カテゴリー: ジェフリー・アーチャー



十一番目の戒律


この本、数あるジェフリー アーチャーの作品の中でもピカ一なのではないだろうか。
CIAのエージェントであるコナー・フィッツジェラルドに課せられた現役最後の役目、反米を売り物にする当選確実のコロンビア大統領候補の選挙期間中の暗殺。
この指令は、CIAのヘレン・デクスターという女性長官から発せられたもの。
この女性と副長官との会話などを読むと世の中に起こること全てが陰謀と謀略によるものではないか、とさえ思えてしまう。

自国の大統領でさえ、次の選挙まで間の短命な指導者。そんなものに追随するつもりなどさらさら無く、米国で最も権威、権力があって必要不可欠な存在は自分だと信じて疑わない。
アメリカの大統領が短命だって?でも任期は4年、再選時は現職有利な事が多いので2期8年間、その座に居る事が多いというのに。
それでも女性長官から言わせれば、大統領選挙は4年に一回でもその間に中間選挙があるので、2年に一回は大統領は国民に媚を売らねばならない。
それに比べてCIA長官の地位は選挙なんて無関係。
その気になれば20年でも30年でもその地位に踏みとどまれる。

4年~8年その地位に居る指導者でも「いずれは変わる」などと思われる程度なのだとしたら、日本の指導者は官僚からいったいどう思われているのだろう。
一年毎に交代する首相。1年に何人も入れ替わった農水大臣。
麻生政権が組閣してわずか5日。たったの5日で辞任してしまう国交省大臣。
各省庁の役人がそのリーダーシップに引っ張られて、なんてどう考えたって考えられない。
同じ9月。ほんの少し前に短命で去って行った大田農水大臣には職員から花束贈呈があったそうだが、この国交省大臣に関してはそんな事も行われなかっただろう。
まぁ、その花束代にしたって官僚が身銭を切っているとは思えない。どうせ税金なのだろうから、花束贈呈などという悪しき慣習も終わらせるに越したことはないが・・・。

話が少し横道に入ってしまったが、民意が選出した政治家の指導者に対する尊敬も信頼も命令服従の気持ちのかけらもない人間がそれぞれの省庁の実権を握っていることと、CIAの長官職に就いていることはある種共通するものがあるだろう。
もちろん官僚が暴走するよりもCIA長官が暴走する方がはるかに恐ろしいのだろうが・・・。

彼女の一言はありとあらゆる捏造を可能にする。
その気になればどんな人間のプライバシーだって知り得てしまう。
どんな政治家でも彼女がその気にばれば失脚させることなど容易いこと。
それまで存在した人間の生きた痕跡を消してしまうことだって行えてしまう。

これはもちろんフィクションだが、冒頭のコロンビアでも過去、選挙中、在任中を問わず、暗殺された指導者、国会議員などいくらでも居ただろう。
都度、麻薬を扱う非合法組織が仕組んだものとして片付けられた。
コロンビア以外でもそんな例はいくらでもあるだろう。
自国のケネディ暗殺にしてもそう。
このCIAの女性長官にかかればそんなことはいとも容易く行えてしまえそうなところがなんとも不気味である。

このCIAの女性長官に負けず劣らず、民主主義にて選出された指導者を小ばかにしているのが、ロシアの新大統領。
彼は就任した後に選挙は二度と行わないつもりでいる。
この本が出版されたのは1998年。まだエリツィン政権の時代だが、その先のプーチン政権の誕生を予見しているかの如くである。

両者とも「誇りある強いロシア」の再建を目指す。
小説に登場するゼリムスキーロシア新大統領は、スターリン、ブレジネフの再来と呼ばれることを喜ぶが、現実のプーチンはむしろソビエト誕生前の帝政ロシア時代の方を目指しているのかもしれない。
ソビエト時代に消えていたコサック兵なんかもプーチンの時代になって再来した。
秘密警察を再結成し、それが暗躍していることを世界に知らしめたのは2006年の女性ジャーナリストの暗殺だろう。
そして北京オリンピックの開幕と共に開始されたグルジア侵攻。
プーチンは任期8年で大統領の座を後任のメドヴェージェフへ引き渡したが、プーチンの傀儡政権とも呼ばれている。
生きている限りは政権TOPの座に、という物語のゼリムスキーと似ていないだろうか。

