カテゴリー: サ行



エイジ


一時、中学生の犯罪が続いて、報道メディア一勢に今の中学生に何が起こったのかと騒ぎ出した時期がある。
統計的には決して昔よりも増加したわけではないそうなのだが、何故にあれほど騒がれたのか、一部猟奇的な殺人も有り、またメディアに登場するモザイクのかかった中学生などが「人を殺して何が悪いのかがわからない」の様な発言をする様を繰り返し報道したせいもあるのだろう。

この物語、中学2年生が主人公。
その近所で頻繁に発生する通り魔。
通り魔と言っても女性の後ろから忍び寄って警棒で殴りつけるだけ。
「だけ」と言う表現は適当ではない。
後ろから忍び寄って殴りつけるだけでも、もう二度と暗い箇所の一人歩きなどは出来なくなるだろうし。

それでも外傷は軽傷ですむのがほとんどだが、23件目の通り魔の被害者がたまたま妊娠さんだったため、軽傷では済まず流産してしまい、産まれる前の子供を一人としてカウントするなら、初の死者が出たことになる。

その通り魔の犯人がこともあろうに同じ中学校の生徒。それどころか同じ学年、同じクラス。逮捕される前日までは自分の前の席に座っていた男子だった。
マスコミが学校の周辺を囲み、中学生達にインタビューをしようとこころみる。

「今の中学生ってこれまでとどう違うのかな?」
「知らない。そんなこと聞かれたって違う世代の中学生時代なんか知らないもん」
まさにその通りだろう。
マスコミは彼らに質問してどんな答えを引き出したいのだろうか。

受けねらいで「被害者は運が悪かったっすね」事を口走ってしまい、日本中のヒンシュクを浴びた子のような発言が出ないか出ないか、と待ち構えているのだろう。

秀才のタモツ君、なかなかユニークな存在だ。
人類には3種類の人間しか居ない。
昔中学生だった人。
今中学生の人。
これから中学生になる人。
の三種類。
その三種類の中でも断トツに「今中学生の人」の方が少ないのだから、何をしても目立つのがあたり前。
20代の男が通り魔をして、あなたは同じ20代としてどう思うか、などとインタビューしてまわらないだろう、と言うのである。

正確には「この日本には」と言うべきところだろう。
世界には今も昔もこれからも中学校とは無縁な人達がほとんどの国などいくらでもある。
主人公のエイジはじめ、作者は中学生の気持ちが良く描けていると思う。
自分は今中学生ではないのでそう想像するだけだが。

一時、ニュースのコメンテーターなどで重松氏を見かけた時には、作家は文章で勝負して欲しいよな。メディアでしゃべるなんてことをすると途端に値打ちが落ちると思ってしまったものだが、氏がコメンテーターに呼ばれていたのは、この手の中学生の犯罪にからむニュースがあったからなのかもしれない。

エイジや他の中学生と通り魔になってしまった中学生との違いは何だったのか。
通り魔を犯したタカシのことをエイジはほとんど覚えていない。記憶にない。それだけ印象に残らない存在だった。
彼と小学校4年生からずっと同級生だったという友人でさえも小学校時代を通して彼の思い出らしきものを思い出せない。

そういう少年だったから通り魔になったのか。
彼はマウンテンバイクに乗って女性を背後から襲った。

エイジも自転車に乗っていて、周囲の人があまりに無防備なのに驚く。
自分がもし警棒を持っていたら、もしナイフを持っていたら、やってしまっていたかもしれない。
エイジは心の中では何度も人を刺している。
その差はほんの紙一重なのかもしれないし、雲泥の差かもしれない。
それでも結果から言えば雲泥の差しか残らない。

エイジはバスケット部に入部していて新人戦から活躍間違いなしだったのに膝の故障で辞めざるを得なくなる。

エイジの辞めた後にエイジとコンビを組んでいた新キャプテンは部員全員からシカトをされる。

それを助けてあげて、と女子に言われるが、シカトされている側はシカトされている事を認めた時に全てに負けたことになってしまう。
だから彼は助けることをためらう。

そんな感情は中学生の男の子に聞かない限り到底理解出来ないだろう。

この物語の救いは通り魔を犯したタカシなのかもしれない。
その家族も近所の白い目の中、逃げることもなく、引越しもせずに同じ場所に住む。
なんと勇気の要ることだろう。
彼自身、転校することもなく、同じ中学校の同じクラスに帰って来る。
クラスの連中はそれまでと同じように彼と接して行くのだろうか。
被害者の感情はともかく、少なくとも彼は逃げ回る人生より、失敗を繰り返さない人生を選択したのではないだろうか。

