外国企業はもしくは外国政府は触手を伸ばして来る。
その外国企業とは一昔前なら欧米の企業なのだろうが、今やあまりにも人権をないがしろにしている、ということで、欧米は手を出さない。
平気で触手を伸ばしてくるのが中国企業だ。

政権は資源を求める国、中国に協力を求め、中国企業に賄賂を要求する。中国企業は資源を独占する見返りとして賄賂という形の軍資金を与える。
それを持って政権は反勢力になる芽を摘むために、反勢力でもない無辜の人民を殺戮していく。

そんな構造をこの筆者は見つかれば殺されるという中、密入国をしてまでして取材に入って行くのだ。

第五章は圧巻だ。
無政府状態のソマリアへ取材へ赴く。

暫定政府が出来たってその大統領は国に入ることすら出来ない。
いたるところで武装軍団が居て、道を通るものから、通行料を強要する。

なんと言っても無政府だ。
信号機の名残りはあっても信号機は点灯しない。

交差点では通常は譲り合いだが、武装勢力が通るときだけは、彼らの優先道路となる。
力あるものが支配する世界。

そんな中ソマリアへ潜入して、筆者は驚く。
通貨は、民間が中央銀行の代わりとなって紙幣を刷っている。
ラジオ局から発信する人がいる。
インターネットカフェもある。通信企業もある。
だが、国はいくつもの武装集団が分割統治というよりも縄張りを持って、闊歩しているという状態。

そんなソマリアの中でもほんの一勢力に過ぎなかった「イスラム法廷会議」イスラム原理主義の勢力が瞬く間に国を勢力圏内に治める。

この「イスラム法廷会議」という勢力。アフガンでのタリバンとかなり似通っていないだろうか。
この急速な勢力拡大。
その勢力拡大とともに、各所で通行料をふんだくるような武装勢力は無くなって行く。いわゆるひとつに秩序が生まれようとしているわけだ。

彼らは親米をとことん嫌うので、親米国からも情報を取り入れ、親米国とも連絡を絶やさないソマリアのジャーナリスト達は彼らを恐れ、嫌悪する。、

アメリカも国連も自ら手を下すことを回避してしまったソマリアに対して、アメリカはエチオピアに代理戦争をさせる。
タリバン勢力を払拭させるのに北部同盟を使ったが如く。
今度は国どうしなので、アメリカは完全に影になっている。

その代理戦争さなかになんとかソマリアに潜入しようとするこの筆者。
すさまじいほどのジャーナリスト魂だ。

だが、この本、終章でのまとめはいかがなものなのだろう。
これだけの取材をした結果の結論が、「格差社会が暴力を生む」なのだろうか。
そんな単純な話ではあるまい。

筆者も反省があったのか、文庫化に向けてのあとがきではそんな単純なものではなかった、と語っている。
但し、論を全て曲げたわけではない。日本の格差社会をみるにつけ、格差の拡大は決して暴力を生んだわけではない。格差社会はインターネット上で繰り広げられる言葉の暴力を生んでいる、と。
やはり、格差社会は暴力を生むという持論は曲げたくないらしい。

明治時代だって大正時代だって今の何千倍もの格差社会だったろうに。

この本のテーマは資源というものが生み出す、途轍もない暴力であったり、反イスラム原理主義に対抗する暴力だったり、秩序の崩壊による暴力だったり、筆者は自らの取材で教えてくれたのではなかったのか。

とはいえ、すごい本であることに違いはない。
アフリカ大陸でも南半分となると、ほとんど日本では知られていないし、報道もそうそうされることはない。
南アのワールドカップのときに南アの事情が報道されたのが唯一か。

インターネットを検索すれば転がり込んでくる情報とはわけが違う。
命がけの取材で得た生の情報ばかりだ。
文庫化によってではあるが、これだけの情報量を詰め込んだ本がたったの830円+税というのはちょっと安すぎるだろう。



終活ファッションショー


就活ではなく終活。
人生の終わる時に向けての事前準備だ。

自分のお葬式をどのようにして欲しいのか。
何を着て棺桶に入りたいのか。
そんなことを遺書にしてしたためたところで、遺書が読まれるのは大抵、お通夜も、お葬式も終わった後。
では口頭で伝えておけばいいか、と言うと、これもまた、「やだぁ、縁起でもないこと言わないでよ」と聞いてもらえない。