コロンビアの暗殺事件への関与を大統領から疑われたCIAの女性長官は、CIA内で最も有能なエージェントであるコナーの存在を消し去り、なきものするための画策を行うが・・・。
逆にCIAで最も有能なエージェントなだけにそんなに容易くなきものにされるのだろうか。
その舞台がひっきりなしに変わって行くので、読む側に若干の煩わしさはあるかもしれないが、逆にそれはそれで物語をテンポ良くさせてもいる。

とにかく最後の最後まで読みどころ満載な読み物なのだ。

十一番目の戒律 ジェフリー アーチャー (著),The Eleventh Commandment Jeffrey Archer (原著), 永井 淳 (翻訳)



盗まれた独立宣言


この本が書かれた時期は、第一次湾岸戦争の後の頃。
9.11が起こるより前の頃。
当然、イラクのサダムフセインは大統領として健在である。

この本を読むと9.11があろうと無かろうと、大量破壊兵器があろうと無かろうと、その後のイラク戦争は起こるべくして起こったのだろうな、などと思えてくる。

アメリカにとっての独立宣言の原著とはどんな存在なのだろう。
世界の国々の中ではアメリカは歴史としてはまだ浅い国の範疇に入るだろう。
そのアメリカ国民にとってのアイデンティティの象徴の様な存在なのではないだろうか。
事もあろうにサダムフセインはその独立宣言の原著を盗み出し、国民の目の前でそれを焼き捨ててしまおうという計画を立てる。

ジェフリー アーチャーをして、そういうストーリーを書かせる背景には、湾岸戦争の結末が中途半端なものだったという英米の民意の表れなのかもしれない。

湾岸戦争当時の多国籍軍側の各国首脳、アメリカは先代のブッシュ、イギリスのサッチャー、ミッテラン、ゴルバチョフ・・それぞれ皆、引退してしまっているのにも関わらず、負けた側のはずのサダムフセインはそのまま独裁政権を維持し続けている。
一体全体勝ったのはどっちなんだ。
何故、あの時、サダム政権を倒すまでやってしまわなかったのか、そんな時代背景や民意がこの本を書かせたのかもしれない。

イスラム圏の国民は大抵アメリカが嫌いなのと同様にアメリカ人にとってはサダムフセインだけは許せない存在の一人だったのだろう。

サダムフセインは今でこそ過去の人だが、これが書かれた時は現役のイラク大統領だったはず。その現役の一国の大統領をもちろん実名で小説という範疇の中で犯罪的行為者として書いてしまうなんてこと、有りだったのか。

この本、独立宣言を盗むという発想も奇抜ながら、その盗む計画内容も巧妙でなかなかに面白く読み応えがある。

また暗躍するスパイ、イスラエルのモサドやアメリカのCIA、イラクへの潜入やイラク国内での反フセインの部族の人たち・・・いろいろと読み応えのある本である。



ケインとアベル


時を同じくしてアメリカとポーランドでそれぞれ男の子が誕生する。

アメリカで生まれたケイン。
裕福な銀行家の一人息子として生まれ、将来を約束された様な子供。

もう一人は、ポーランドの田舎で生まれた赤ん坊。
生まれてすぐに捨て子となった赤ん坊は、猟師の家に拾われ、やがて近隣の男爵家に認められるが、第一次世界大戦、大戦後の革命後ロシア(ソ連)による国家の蹂躙と、波乱万丈の少年時代をすごす。

長期間にわたる地下牢での生活、ソ連の収容所送り。
多くの同胞が殺戮される中にあってこの少年は希望を捨てなかった。
収容所からの脱走、そして当時の新世界、アメリカへと渡る。

この物語の前段ではまさに蹂躙の歴史、ポーランドの悲哀そのものをヴワデグという少年((後のアベル)をとおして描いている。
その後もポーランドはヒットラーに蹂躙され、そしてスターリンに蹂躙される。