エイジ 重松 清 著



無人島に生きる十六人


船が難破し、16人の乗組員は無人島へと辿り着き、無人島での生活をはじめるが、無人島漂流を予期していたかの如く、全くうろたえない。

明治時代にあった実話なのだそうだ。

船長が立派だった。
商船学校の教官だからというわけでもないだろうが、その指示たるや、なんと漂流一日目にしてかなり計画立っているのだ。
備蓄米の消費の仕方にしてもおもゆにして1日に二杯まで、と来年の何月までは長持ちする様に、という計算。

即日で井戸ほりの役割りを指示し、方や井戸が出来るまでのつなぎに蒸溜水作りを指示する。
そして、総員に対してこれからの生活についての約束事を指示する。
・島で手に入るもので暮らす
・出来ない相談は言わない
・規律正しい生活をする
・愉快な生活を心がける
無人島へ漂着して「規律正しい生活」をせよ、と言う。
否、船長に言わせれば無人島へ漂着してからこそ「規律正しい生活」をせねば維持出来ない、ということなのだろう。
それに「出来ない相談は言わない」、これはなんでもおねだりの平成日本人には最も出来ないことではないだろうか。
それでいて「愉快な生活を心がける」というのが素晴らしい。

少し前のテレビ番組に電波少年だったか雷波少年だったかの中で「十五少女漂流記」という15人の国籍も違う少女を無人島で暮らさせる、という企画を行っていたことがあった。
テレビの企画なのであたり前なのだが、彼らの生命は保障されているし、GIVE-UPを申請すればリタイアすることも出来る。
それでも、いやそれだからなのか、同じ島で暮らす仲間のはずが、いざこざが絶えず、次々にリタイアしてしまっていた。

そんなテレビ企画では無く実話に基いたドキュメンタリーの読み物、映画もこれまでにもいくつもあったと思う。
現実は「十五少年漂流記」などの冒険物語のようにお互い助け合って、どころか、いがみ合い、対立し合い、中には仲間の人肉を喰らうような凄惨な話までもがある。

この明治の漂流16人話にしても備蓄米は満足に食えない、飲み水でさえまともな飲み水ではない、船長から総員に対して腹は八分目に食べるように指示されたところで、何日か経てば「なんであんたに指示されなきゃならないんだ」という人間が現れても一向におかしくないのにも関わらず、一人として秩序を乱す人間は現れない。

それどころか、帆布をほぐして網を作り魚を獲る。
七カイリ先までも見通せ、通る船を見逃すまいと高い砂山を作る。
海鳥の卵を集めて卵焼きを作る。
海がめの牧場を作り、三十数頭の海がめを備蓄する。
海水より塩を製造する。
それぞれ料理当番、魚を獲る当番、海がめ牧場の当番、整理整頓の当番、砂山での見張り当番、塩製造の当番・・と16人皆がそれぞれに責任を持って、規律正しく行動する。
何でも自前で調達してしまう自給力、アイデア。海の男は物知りで器用である。
そして何より精神力が強い。

またベテランも新人もそれぞれに自分一人のすることが、残りのじゅう15人の命に関わることを十二分に理解し、その責務を全うしようとする。
船長曰く「十六人は一人であり、一人は十六人である」

こんなことが可能なのも元々船長以下、漁業長、水夫長、運転士、と元々統率の取れた規律正しい航海を続けて来たことも要素としてはあるのだろうが、元来の育ちが、質素で清貧であったためでもあるだろう。

