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ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女


第一部の刊行から3年あまりで計290万部を売り上げたという。
人口900万人のスウェーデンで290万部というのは驚異的な数字である。
スウェーデンでは読んでいない、というと驚かれるというほどの作品である。(以上 訳者 ヘレンハルメ美穂氏のあとがきより)

読んでみれば大ヒットというのも確かにうなずける。

物語は、大物実業家をの暴露記事を発表したジャーナリストが名誉毀損で有罪になるところから始まる。

その暴露記事を書いたのが雑誌『ミレニアム』の発行責任者の一人であるミカエル。
そんなミカエルに舞い込んだのが歴史のあるコングロマリット企業の元会長からの依頼仕事。約40年前にその一族が保有する島から忽然と姿を消した当時16歳の少女の事件調査。

もはやこれまで37年間にありとあらゆる可能性を調査しつくした事件で、解決するとは到底思えないが、まだ何か見落としがあるのではないか、出来る限りのことをして欲しい、と頼まれる。

それ以上については、ここで書くのは控えるが、
章毎に記述されるこの各一行。

・スウェーデンでは女性は18%が男に脅迫された経験を持つ。

・スウェーデンでは女性の46%が男性に暴力をふるわれた経験を持つ。

・スウェーデンでは女性の13%が性的パートナー以外の人物から深刻な性的暴行を受けた経験を有する。

・スウェーデンでは性的暴行を受けた女性の内92%が警察に被害を出していない。

という類の記述。

日本の小説なら章毎の裏表紙の一行なんて見過ごしてしまうかもしれないが、この記述の類はスウェーデンだけになかなか見過ごせない。
その数字にどこまでの信憑性があるのかはわからないが、この作家もジャーナリスト出身であるだけにまんざら根拠のない数字ではないのだろう。

どこぞのフェミニストは、日本の男達はスウェーデンを見習え、見習えと事ある毎に、言うが、その数字を見てもまだ言うだろうか。

この小説。ジャーナリスト以外に、サブタイトルのドラゴン・タトゥーの女ことリスベットという天才リサーチャーがもう一人の主人公として登場する。

そこで出てくるのが後見人という制度。
社会的非適合者としてカテゴライズされた人間は社会生活を送るにあたって、後見人を必要とする。
後見人は被後見人の預金を管理することも出来、被後見人はいくら仕事をしても自分が稼いだお金でさえ自由に使うことが出来ない。
それどころか様々な行為(規定によると法律的行為と呼ばれるらしい)を後見人と呼ばれる人が代理で行えるのだという。
スウェーデンではその被後見人の人口は4000人に達するのだとも記述されている。
約2000人に一人の割り合いでそのような境遇の人が存在するのは低いパーセンテージと言えるのだろうか。

これもストーリーの展開にふれてしまうのでこれ以上は書くことは控えよう。

もう一つ見逃せないのが、スウェーデンとナチズムの関わりだろう。
主人公達は彼らを頭のおかしい連中と片付けるが、コングロマリット企業の一族内に、戦時中ナチズムに傾倒した人が何人か居て、内一人は91歳でもまだその思想から離れられるどころかその思想そのものの人が存命したりしている。
「この売女」と女性を罵る背景にナチズムが存在したり、主人公達が敢えて頭のおかしい連中と位置づけることは逆に言えば、未だまだそういう思想層の人々が一部には存在し続けているのかもしれない。

この物語の根幹を為す柱の一つは、経済ジャーナリストとしてのはもちろん、ジャーナリストとしての有るべき姿、姿勢を見せるのが主人公のミカエルの生き様。

そしてもう一つは、社会的弱者として虐げられ、暴力を振るわれ、時には残虐な振舞いをされ、泣き寝入りするしかない女性の存在と彼らを代表するかの如くの復讐劇を演じて見せるのもう一人の主人公であるリスベットの生き様。

そんな大きな大きな二本柱によって成り立っていると思う。

ミステリーとしても経済小説としても社会派小説としても第一級の作品だろう。

ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女  スティーグ・ラーソン 著  ヘレンハルメ美穂 翻訳 岩澤雅利 翻訳



RANK 真藤順丈 著


近未来小説。
2019年の近未来社会。
2010年に都道府県が廃止され、道州制が施行される。

その州の一つである関東州が物語の舞台。
道州制と言えば、もちろんその議論ははるか前からあったのだが2008年頃がその議論のピークだったのではないだろうか。
2009年秋、民主党政権になって原口総務大臣は真っ先に国の出先機関の廃止を宣言し、地方分権への方向性を打ち出した。

2009年5月が初版のこの本はその時流をまさに的確に掴んだ近未来小説なのだろうか。

道州制、地方分権をシュミレーションするという冒険的な一面もあるのだろうか、と要らぬ期待を抱いてしまったが、道州制だからどう・・という類の小説ではない。
今一、道州制を設定に入れてみたその目的が良くわからなかったのであるが、さような事はこの小説の中では些事でしかないだろう。