片やのケインはというと父親をタイタニック号の事故で失い、後に母親も亡くしてしまう不幸はあるが、頭脳は明晰、成績は優秀、常にトップをひた走る。

ケインは20代の若さで銀行の取締役、そして副頭取となる。

ジェフリー・アーチャーに読まされるとその若さで副頭取になっても決しておかしいとも思わなくなってしまうので、不思議である。

現実界ならどうだろう。

特に日本ならどうだろうが、「20代はもっと苦労せい!」と言われてしまいそうではないか。
銀行なら各地の支店の営業を経験して預金集めに歩いたり、清算部門を担当するのなら担保の処分をするだけでなく、その企業へ出向して内部から会社を立て直したり・・・そんな事をいくつもやってきてこその銀行マンじゃないのか、などと・・・。
財務部門で収益をあげる、つまり株式投資の運用益をあげた者だけが有能な経営者なわけないだろう、アメリカではそうなのか?などと。

それがジェフリー・アーチャーが描く登場人物は、読者からそんな批判めいた言葉が生まれ得ないほどに非凡なのである。
その少年時代の生い立ちの描きで、その年齢を超越した非凡さを読者も納得してしまう。

アベルの方も非凡さではケインに引けをとらない。
アベルは希望を捨てなかっただけでなく、アメリカンドリームを勝ち取ろうとする。

生涯を百貨店の売り子として満足する人生もあれば、ホテルのレストランのウェイターで満足する人生もあるだろう。

が、アベルはそんな立ち居地では満足できない人だった。

この人の場合もやはり最初の資金作りは株式なのである。
アメリカンドリームとはすなわち株式投資の成功者の事なのか?

アベルもまた優秀な人なのだが、頭角をあらわすきっかけは、たまたま引き抜かれたホテルでの不正を摘発するところから。

そこでの不正は上から下まで行なわれており、社員が皆してホテル食いものにしている。ホテルに喰らい付いたダニの様な存在である。
宿泊者が100人居ても、内10人は無かった事にして関係した社員が宿泊費をネコババしているのが日常茶飯なのであれば、もし利益率が10%あったとしても、どれだけお客が増えようが、ホテルが黒字になるはずがない。

なんかどこかで聞いた事があるような話ではないか。
日本のどこかの自治体では上から下までが税金を食いつぶそうとしていた、とか。

それを改革するにはどうするか。従業員の意識改革などという生っちょろいやり方ではない。
もちろん、首切りである。
「明日から来なくていいから」
日本ではなかなか拝めそうにない光景である。

それにしてもこの「ケインとアベル」って旧約聖書の創世記の登場人物じゃなかったっけ。ってあちらは「カインとアベル」か。
紛らわしい事極まりないが、単なる偶然とは思えない。
登場人物のセリフにも旧約聖書の創世記がどうの・・って出て来るぐらいだから、作者はたぶんに意識しての命名だろう。
とはいえ、「カインとアベル」の何にちなんだのか、その類似性は見つけられなかった。
ケインはこれっぽっちもカインではなかったし。

この本は、第一次大戦、禁酒法の時代、アメリカ発の世界大恐慌、ニューディール政策、真珠湾攻撃と第二次大戦参戦、そして戦後というアメリカの近代史そのものを二人の主要な登場人物の歩みと共に描いている。

この本の描くもう一つは憎悪というものの愚かさだろうか。

我々の様な凡人の日常の中においては人に好悪の感情はあれ、憎悪というところまで達するような事はまず有りえない。
上司にどれだけ不満があったところで、せいぜい同僚とグチれば事足りるし、顧客にも同業他社にもそんな存在は見当たらない。

「ケインとアベル」はその憎悪という感情がもたらしす数十年という歳月のあまりの無益さを、あまりの悲しさを読者に教えてくれるのである。

長編でありながら、途中ではなかなかやめられない本の一冊である。

ケインとアベル  ジェフリー・アーチャー (Jeffrey Archer) (著) 永井 淳 (翻訳)