カテゴリー: 湊かなえ



夜行観覧車


人間、どこでスイッチが入ってしまうのか、怒りのスイッチ、我慢の限界のスイッチ、自分が何しているのかわからなくなってしまうスイッチ、生きて行くのをやめにするスイッチ・・・かなり個人差があるようである。

それでも共に住んでいる家族なら、どんな地雷を踏めばスイッチが入ってしまうのか、ぐらいわかっていそうにと思うのはたぶん勘違いなのだろう。
それぞれが、常日頃から言いたいことを言い放題で、全く遠慮というものをそれぞれがしないような一家で、「そんなもの家族なら当たり前」と思える人にはおそらく縁のない世界。
度合いや程度はさまざまでも多少は、遠慮していたり我慢していたり、理不尽に耐えるという姿もあれば、賢い子だとかいい子だと言われて期待に背かないようにというプレッシャーパターンなど、家族にも言えないさまざまな悩みを抱えていたりする。
結局、家族であってもなかなか地雷の在り処などはわかっていない、ということなのだろう。
ただ、地雷を踏むにせよ、その爆発にはせいぜいここまで、という限度というものがあるだろう。

その怒りのスイッチが一人娘に毎日入ってしまう家がある。
中学生の娘に毎日癇癪を起こされ、どなり散らされ、物を投げつけられ、もはや奴隷じゃないかと思えるほどに下手に出ているのが、そのスイッチを入れてしまっているらしい母親。

一戸建てに住みたいという主婦は良く居るが、この一家の場合は母親にその傾向が強かった。
この市には山の手の上流家庭と坂を下った海岸側という、階級とおぼしきものがある地域で、その山の手の中でも「ひばりが丘」とよばれる地域は最上流階級の住む場所なのらしい。
その上流階級の住む場所に猫の額ほどの大きさの分譲の残り土地があるのを知り、そのひばりが丘で一番小さなお粗末な家を建てて住んでしまうのがこの一家。

そのひばりが丘には上流階級のお嬢様が通うに相応しいお嬢様学校があり、その中学へ娘は当然受かるだろうとの強い思いでそこへ移り住んだのはいいが、案に相違して娘は受験に失敗。
毎日坂を下って坂の下の公立中学へ通う。
その受験失敗を持って娘の癇癪ははじまり、そのどなり声はご近所までにも響き渡る。

お向いの豪邸には娘と同じ年の男の子がエリート中学へ通い、その姉はまさに娘が不合格となったお嬢様学校へ通い、その兄はもう同居していないが一流大学の医学部へ。
父親は大学病院のエリート医師、美人の母親。

文句無しのエリート一家。上流という言葉に相応しい一家。

事件はこの場所に不釣り合いの一家ではなくその一家の方で起きた。
傍の誰が見ても幸せ一杯であろうと思われる一家の方で。

エリート医師の父親が撲殺され、犯行を犯したのは自分だと自供しているのはその妻。
長男は遠方で一人住まい。長女はその日は友人宅に。唯一家に居たはずの二男は行方不明。

さてこのエリート一家に何が起きたのか。
この兄妹三人のこの先はどうなるのか。

やけに長い前振りだったが、ここからがこの物語の始まりなのだ。

殺人事件、ましてや上流家庭が住む地域ともなれば、マスコミは放っておくはずもなく、わんさと押し寄せる。
ネット上でもこの一家は放っておかれず、ほぼ本人が特定出来る内容でわんさと誹謗中傷される。

あんた達に誰も迷惑かけてないじゃん。
そう、迷惑をかけられてもいない匿名の人々からの怨嗟の渦。

あの酒鬼薔薇何某や宮崎何某のように無差別に近隣幼児を殺害した、などと言うのなら、話はべつだが、彼ら一家の場合は彼ら一家の問題。
それでも、一つの一線を超えてしまうことで、それはもはや一家の事件ではなくなってしまう。