関東州は日本の首都東京の一極集中の後衛として人口集中。
企業の本社機能を抱え、あらゆる産業分野で世界の最高水準を維持する。
かつての東京、埼玉、千葉、神奈川、山梨が含まれる関東州、という説明書きがあるが、茨城県は何州に?って、どう括ったって茨城は関東以外の何者でもないだろうから、説明書きから省かれただけだろう。では群馬、栃木は?やっぱり省かれただけだろうが、案外東北の南部ってことで関東からはずされてたりして・・。

それはさておき、関東州の人口が1億2千万人。
それって今の日本の人口とほぼニアリーではないですか。

日本人は全部関東に集中したかと言うとそれでも日本人口の6割が関東州へ集中したとあるので、わずか数年で日本の総人口2億人に跳ね上がったと言うことになるんでしょうね。

民主党の子育て支援政策、恐るべし。
まぁそんな冗談はさておき、人・モノ・金・機能が集中する反面、犯罪も劇的に増加する。
その犯罪抑止と生産性向上に寄与するのが至る所に備え付けられた監視カメラ。

所謂監視社会というやつである。

監視カメラは犯罪抑止のためのみならず、全住民の行動を監視し、その監視結果から人々を評価し、順位(ランク)を査定する。
その順位の圏外になった人間を特別執行官と呼ばれる人たちを処分する。
”会議資料をコピーミスした”それだけでも順位が落ちる。
”ボランティアでゴミ回収をした”→順位UP。
順位がダウンしてくると仕事をせずに鳩に餌をやっていた行為が続いただけでも圏外=ランク外に落ちて、執行官に処分されてしまう。

江戸時代でも士・農・工・商の下に「えた」を作り、その最下層の人が優越感を持てるように更なるランク外の非人を作ったと言われる。
非人は所謂犯罪者なので、他のランクの人たちのように代々の身分では無く、ほとんどが一代限り。なので最下層になったとしても自業自得なので仕方がない、と諦められる。 なんともまぁ非常に良く出来た制度(システム)だったと言われる。

ここで言う圏外の人々は言わば江戸時代の非人と言ったところか。
非人は生きていてこそ、その上の最下層の人が優越感を持てるのであって、処分してしまえば、非人ではなく、死人になってしまっては意味がない。

それにしても24時間監視されて、一つ一つの行為を判断されて順位をその都度決められてしまうシステムとはどんなものなのか。
これまでにも監視社会を描いた本をいくつか知っているが、その行動一つ一つで一々ランクの上げ下げをするなんていうのは無かったのではないだろうか。
1億人の一つ一つの行動を監視するなど到底人間に出来る技ではないので、カメラから取り込んだ画像からプログラムが機械的に判断せざるを得ないんだろうな。
一体どんなシステムになるのだろう。
相当な事例画像、事象画像をマスターとして取り込んでいたって、至る所不完全な、もしくはバグだらけのシステムになるんだろうな。などとついつい考えてしまう。
ゴミをポイ捨てした行為と落ちていたゴミを拾ってゴミ箱へ捨てようとしたが誤ってそのゴミを落としてしまった行為。これをシステムは画像からどう識別して処理してしまうのだろう。

そして監視社会やら報道規制やら、と言ったってそんな新ルールを振りかざしているのは関東州だけ。
他の州と言ったって車や電車で移動に1時間もかからない。
関東州の中だけのランク付けなので、他の州では取り締りようも無ければ、取り締まる必要も無い。
ランク落ちの積み重ねは、他の州では軽犯罪にすら該当しないケースが多々あろうから。

近未来SF小説。だから荒唐無稽だって、現実味がなくたってSFとして面白ければ確かにOKだろう。

ただ。この近未来。
あまりにも近すぎて・・・。日本の行政のあり方を変えるのにどれだけの時間と忍耐が必要なのか。

道州制もしかることながら、国民総背番号にしたってずっと反対し続ける国民が、あまりに容易く総ランク付け制度を容認してしまう。

1万歩譲って総ランク付け制度が容認されたとしたって、そんな数年でどれだけの人の行為が初期データとして蓄積出来るか。

生まれてからずっとその制度で生きて来た人が8、9割になる頃でなければまだまだデータ蓄積期間で実運用にまで至らないだろう。

直近の近未来を描いたと言えば、村上龍の描いた『半島を出でよ』がそうだろう。
年代だけで言えば、あまりにも近未来過ぎるし、物語の一部は今現在では既に過去になってしまっているかもしれないが、それでも彼の話は物語の年代が既に過去だろうが、いっこうに構わないのだ。
この日本の姿、形が変わらぬ限りはあの物語の中の危機は常に現在進行形の話であり、日本の政権が変わろうが変らない。否、寧ろ、今のあやふやな連立政権下の方がもっと危うい。
設定年代は2011年だろうが、2009年だろうが、2006年だろうと構わない。
設定年代が近い方が現実味があるし、出版後過去の年代になろうと構わない。
まさに明日、いや今日、北が福岡へ上陸したって日本はこの物語をかなりの部分でなぞってしまうだろう、ということは龍氏の中では起こるべくして起こり得た事実をなぞらえたに等しい。
また彼の読者の大半はその意識を共有したのだと思う。

