カテゴリー: サ行



テスカトリポカ


ものすごい本に出会ってしまった。

序盤からものすごい迫力シーンの連続。
メキシコの麻薬密売組織の凄まじさは日本のヤクザ屋さんなんかのもはや比較対象にもならないな。

麻薬組織が牛耳っている町では、もはや観光客の姿はなく、海外から取材に訪れた記者とカメラマンは二度と国境を超えることなく、死体で発見される。

警察も検察も麻薬組織に立ち向かえる術を持っていない。
汚職警官だからではない。正義を貫こうにも彼らにも愛する家族が居るからだ。

家族に危機が及ぶことがわかりきった世界で、彼らに立ち向かえるものなどいようはずが無い。

あるとすれば、縄張り争いとなった別の麻薬密売組織だけだろう。

その密売組織同士の抗争でライバル組織からアジト攻撃され、四人兄弟の内、一人だけ生き延びた男。
彼の生きる力は凄まじい。

と同時に人の命を奪うことへのあまりの容易さにも驚くが、それは単に彼が残虐非道な麻薬密売組織を牛耳っていたからというだけでは無かった。

彼の祖母に由来する。かつて彼の祖母の先祖はいにしえのアステカの戦士の長だった
人の心臓を取り出して、その顔の上に心臓を置くという儀式もアステカの神に対するいけにえの儀式なのだった。

この話、後に舞台を日本に移してからの箇所はともかく、前段を読んでいて、この話どこからがフィクションなのだろう。と思うことしばしば。

登場人物はフィクションにしても麻薬の運び方、隠し方、麻薬の種類、価格、そういう組織の在り方、世界における麻薬密売組織の影響力、市場規模。中南米のみならずインドネシアあたりでも実在のテロ組織の名前まで出てきたりする。
この作者はいったい何者なんだ。
麻薬密売組織の幹部と親しくなって、取材させてもらったとか。
もしそうなら、散々取材はさせてもらえても、二度と国境を超えさせてもらってないはずだろう。

巻末に大量の参考文献が掲げられているので、本から得た知識も多々あるのだろうが、何か実際に自分で体験しているものでなければ書けないんじゃないか、みたいに思えてならなかった。

それだけ描写が見事ということなのか。

話は四人兄弟の内の一人だけ生き延びた男が復讐を誓いつつ、まずは資金集めと新たな組織づくりのために臓器売買に手を出し始め、やがて舞台を日本に移してくるわけだが、物語の中でどんどんエスカレートしてくるのが、アステカ王国の神話の様な話。
いくら祖母から聞かされていたといったって、その祖母だってまた聞きのまた聞きだろうに。
なにゆえ、学者でもない彼がそこまでアステカの歴史に詳しいんだ。
それにこの本のタイトル(テスカトリポカ)もそうだが、一応日本語のルビとして登場するアステカの言葉、数が多すぎて、というよりなじみがなさすぎてだろうか。読むには読めてもあらためて言葉として発音してみろと言われても絶対にできない自信がある。

読み手の一人としてはそのあたりがちょっと辛かったところでもあるが、この本が物語として成立するにはアステカ文明のことがマストなのでそこは我慢して受け入れるしかないだろう。

テスカトリポカ  佐藤究著



神さまの貨物


昔、昔あるところに、と昔話のような始まり方をするが、綴られていくのはかなり残酷な話なのだ。

貧しい木こりのおかみさんは、子供を授けて欲しいと神に祈り続けるが、叶わないまま産める年齢を過ぎてしまう。
彼女は森を走りぬける貨物列車を気に入って、毎日毎日、近くまで行って眺める。
そんな時に貨物列車から天の授かりもの、そう願い続けた赤ちゃんが列車から降ってくるのだ。

その貨物列車とはナチスがユダヤ人捕虜を乗せて行く列車なのだった。
赤ちゃんを投げた父親は苦渋の決断だった。

彼女は字が読めない。世の中の事も知らない。ユダヤ人がどうなっているのか、戦争がどうなっているのかなんて全く知らないし、興味もない。ただ、神が与えてくれたこの小さな命をひたすら喜び、命懸けで守ろうとする。

ナチスドイツが敗北すると赤い兵隊(ソ連)がやって来て、彼女を守ってくれた人も殺してしまう。
が、彼女はその人が残した羊の乳からチーズえを作り、それを売ったお金で子供を育てる。
「ただ一つ存在に値するもの。それは、愛だ」
この本の訴えたいことはその一点。

この作者の父と祖父が実際に収容所行きの列車に乗っていたという。

このおかみさんの視点から物語を書くに至るまでには子供を投げた父親の境地から何度も何度も脱却をしなければならなかっただろう。

神さまの貨物  ジャンクロード・グランベール 著



日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた


ウズベキスタンの首都タシュケントでかつて大地震が起こった際、3万戸以上の住宅や公共施設が倒壊し、7万世帯以上が住む場所を失ったという。

そんな倒壊、倒壊の中で唯一無傷で整然と立ち続けた建物があった。ナヴォイ劇場というオペラハウスで多くの市民の避難場所となった。

そのナヴォイ劇場を建てたのが、第二次大戦末期に日ソ中立条約を破棄し、突然攻めて来、日本が無条件降伏した後も侵攻し続けたソ連軍の捕虜となった日本兵だった。

日本兵の捕虜の多くは極寒の地シベリアで強制労働についたが、彼らはひたすら西へ西へとソ連の東の果てから西の果てまで送られて、革命から30周年の記念に建設計画のあったナヴォイ劇場という壮大な建物を建造する事となったのだ。

戦前に日本人が海外にて建造した建造物の評価が高いうわさは良く聞くが、あくまでそれらはデベロッパーによる建造物である。
彼ら兵隊になる前はそれぞれ、左官業だの建築関連に携わって来た人も居るだろうが、組織として、建築業を営んでいたわけではない。

この劇場建設の総司令官はもちろんソ連側の将校だが、実際に建設を行う部隊を取り纏めていたのは永田少佐というまだ若干24歳の青年。
今でいえば年齢的には社会人2年目の新人に毛が生えたような年齢。

彼はこの部隊の人間を一人残らず、生きて日本の地を踏まそうと決意を固め、部隊の隊員たちにもその考えを伝える。

また、この建造物に関しても「我々はソ連の捕虜ではあるが、日本人の誇りと意地にかけても最良のものを残すんだ」という強い信念と決意を持って取り組む。
世界に引けをとらない建築物の完成をこの目で見届けたいと帰国のチャンスまでも断る。

ソ連将校の言いなりになっていただけではない。
一日のノルマをこなさない捕虜には食事の量も減らされるのがソ連の決めたルールだったが、これに対して永田隊長、理詰めでソ連将校のTOPと直談判をして、平等な食事を勝ち取ったりもしている。

ウズベク人にしてみれば日本人捕虜たちは驚きの連続の存在だったであろう。
ドイツや他の国の捕虜ならば、強制的に働かされているわけなので、自ら積極的に働こうなととは到底考えないし、それが当たり前に思っていた事だろう。

日本兵捕虜は積極的に取り組みばかりでなく、楽しく働けるために様々な工夫をし、周囲のウズベク人達も楽しませようとする。

おかげでウズベク人後々まで誇れる立派なオペラハウスを手にし、日本人への感謝の気持ちを忘れないという。

我々現代の日本人は、こうやって先人たちが世界に残してくれた親日の遺産を受け継いだわかなのだが、いつまでも遺産だけでは持たないだろう。

令和の日本人も将来世代のために日本人として感謝される何かを残したいものだ。

日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた 嶌信彦著