カテゴリー: 角田光代



八日目の蝉


ざっとあらすじ。
愛人の子供をあきらめたことで子供が作れなくなった希和子は、愛人宅へ忍び込み、発作的に愛人とその妻の子供を誘拐して逃げてしまいます。
警察から身を隠すため怪しい宗教団体に身を潜め、その団体を出てからも見つからないように生活しますが、3年半の後に逮捕されます。
物語は誘拐された子供、恵理菜の物語へと続き、理菜も希和子と同じように妻子ある人の子供を身ごもってしまいます。
そのとき恵理菜は何を思うのか・・・というようなお話。

愛人と愛人の妻への憎しみ、そして子供を持てなくなったことで余計に強くなってしまった母性が爆発して、子供を誘拐してしまった希和子。
トイレで髪を切り、一人の女性として幸せを望んでいた日々にもう戻れないことを感じたのか、愕然とします。
誘拐した子供を「薫」と名づけ、親友や見知らぬ女性の家、宗教集団を転々とします。最初は逃亡する難しさからで薫を置いていくことも頭をよぎりますが、薫と過ごすうちに母親としての愛情が芽生え、薫との日々を守りたい一心で逃亡するようになります。
希和子のしていることは大きな犯罪ですが、希和子のつらさ、そして薫に対する愛情の強さが伝わってきて、読み進むうちに希和子の気持ちに寄り添ってしまうようになりました。
でも誘拐された子供にとっては許せる話ではない。
母親だと思っていた人と突然引き剥がされて、本当の母親という人の元へ連れて行かれ、そこからついに馴染む事が出来なかった子供の気持ちを考えるといたたまれない。

とても心が痛くなる物語なだけに、どこかに救いはないかと探しました。

そして考えたのは「母性」について。

母性の強さが犯してしまった犯罪かもしれないし、母性によって希和子は薫を自分の娘として愛して、母親としての幸せを感じることができた。
愛人の妻に「空っぽのがらんどう」だといわれたことを希和子はずっと許せなかったのですが、逃亡している間、薫の存在によって自分からあふれてくる愛情を実感して、「空っぽのがらんどう」という言葉から解放されていたのかもしれない。

そして薫(恵理菜)も母親になることによって何かを許せるようになるかもしれない。

重く辛いテーマでも、最後に何か明るい光を感じられたのは、「母性」の持つ力に希望を感じられたからかもしれません。

八日目の蝉 角田光代 著



ひそやかな花園


なんともナーバスなテーマなのだろう。

幼い頃の夏休みのほんの一時期を、毎年親子連れで数組が集まり、キャンプをして過ごす。

彼らは親戚同士では無い。

親たちが学校の同級生同士というわけでも、クラブサークルの友達同士というわけでもない。

子供たちが大きくなる前にその毎年の集まりは無くなってしまう。

何故、無くなったのか、子供たちには知らされない。

成長していくうちに、もしくは成人してから、それが何の集まりだったのかを全員が知ることになる。

夫側の問題で子供が出来ない家庭に精子バンクによる不妊治療を施すとあるクリニックで出産した人たちとその子供たちの集まりなのだった。

さて、成長した子供にとって自分の遺伝子がどこから来たものかわからない、という事実は重たいか、どうか。

男の子はその事実そのものはすぐに割り切っている
逆にそれで納得、みたいに。

女の子は人それぞれで思いは違うようだ。

それにしても、父親たちのこの割り切れなさ加減はどうなのだろう。

昨今良く報道される若い親の子供への虐待事件は若い夫と同じく若いが、二度目の結婚なのか妻の連れ子が居るようなケースが多いが、彼らのような親になる覚悟も無しに親になってしまったのとはわけが違うだろう。

子供が欲しくて欲しくてたまらず、いろんな不妊治療の末にたどり着いたのが、この治療方法だったのだ。

この小説のクリニックでは遺伝子を選べることになっている。

スポーツが得意な人の遺伝子。
芸術に秀でた人の遺伝子。
一流大学出身者の遺伝子。
・・・などなど。
実際には日本ではそういうドナーの学歴や職業についての個人情報が非開示であるのが原則らしいが、欧米では開示されているケースがあるやに聞く。

そりゃ、もし選べるのなた産まれて来る子供には少しでも恵まれたものを与えたいと思うのが親というものだろうから、少しでも優秀だと思えるならそちらを選ぶのは道理だろう。