現実味が少々薄かろうが構わないのだが、ある一面のリアリティの裏打ちがあってこそ、SFというもの深みを増すものだと思う。

とにかく突っ込みどころは満載なのだが、SFは突っ込みを入れる読み物ではない。

酷評したように思われるかもしれないが、とんでもない。これだけあげつらえるほどに、楽しく読ませてもらったということなのだ。
とにかくその先はどうなるんだ?最後はどんな終わり方をするんだ?この本は?と、何が何でも最後までページをめくりたくなるような本なのですよ。

ただ、少し書き足りないところがあるとすれば、もう少し他の州のあり方や関東州の上の存在である国家のあり方にもふれて欲しかったという欲求は残る。

RANK 真藤順丈著 第三回ポプラ社小説大賞特別賞受賞作



黄落


59歳からまもなく還暦を迎えようという主人公。
その父母は各々93歳、88歳にて健在であるが、当然のことながら、老いはやって来る。
この本を「壮絶な物語」などというすっとぼけた表現で取り上げている書評を目にしたが、何が壮絶なものか。
これこそが現代日本の縮図であり、近いうちにほとんどの日本人が体験する道のりだというのに。

それにしてもこの主人公は作家という職業柄、自宅に居ることも多く、比較的自由に時間を使える。
世間一般の男達にはこんなまめに親の面倒など見れるものではない。

それでもまだ足りないと自身で思っているところが驚きである。
妻に親の面倒を見てもらうほど心苦しいものは無い、その意識が尚のこと、彼にそう思わせるのだろう。

息子が親の面倒を見る、という一昔であれば当たり前だったことも、それを真っ正直に現実のものとして取り組んでしまえば、息子の家は崩壊の一途を辿る。

なんと言っても息子は外で仕事をして稼がなければならない。

そのしわ寄せは必ず妻に行き、妻は一家の家事と親の介護で疲れ果て、それだけならまだしも、老人は時にわがままで強欲であったりする。
「感謝されない」などということでもあろうものなら、「なんでそこまでして私が!」と怒り狂うのは自明のこと。

ならば俺が世話をするから、と仕事を辞めてしまっては収入が絶たれ、いずれにしても崩壊の道へまっしぐら。

介護施設の完備された有料老人ホームにて面倒を見てもらうことで、親を捨てたなどと陰口をたたくご時世ではないだろうし、そんな声を無視してでも自らの家庭を維持する方を優先するしかないのではないか。

確かに赤の他人様に親の面倒をみて頂くこと、お金を支払っていたとしても心苦しいことこの上ないに違いない。
それでもそんなことよりむ寧ろ自らが生きることを最優先すべきなのだろう。

有料ホームに入れられる人は、そんなことを気にするよりも自らにそれだけの資金的ゆとりがあったことに対して感謝すべきなのだろう。

完全介護の有料ホームだって、なかなか預けっぱなしというわけにはいかない。
週に一度やそこらは見に行かなければ、ならないものだという。

以前、ニュースの特集のような番組で、そういう介護施設で働く、若いヘルパーの女性たちの仕事ぶりを映していた。
テレビは非常に献身的に働く彼女らの仕事ぶりを放映した後に、スタジオ生出演してもらったヘルパーさんたちに直接インタビューを行う場面があった。
「ご自身が老人になった時にはどんな介護を求めますか?」の質問に
若い方のヘルパーさんは思わず答えてしまった。
「私が歳を取ったら、介護される状態になる前に死にたいですね」

番組としては
「私が歳を取った時にこんな介護をしてもらって良かったという介護をしたいと思います」的な回答を段取っていたのではないだろうか。
そうそうにインタビューを打ち切ってしまわれてしまった。

そんな一例を持って、介護の現場を語る気はもうとうないが、
「介護される状態になる前に」というのは若いもの誰しもの考えなのではないだろうか。
そういう意味ではこの小説の中に登場する母の生き様、いや死に様は、未読の方のために詳細は書かないが、新たな可能性を与えてくれたような気がする。

完全介護のホームではなかなか同じように出来ないかもしれない。
その手前での判断が必要なので、なまなかな人には出来ないことだろう。

黄落 佐江衆一 著 (新潮社)