ならば、と主人公の30代独身女性の司法書士は企画を考える。
ファッションショーというイベントに遺族となるはずの人達を呼んで、それを見せてしまおう、そんなお話。

就活ファッションショーの準備を進める内に、舞台に上がる人たちは考え、悩む。
どんな衣装で、を悩むわけではない。

これまで自分はどう生きて来たのか。

自分の終わりはあと何年後と仮定するか。

その時に残っている人は誰だと仮定するか。

その時に呼んで欲しい人は誰か。

そのために未来の年表を作り、何年後には○歳で、息子は○歳、家族構成はこう変わっているはず、そして自分はこんなことをしているはず。

一見、死ぬための準備のように話は進みながらも、残りの人生を如何に生きるのか、に命題が変わっている。

『最高の人生の見つけ方』という映画があった。
余命何カ月を宣告された二人の老人が生きている間に、やり残した楽しい事全てをやりつくしてしまおうという話。
あれはいい映画だったなぁ。
あれも如何に生きるかの一つだろうが、ちょっとだけおもむきが違うか。

それよりも寧ろ『エンディングノート』という映画に近いものを感じる。
いかに死を迎えるのか。
残った家族に何を残すのか。
いざ、という時にどうして欲しいのか。
残された者に伝え忘れていることは無いか。
世の中、そんなテーマの話がやけに多くなった気がする。

団塊の世代の方達が定年を迎える年になって来たことと無縁ではないだろう。まぁこれは日本だけのことだが・・。

この作者、巻末にプロフィールが載っているが、現役の司法書士なのだという。
そして、「終活」の普及に務める、と書いてある。

確かに、この本、小説の体裁はとっているが小説を読んだという実感よりも、残りの人生をいかに生きるかを考えよ、と教え諭されている実感の方が強く残る。
そんな本なのでした。

終活ファッションショー 安田 依央著 集英社



悲鳴伝


半年前に起こった地球による「大いなる悲鳴」。

その「大いなる悲鳴」によって地球上の人間の1/3 が間引かれてしまう。

地球撲滅軍という地球と戦い、人類を救う、という奇妙な組織が登場する。

感情の無い中学生の空々空(そらからくう)は、その感情の無さを見込まれて、戻る場所が無いように、一家全員惨殺され、通っていた学校も爆破され焼き尽くされ、知り合いという知り合いは尽く地球撲滅軍に殺された上で、地球撲滅軍に次期ヒーローとして無理矢理スカウトされてしまう。
それだけのことをされたからと言って、相手を恨むだの復讐してやろうという気持ちはこれっぽっちも無く、一家を惨殺した年上の女性と仲良く同棲生活をはじめてしまう。

そもそも地球と戦うって、どうなのよ。

地球陣 対 地球人?

地球と戦うって、神にあらがうようなことじゃない?

地球撲滅軍が次々に撲滅しようとする「人間に擬態した怪人」、それって日本で言えば八百万の神々じゃないのか?

八百万の神を根こそぎバッタバッタと切り殺そうってな具合に読めないこともないんですが・・。

これまでの西尾維新の一冊と比べると、この本一冊はかなり分厚い。
西尾維新の本を寝ながら読んで重たさを感じたのは初めてだ。

で、分厚いから読み切りなのか?

これまでの西尾維新のパターンから言って、一度生み出したキャラクターは大事に使いまわしている。
戯言に始まったシリーズの登場人物は零崎シリーズでも使われまくった。

化物語などは一度は終わっておきながら、その完結編を出し始めたと思わせて、さらに先へと続けようとしている。

空々空と地球撲滅軍の登場人物、この一冊でだいぶん、殺されてしまったが、まだまだ先がありそうだ。

せっかく空々空なんていう新たなキャラクターをおこしたんだから、続くに決まっていますよね。

と、このぐらいで文章を閉じてしまうと丁度よいのでしょうが、蛇足を書きたくなってしまいました。

当然ながら、この本は 3.11の大震災の後に書かれたわけで、「大いなる悲鳴」はあの時の震災と津波と読めなくもない。
そう書くとそれはあまりに不謹慎だろう、という誹りは免れない。

そう、その「不謹慎」を逆手に取っているのがこの本なのではないか。
震災直後は、テレビではコマーシャルも自粛。こんにちワン、ありがとウサギ、ポポポポーンばっかり。
お笑いなんて滅相もない。
一般社会でも、各種イベントは自粛。
通常の宴会の類も自粛。
ちょっとした軽口も即不謹慎。

この物語、冒頭で、空々空が「大いなる悲鳴」を冗談話に使った野球部の先輩が不謹慎だと思った」などという台詞をカウンセラーの先生に吐いているところから始まる。
実際には彼は不謹慎だと思うフリをして来たわけで、彼は生まれてからこのかたそういうフリをして来たのが、周囲の知り合いが残らず死に絶えて、そのフリをする必要が無くなった。

穿った見方をすると、震災後不謹慎な発言をする人が居たとして、それを「不謹慎だ」と騒ぐ人達もなんのことはない。そんなフリをしていただけ、というふうに読めなくもない。
まぁ、無理にそんな読み方をしなくても良いのですが・・。

悲鳴伝 西尾維新 著