だが、成長するに従って、子供の遺伝子に嫉妬してしまう父親というのはどうなんだろう。

我が子として育てている以上、芸術に秀でていたら嫉妬する前にそれをさらに伸ばしてあげようと思うだろうし、スポーツに秀でていたらそれを伸ばしてあげようと思うのではないのか。

それで、父親が耐えられないようなことになるのだとしたら、それは実は夫婦間の問題だったのではないのだろうか。

先天的に与えられるものよりも後天的に与えられるものの方がはるかに大きいようにも思えるが当事者ではないのでなんとも言えない。

知り合いで、元来もの凄い内気で根暗なヤツが学生時代にバイクの交通事故で緊急入院し大量の輸血を行ったことがあったのだいう。
彼はその後、無事退院して現在も社会生活を送っているが、輸血後性格が変わってしまったのだとか。
大勢の前で良く話し、ゲラゲラと大声で笑い、人見知りをしなくなった。

大量輸血というものはそういうことも起こしてしまうものなのだなぁ、と初めて知ったが、考えてみれば血というのもそもそもは親から受け継ぐもの。
他人から受け継いだ血液を循環させるのだからそういうことも起こるのかもしれない。

同じように大量に輸血をした老人がそれまで怒りっぽい性格だったのが、なんだかまるくなった、という話も聞いたことがある。
但しそれには後日談があって、ほんの一時期のものだったのだとか。
やはり永年培ってきた性格というものはそう簡単には変わらないのかもしれない。

いずれにしても他人の血を輸血してもらって仮に性格が変わったからと言って、それをとやかく言う人はいないだろう。

逆にドナーの立場になったらどうか。
残念ながらというべきか幸運にもというべきか、そういう場に出くわしたことがないのだが、おそらく困っている人が居るから、と頼まれれば、献血車で献血を拒まないのと同じで差し出すのが人情というものだろう。

それをアルバイトにしたり、自分の子孫をばらまきたい願望者が居るのではないか、と読ませるのは多くの献血者的な人への冒涜になりはしないだろうか。

と、書けばこの本がネガティブな本のようなイメージを与えてしまうが、実はそうではない。

「いかに生まれるか」ではなく、「いかに生きるか」なのだと。

それまでの経緯はどうであれ、生まれて来て良かった。
生きていて良かった。

少し意味は違うかもしれないが「朝はかならず やってきます」と書かれた柴田トヨさんの詩にも通じるような元気づけられる結びに救いがある。

ひそやかな花園  角田光代著



対岸の彼女 


第132回直木三十五賞受賞作

働く女性と子育てをする女性を対岸の存在として表現していることに、なんとなく抵抗を感じながら手にした一冊。
最近よく取り上げられるこのテーマに、他と同じような展開を想像してしまいましたが、角田さんの視点はすこし新しく感じられました。

ざっとあらすじ。
主人公はちいさな子供のいる専業主婦の小夜子。
独身時代はばりばり働いていたけれど人間関係に疲れて結婚と同時に退職。
再び世間とのつながりを求めて働き始めることを決意します。

そこで出会ったのが独身女社長の葵。
意気投合しますが山あり谷ありで決別。

間には学生時代の葵のエピソードがあったりします。

いろいろなエピソードから、小夜子と葵がまったく違う人生の経験を通して、まったく違う人間になったのではなくて、
意外と同じ感性や感覚を育てていったことが伝わってきます。

高校時代、いろんなことを言わなくても伝わるくらい近くに感じられたた友人と、卒業後、進路を別にして徐々に距離が離れていった経験があります。
壁を作っていたのは何だったのか、わかるようではっきりわかりません。
でも、きっと自分の中の勝手な決め付けが彼女を遠ざけてしまったのだと思います。
この本を読んでいると(もしかしたらこれは女子独特のものかもしれませんが)、誰にでもある苦い思い出がよみがえってくるような気がします。
そして、そのことを悔やむだけではなくて、またもう一度小さなきっかけを自分が作ることで、対岸の彼女をこちら岸に、もしくは自分をあちら岸に連れて行けるかもしれないと思わせてくれます。

すぐ近くに感じた人でも何かのきっかけで対岸の存在になりえること、
対岸の存在だと思い込んでいる人が、実は寄り添える存在であったこと、
もしかしたら対岸と感じさせているのは自分の人生を肯定したいという弱い思い込みだったりすること。
そんなことを考えさせられる一冊です。

対岸の彼女 角田光代著 第132回直木三十五賞受賞作