カテゴリー: ジェフリー・アーチャー



運命の息子


過去二度も死産してしまっているのでこれが最期のチャンスと言われる大富豪の夫人の出産。
同じ日に平凡な保険のセールスマンの夫人も同じ病院で出産。こちらは双子を無事に出産する。
出産したその晩に富豪の赤ちゃんは亡くなってしまう。これを見かねた家政婦がその亡がらと双子の赤子の一人と入れ替えてしまう。

こうして双子としてこの世に生を受けながら、各々の道を歩んで行く。
とは言え、運命の息子というタイトルからして、さほど遠くないうちに二人が遭遇するだろう事は大半の読者は想像するだろう。

物語はこの二人を交互に描いて行くのだが、その切り替えがあまりにも急ピッチなのに少しとまどう。

二人は敵になるのか、味方になるのか、凄まじく影響し合うであろう事は予想に難くないが、この長い長い話でなかなか出会ってくれないのだ。

じりじりとしながらもその時を待つ読者。
しらす作家。

「選挙」というキーワードと「裁判」というキーワード。
これらが絡んで来る事は物語を読み進めて行けば大概想像できるのだが・・。
その時はなかなかおとずれない。

この二つのキーワードはどちらもジェフリー・アーチャーには馴染みのあるものなのだろう。
ジェフリー・アーチャーは英国保守党の元国会議員。
偽証罪の罪で裁判で争うという過去を持つ。

この物語、舞台はアメリカだが、アメリカやイギリスでは学校の学級委員や自治会の会長になるために本物の選挙さながらの選挙戦などを行なうものなのだろうか。

運動員がいて、選挙参謀がいて、選挙戦術があって、とまるで本物の選挙さながらである。

日本の学校ではなかなか想像するのも難しい事である。

もし実際に行なわれているのなら、クリントン VS オバマ、そしてその勝者 VS マケインの様なことを学生時代から弁論やはたまたネガティブキャンペーンなども学生時代から体験して来ているという事なのだろうか。

そういう素地の無い日本とはやはり文化が違うのだろうな、などという感想を持ってしまう。

運命の息子達はいずれ出会い、お互いに影響を及ぼす関係となるのだが、ちょっとそこまでの「じらし」は長すぎるのではないだろうか。

ジェフリー アーチャー (著), Jeffrey Archer (原著), 永井 淳 (訳)



無罪と無実の間


「無実」と「無罪」一見、同義語のように感じてしまったりしがちな言葉です。
少なくとも司法の世界では同義語ではないでしょう。]
「被告は無実を叫び・・・」、「被告は無実を訴え・・・」などと言うような報道のされ方が多いのでついつい勘違いをしてしまいます。

裁判の結果「無罪」を勝ち取ることはあってもそれがすなわち「無実」の証明を勝ち取ったことではないでしょう。
限りなく黒に近いが証拠不十分ならば「無罪」。決して「無実」ではない。
「被告の心神喪失による責任能力の欠落の結果の無罪」という場合ももちろん「無実」ではないでしょう。

「無罪と無実の間」の主人公はイギリスの勅撰弁護士デーヴィッド・メトカーフ。
エリート弁護士で数々の訴訟で勝訴し名を残した人で英国弁護士会の会長。
その弁護士があろうことか、妻殺害の容疑で起訴され法廷に立つ。
弁護人は付けずに自分自身で弁護を行なう。

検察側の証人からはデーヴィッドとって不利な証言が次から次へと出て来る。
なんと言っても犯行を見たという家政婦の証言。
一番身近な存在だけにそのインパクトは大きい。
家政婦は言う。毎晩のように酒を飲んで遅くに帰って来ては妻に暴力をふるうと。
妻は週に一回しか飲んではいけないという劇薬を処方されている。
妻がその劇薬を既に飲んでいるのを知りながら、さらにもう一錠、紅茶に溶かして彼女に与えたのだという爆弾発言。
さらに、株式投資の失敗による多額の借金をデーヴィッドが負っていた事も判明する。
妻が亡くなる事で、その遺産により借金を清算することが出来る事も。
もちろん、デーヴィッドも有能な弁護士なので黙っているわけではない。
家政婦がどれだけデーヴィッドという主人を嫌っていたか、暴力を奮っていたなどとは家政婦の妄想に等しい事。家政婦が見たという距離からは錠剤の色が識別出来なかったであろうこと・・・などなど。

判事は陪臣員に言います。
裁く(ジャッジする)のはあなた方です。
評決は陪臣員の責任です。
さぁ、デーヴィッド・メトカーフは有罪ですか?無罪ですか?

