カテゴリー: サ行



ブルー・セーター


幼い頃、もしくは少年少女時代に、
「世界をもっと素晴らしく!」
「世界を変えてみたい!」
「世界から貧困を無くそう!」
なーんてことを思ったことのある人は結構いるんじゃないのかなぁ。
それでもそんな気持ちを成人して大人になってもずっと持ち続けて、それを実践しようとする人、となるとそうそうざらにはいないだろう。

著者は学生時代に気に入って着ていた青いセーターをアメリカのバージニアのリサイクルショップで出すのだが、その後そのセーターはどこをどう辿っていったのか、10年後、著者がアフリカのルワンダを歩いていた時に少年が来ている青いセーターと再開する。

この「ブルー・セーター」というタイトルはそこから来ている。
そのセーターを見た著者は世界は繋がっている、と実感する。

この本は「世界を変える!」という気持ちを持ち続け、それを実践し続けて来た一人の女性のドキュメンタリーである。

著者は大学を卒業した後にチェースマンハッタンへ就職するのだが、「世界を変える」を捨て切れず、単身アフリカへ渡る。

著者の持論は、無責任な慈善と言う名の援助が最も悪い、という事。
その考え方は、『傲慢な援助』(ウィリアム・イースタリー 著 東洋経済新報社刊)と相通ずるものがある。
『傲慢な援助』では、「プランナー」と「サーチャー」二つの立場を説明し、机上でプランを立てるだけの無責任な援助計画を批難している。

論点は似ている。
だが、ジャクリーン・ノヴォグラッツさんは述べる人ではないのだ。
行動する人なのだ。
この人は実際に現地へ行って、現地の人と共に今後、自立し、自尊心を持ってメシが食える道を模索する。

初就職が銀行だけあってか、その手法は女性向けのマイクロファイナンスというという最貧層の女性への貸付を行うことからスタートする。
それはあくまでも貸付であって、資金援助ではない。
だからあくまでも返済されるべきお金として取り扱う。

最初に彼女が実務として手掛けたのがルワンダでのマイクロファイナンス。
それを立ち上げつつ、ルワンダ女性が何か起業出来ないか、と製パンを行う女性たちを教育し、ルワンダ女性によるベーカリーの店のオープンまでこぎつける。

このあたりを読んでいる時には、かなり押し付けがましくも見えないこともないなぁ、という感想が頭をよぎる。
彼女にしてみればまさに孤軍奮闘。獅子奮迅の活躍なのだが、押し付けがましくという表現を用いたのは、やはり各地域地域にはそれなりの伝統、文化というものがあり、彼女がそれはおかしい!と激怒しながら邁進して行く姿は、戦後アメリカ式民主主義を押し付けた占領軍を彷彿させられてしまった面があるからかもしれない。

彼女が忌み嫌う、役人、警察、軍隊の賄賂など当たり前の国がまだまだ世界にはわんさとあるのだ。
男性と女性の関係にしたって各国の文化や風習によって各々まちまちのはず。
どの国もアメりカのように女性が男性と同等に扱われるべき、などという考えはまさに押し付けだろう。

それそのものを一つ一つ潔癖にダメの烙印を押して自分を通し過ぎても無理は出るだろう。
ある国では車で移動すれば、各所各所で地元軍隊に止められて、パスポートの提示を求められ、なかなか思うように移動出来なかったり、という場面に遭遇した人は多いだろう。そんな時にほんのわずかな小銭を掴ませるだけで、すいすいと通してもらえる。
それは効率を考えればどうしてもそうなる。
そこで、それはおかしいだろう、と我を通してみたところで、時間が無駄になるだけなのだ。

ベーカリーにしても彼女はルワンダ女性たちにセールスへ行くように指導するがなかなか進まない。
何故か?彼女は問う。
「女性は見ず知らずの人に物を買ってくれ、とは言わないものです」
との答えの更に何故?彼女は問う。
「失礼にあたるからです」
こんなやり取りなどはまさに、彼女達のお国の文化なのであって、そこへアメリカ式のビジネスウーマンスタイルを持ち込んで、さぁやれ、とばかりにはっぱをかけるのは、少々勇み足では無かろうか、などと読んでしまう。

ともあれ、ベーカリーは軌道に乗り、それまで、日がな寄付という名の援助を待っていただけの女性達が自ら稼ぐ、ということの魅力を知ることになるのだから、やはり軍配は彼女に上がったということなのだろう。