この兄妹達には豊富にあったであろう未来の選択肢はかなり狭まったかもしれない。
彼らは被害者の息子、娘としてではなく、加害者の息子、娘として世間からは扱われる。
撲殺された父親は家族に暴力をふるうような人では無かったのだという。

仮に犯人がその自供のまま母親だったとして、そのスイッチの入り方は、その一家の長男が言っている通り、全く理解出来ない類のものでしかない。
ましてや息子や娘達がこの先どんな目に会うのかをほんの少しでも想像出来るだけの理性があれば、スイッチが入ったとしたって一線を超えることは思い止まれるだろうし、違う方法で爆発することを考えるだろう。
それが大人であり親だろう。いや、人間だろう、が正しいか。

普段、スイッチが入らない人ほど、一旦入るとどこが一線だかわからなくなる、という典型なのだろうか。
それにしても誰がどうみたってそりゃないだろう、と思えるようなことで一線を超えてしまう人がいるとしたら・・・、他人には理解しがたいその人ならではのスイッチがあるのだとしたら・・・、世の中ってやっぱりこわいなぁ。

被害者件加害者宅に誹謗中傷のビラが山ほど貼られるが、それを剥がしに来てくれた友が居る。
世の中の他人全てから非難されようが、たった一人でもそんな友が存在する。
これは唯一の救いだろう。

夜行観覧車 湊かなえ著



告白 


「私の娘は事故で死んだのではありませんでした。このクラスの生徒である誰かに殺されたのです」
中学1年生の最後の終業式の教室で担任が語る言葉としてこれほどインパクトのあるものがあるだろうか。

まだ四歳の幼い一人娘を亡くした担任の女性教師。
学校のプールに事故で転落という扱いとなり、警察でもそのように処理されたが、真相は転落事故などでは無かった。

殺した生徒は八つ裂きにしたいほど憎いが、逆に教師は生徒を守る義務があるから警察には言わないから安心せよ、と彼女は言う。

だが、そうでは無かった。
少年法に委ねるなんて生やさしいことでは無くってもっともっと厳しい罰を与えたとも言える。

終業式の場では犯人を名指しせず、A、Bと匿名でしか言っていないが、クラスメートにしてみれば誰のことなのかは一目瞭然。

司法という大人に委ねるのではなく、中学生という大人のルール無き社会の中のしかもクラスメートの中に放置しておいて自分は教師を辞するということで後々どんなことが起こってしまうのか、それまで担任として接して来た人間なら容易に想像がついたのだろう。
この本は事前に読んだ人から、なんとも後味の悪い作品ですよ、と紹介された。
だが、そうだろうか。

なんとも斬新な裁きではないか。

少年事件というもの、加害者の審判の途中経過はおろか、審判の結果すら被害者には一切伝えられない。
それどころか、せいぜい家庭裁判所を経て保護観察処分、そして事実上の無罪放免。

そんな裁きに委ねるぐらいなら、というこのがこの女性教師の思いなのだろう。

章毎に語り部が変り、各々の立場からこの一連の事件のストーリーが語られる。

惜しむらくは、単行本にするにあたって書き下ろした部分の中の最後。
再度、辞職した先生が語り部として登場するあたりあだろうか。

確かに最後の結びは必要なのだろうが、そこまでは敢えて書かずに読者の想像に委ねておいた方が良かったのかもしれない。

少年A、Bの飲む牛乳にHIV感染者の血液を混入した、という冒頭の終業式の発言だけで、実際はどうだったかまで書いてしまうのは寧ろ蛇足かもしれない。

ただ、この本、もの凄い人気だったのだろう。

小説推理新人賞を受賞し、2009年の本屋大賞を受賞したのだとか。
単行本から文庫化されるのも早かった。

そしてこの5月か6月には映画化までされるのだという。

なるほど。映画化ともなれば、やはり最後のエンディングがなければシマラナイ気がする。