そして何より素晴らしいのがこの16名が1人の命も失わずに生還したことだろう。

海洋国日本を何より誇りに思い、如何なる逆境にあっても明るさと創意工夫と明日への希望を捨てなかったこの明治の男たちの生き様はなんと美しいのだろう。

100年に一度の未曾有の不況の到来とも言われるこの2009年の年が明けたわけだが、厭世感に浸る前に、一度この十六人の話を読む事を是非ともお勧めする。
我々の世代の言う苦境など彼ら十六人にしてみれば苦境どころか、笑い飛ばされてしまうのではないだろうか。

無人島に生きる十六人  須川 邦彦 著



キノの旅


キノという若者が相棒のエルメスと一緒に旅をするお話。
相棒のエルメスというのはてっきり人間だとばっかり思っていたら、「モトラド」と呼ばれる二輪車:話すことの出来るオートバイみたいなものだった。

キノは一つの国での滞在期間は三日と決めている。

その一つ一つの国の三日間が小編として一話、一話のお話になっている。

国とはいってもその規模は集落といった単位だろうか。

なんだかとても不思議な世界。
新しいグリム童話みたい、ってちょっと表現が違うか。
旅という要素を取ってしまえば、星新一のショート・ショートを彷彿とさせる様な小編もある。

物語それぞれにアイロニーが込められている。

人の痛みが分かるというのは良いことのはずなのだが、人の痛みが、人の気持ちが、分かりすぎるのも考え物といったところなのだろう。「人の痛みが分かる国」

多数決というのは民主主義の基本のような話だが、それがエスカレートしてしまうと・・・と多数決を皮肉った「多数決の国」、ま、でもこの内容は多数決の皮肉というわけでもでもないか。

キノとエルメスの出自はここに有った。「大人の国」

平和、平和とはなんだろう。最も貴重であることの平和。
平和を維持するためにはその代償としての犠牲が不可欠なのだ。「平和な国」

それぞれがなんとも逆説的で面白い。
そこまでの意図など毛頭もないだろうが、エセ平和にエセ民主主義という戦後の日本の姿を皮肉ったと読めないこともない。
一巻目は全く期待もせずに読んだので、思ったより面白かったという評価変じて過剰な評価をこのシリーズ本に与えてしまったのかもしれない。
シリーズ、二巻目、三巻目、四巻目・・・と読み進んではみるうちに、確かにアッと言う間に読めてしまう軽さ、それなりの面白さはあるのだが、毎回「xxxの国」からこちらが勝手に期待してしまうようなアイロニーから言えば、少々物足らない。
◆「差別を許さない国」、これなどはさぞかし痛烈なアイロニーが込められているんだろうな、と言う過剰な期待からは大幅にはずれてしまったし。
まぁそれはこちらが勝手に期待した事なので、作者にも出版社にも責のあることでもなし。

◆「同じ顔の国」・・・これなどはなかなか新鮮かもしれない。と敢えて内容には触れない。
◆「仕事をしなくていい国」・・・これ、現実にこの地球上に存在しますよ。
本の中の仕事をしなくていい国とは少々意味合いが違いますが、中東の石油産油国の中にあるドバイという国がまさにそう。
国民は全く働かなくても構わない。
働くのはインドや東南アジアから出稼ぎに来ている外国人のみ。
税金を払う必要も無し。家までも国から提供される。

そしての中心にあるドバイという都市は砂漠の中に誕生したまさに夢の都市。
この夢の都市でも今や世界規模で拡がりつつある雇用不安の波が押し寄せ、出稼ぎ労働者に解雇の嵐だとか、いったいどうなってしまうんでしょうねって、いつの間にか本の話題から逸れてるし。

第一巻目の中の「レールの上の三人の男」という話、途中からだいたい先が見えてしまうのですが、こういうショート、ショートってなかなか面白い。

人間に与える苦痛の中で一番辛いものは何か、ひたすら穴を掘らせるだけ掘らせ、それを何に利用するでもなく、次にはひたすら埋めさせる、その行為の連続だという。
でもそれは自ら掘った穴を自ら埋めているからこそ感じる虚しさであって、自分はひたすら掘るだけ掘ってそれは誰かの役に立つと信じ、その後で誰かが埋めるだけ埋めていたとしても、それに似たようなことというのは存外に社会の至るところに存在したりして。

キノの旅  時雨沢恵一 著