彼女がルワンダを去った後に、あのルワンダ紛争、いや紛争というよりフツ族によるツチ族へのジェノサイドが行われる。
人口800万の国で100日で80万人が虐殺されるという、とてつもない大事件が起こってしまうのだ。

それでも彼女は立ち止まらない。
とにかく動き続ける人である。

むやみな援助は返って人をダメにする。
製粉業を行え、となかりに製粉機を押し付ける援助プロジェクト。
製粉機があったって、使い方を知らなければ何もならない。
メンテナンスの仕方がわからなければ、わずかな期間で故障と思いこんで使わなくなる。
オイルが切れただけでももう機械はゴミになっている。

善意のお金は学校は建てても、そこで腰を据えてものを教える教師までは育て無かった。その結果、学校は空虚な箱として残るだけとなる。

そんな援助が彼らをダメにするんだ、と。
まさしくその表現があたっているのだろう。

人は貧しい人のために何か自分でも出来ること、という名の下の施しを行おうとするが、その善意の施しが返って世界の貧富の差を拡大する。
彼女が最終的に辿りついた、アキュメン・ファンドは施しでは無い。ビジネスを創設させるための社会投資型ファンドである。

幼い頃に「世界を変えたい」と思い、25歳でアフリカへ渡り、ルワンダでマイクロファイナンスを軌道に乗せた、初の女性ベーカリーを軌道に乗せた、と言っても、彼女は挫折の連続である。
コートジュボワールではアメリカの小娘に用は無いとばかりの扱いを受け、最後は脅しの毒までもられてしまう。
援助プログラムについて、こんな無駄がある、という類の報告書は提出した役人に捨てられてしまう。
そして、唯一成功と言えたルワンダが、ジェノサイドによって無茶苦茶になってしまう。
ベーカリーの女性は全員、殺されたのだとか。
それでも、その後20年を経ても尚その志を変えない。

まさに不屈の人である。

ブルー・セーター<引き裂かれた世界をつなぐ起業家たちの物語>ジャクリーン・ノヴォグラッツ(Jacqueline Novogratz)著 北村 陽子 (翻訳)



萌の朱雀 


過疎化の進む村でのお話。

登場する人たちも、風景もとても静か。

登場人物の感情が澄んでいて、まっすぐ入ってきます。

でもだから、とても悲しい。

ざっとあらすじ。

過疎化の進む「恋尾」に暮らす主人公みちる。
優しく物静かな父孝三と母泰代に大切に育てられた高校生。
兄妹のようにして育ったいとこの栄介に恋をしています。

孝三は、村に待ち望まれてきた鉄道の工事に長年従事していましたが、
その計画が中止となり、失業してしまいます。

それでも家族で協力して生きていこうとみなで頑張りますが、
孝三は現実を受け入れられませんでした。

多くを語らずとも理解し合い、支えあってきた孝三と泰代夫婦。

孝三を柱として暮らしてきた恋尾で
泰代は暮らし続ける事ができませんでした。

そして恋尾に暮らしてきた家族はばらばらになってしまいます。

一番印象に残っているのは、
みちると栄介がまだ子供の頃の夏、家族でピクニックへ行く場面です。
家族でお弁当を食べて、お茶を飲んで、子供たちが遊ぶ。
天気がよくて緑がたくさんあって、暑いけど木陰は涼しい。
その光景が目に浮かぶようでした。

自分の子供時代にも、家族で出かけて、母の作ったお弁当を食べてその周りで遊んだ記憶があります。

父と母の姿がちゃんと見えて、お腹がいっぱいで、完璧な安心感のど真ん中にいました。無くなるわけが無いし、壊れるわけが無いと思っていた幸せでした。

だからみちるが大切な家族を失って、家族がばらばらになっていく姿に心がじんじん痛みました。

無くなったから、ばらばらになったから、幸せだった気持ちがなくなるわけではありません。
でもできる事なら失いたくないし、今ある幸せを十分に大切にしないといけないと思いました。

そしてこの物語では過疎化についても考えさせられます。
生まれ育った土地を大切にしてきた人たちの思いが、
世間の流れにかき消されている現実があります。
過疎化の問題は都会に住んでいると忘れてしまいがちですが、
考え続けていかなければいけない問題だと再認識しました。

この本は、心がちょっと痛むけど、
心がちょっと澄んだように思える一冊です。

萌の朱雀 仙道直美著



犯人に告ぐ 


本の帯には伊坂幸太郎からの文章で「最高だねこれは・・・つづきが気になるあまり風呂場でも読んだ・・」などと書かれている。
伊坂幸太郎をしてそこまで言わしめた本を読まないわけにはいかない。