日本にも陪臣員制度が導入されます。
2009年(平成21年)5月までに開始予定ですので、あと1年と少し。
さて、選ばれた人達は有罪か無罪かなどという大それたジャッジが出来るのでしょうか。ジャッジ次第で弁護士会会長という社会的立場のある人を永久にその立場から葬るばかりか、法廷にも二度と立てないでしょうし。過去の栄光も信用も全てを失わせてしまうことになるのです。

もっとも、この法律、正確には「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」と言うらしいのですが、今年に起こるかもしれない政変次第では本当に来年に施行されるかどうか、雲行きは怪しくなって来ましたが・・。

日本のこの陪臣員(裁判員)の制度と英国の制度との大きな違いは英国の場合は陪臣員の責任のもと陪臣員が判断しジャッジを行なうのに比べて、日本の場合は一般の市民が、裁判官と一緒に(原則一般の市民6名、裁判官3名)なっての評議・評決を行なう、という点でしょう。
そうなると、どうしても裁判官の方が主導権を握ってしまうのでは?などと思えてきたりもします。

いずれにしろ、この様な「Guilty? or Not guilty?」(有罪か無罪か)などというシロかクロかの二者択一を迫られる場面などかなりレアなケースの様な気がします。
どちらかと言えば量刑の軽重を問われるケースが大半なのではないでしょうか?
15年が相応しいのか25年が相応しいのか・・・。
などとなるとますますシロウトの出る幕では無さそうな気もして来ます。
極端な凶悪犯罪で死刑が相応しいのか無期懲役が相応しいのかと問われた方がまだ意見は言えるでしょう。但しそのジャッジに参加する個々人は非常に辛い気持ちになるのでしょうね。

と、いうような事はこの本の主題とは全く関係ありません。

関係が無い事のついでに英国の司法制度について、興味ある記述がこの文庫本の解説にありましたので、簡単にふれておきましょう。

冒頭に勅撰弁護士という言葉を使っていますが、今一「勅撰弁護士」と言われてもピンと来ないのではないでしょうか。
勅撰弁護士とは「Queen’s Counsel」の訳で、功績のあった弁護士に与えられる称号なのだそうです。

英国の法廷弁護士はバリシターと呼ばれる。そのバリシターは被告側の弁護に立つことも検察側に立つ事も出来るのだといいます。双方が弁護士なわけです。
また判事もバリシターから転じる人がほとんどなのだといいます。

日本でも裁判官、検察官、弁護士、皆司法試験に受からなければなれないのは同じですが、その後は官になる人、民になる人で各々立場が異なります。その後に官から民へはあっても民から官へは無い。裁判員の制度で裁判官に民をという事であれば、バリシターの様な制度も一考かもしれません。

と、全く本題からずれまくりました。この本は陪臣員制度を問うものでもバリシター制度を問うものでもありません。

病気の苦痛をこらえて夫に尽す妻。
妻の苦痛を知り妻を愛する男の愛するが故の苦悩。またその社会的立場としてのジレンマの行く末。
そういうものを描いた戯曲なのです。

有罪として裁かれればもちろん社会的生命は終りを告げるが、無罪となったとしても愛する妻の亡き人生。法廷へ立つ気力は失せてしまう。法廷へ立つ事だけが生きがいのデーヴィッドにすれば、いずれの道も社会的生命が絶たれてしまう事になる。

短い読み物ですがそれなりに読みごたえがあります。
1980年代後半に書かれたものでありながら、いまだにロンドンっ子の間では売れ続けているのもうなずけるような気がします。

尚、文庫本解説の辻川一徳さんの記述ではバリシターの説明だけで無く、ソリシター(事務弁護士)の事。英国の司法制度を丁寧に説明しておられますので、そのあたりも興味深く読めます。