かつてグリコ・森永事件という事件があった。
新聞マスコミに犯人からの声明文が届き、その内容は警察をおちょくるものであったり、次の犯行を予告するものであったり、その内容をどのメディアも取り上げ、新聞、テレビ、週刊誌・・などがこぞって犯人像を推理した。
劇場型犯罪と呼ばれるものの典型であろうし、最も成功した例でもあり、日本の劇場型犯罪の走り的な事件でもあった。

その後、あれほどあざやかな手口の劇場型犯罪事件は起きないが、凄惨で且つ劇場型と呼ばれる事件は、後を絶たない。
宮崎某の起こした埼玉県入間市での連続幼女誘拐殺人事件。
宮崎は、「今田勇子」(今だから言う)の名での声明文を新聞社に送り付けている。

神戸で起きた連続児童殺傷事件では、酒鬼薔薇聖斗を名乗る犯人から新聞社に「さあ、ゲームの始まりです・・」で始まる声明文が送られている。

ここまで凄惨な、というのは珍しいが、類似の劇場型狙いの事件も多々起き、刑事もののドラマや映画でも散々劇場型犯罪を扱ったものが登場しているのではないだろうか。

この小説、劇場型犯罪に対して、劇場型捜査を行うという画期的なもの。

四人の幼児を殺害し、さらにテレビ局宛てにニュース番組の女子アナへの脅迫を手紙で寄こした犯人。
事件を指揮する捜査官がニュース番組に登場して、申告することをためらう目撃者達に捜査協力を呼び掛ける体裁を取りながらも、「犯人に告ぐ!」と犯人に呼びかけながら、本音は犯人からのメッセージを待つ、という捜査手法。

メッセージが来れば、なんらかのボロが出て来るだろうという読みだ。
犯人になりすましたいたずらのメッセージが山のように来ることで、またそのメッセージに引っかかってしまうことで自己顕示欲が強いはずの劇場型犯罪の犯人からいずれ、本もののメッセージが来るだろう、という読み。

主人公は巻島という警視で、6年前に身代金目当ての幼児誘拐犯に振り回された揚句に、犯人を取り逃がし、且つ誘拐されていた幼児を殺害されてしまう、という大失態を行ったチームの中心に居た人物で、その6年前の失態をずっと心の中のしこりとして残している。
尚且つその失態は捜査のみでとどまらず、上司から責任を押し付けられる形で記者会見に臨み、その場で記者とカメラの餌食にされてしまう。

目の前の記者に腹が立ったばかりにそのカメラの向こうの視聴者を忘れ、暴言をはいてしまう。理由は腹がたったからばかりではなかったが。

そんな辛い過去を持ちながらもまた、テレビの前で犯人に呼びかけるという役回りを買ってでる。

犯人に呼びかけるということは、犯人側の気持ちにたったコメントもせねばならず、少なからず、犯人憎しの世論から遠ざかり、警察への不審に繋がるかもしれないという諸刃のやいばのような作戦なのだ。

この小説は、こういうテレビを使っての犯人とのやり取りというストーリー展開も読ませてくれるが、それだけではなく、常に「責任を取る」という立場とは一線を引く、キャリア官僚と叩き上げ刑事との違いを見事に浮き彫りにしている。

上司で本部長にあたる曾根という男もキャリアならではの責任というものから除外された立場であるが、この男などはまだ、犯人を捕まえようという強い意志がある分救いがある。

救いの無いアマちゃん官僚が登場する。
牧島より上司だから、という立場を利用して、捜査員なら絶対に漏らさない情報を自分個人の目的のために平気でライバル局へ漏えいする。

こういう男が捜査を妨害する。
牧島はこの男へはキチンと処置を施すのだ。若干甘いと言われれば甘い処置かもしれないが・・・
取りあえずは読んでいる方もスカっとするには違いない。

それでもまぁ、こういう捜査はほとんど博打に近いものなのではないだろうか。

実際にあのグリコ・森永事件では犯人グループから、何度も何度もお手紙が来たが、警察はその尻尾すら掴めなかったのだし。

ローラー作戦にしたって、グリコ・森永犯は「ウチへも来たでー」とうそぶいていたではないか。

そう。それだけ博打だからこそ、これだけ面白いのだろう。

伊坂幸太郎が言った通りだった。
長編なのにもかかわらず、一旦読み始めてしまったら、一気に終わりまで読まなければ気が済まない、そんな小説だった。