カテゴリー: サ行



ケインとアベル


時を同じくしてアメリカとポーランドでそれぞれ男の子が誕生する。

アメリカで生まれたケイン。
裕福な銀行家の一人息子として生まれ、将来を約束された様な子供。

もう一人は、ポーランドの田舎で生まれた赤ん坊。
生まれてすぐに捨て子となった赤ん坊は、猟師の家に拾われ、やがて近隣の男爵家に認められるが、第一次世界大戦、大戦後の革命後ロシア(ソ連)による国家の蹂躙と、波乱万丈の少年時代をすごす。

長期間にわたる地下牢での生活、ソ連の収容所送り。
多くの同胞が殺戮される中にあってこの少年は希望を捨てなかった。
収容所からの脱走、そして当時の新世界、アメリカへと渡る。

この物語の前段ではまさに蹂躙の歴史、ポーランドの悲哀そのものをヴワデグという少年((後のアベル)をとおして描いている。
その後もポーランドはヒットラーに蹂躙され、そしてスターリンに蹂躙される。

片やのケインはというと父親をタイタニック号の事故で失い、後に母親も亡くしてしまう不幸はあるが、頭脳は明晰、成績は優秀、常にトップをひた走る。

ケインは20代の若さで銀行の取締役、そして副頭取となる。

ジェフリー・アーチャーに読まされるとその若さで副頭取になっても決しておかしいとも思わなくなってしまうので、不思議である。

現実界ならどうだろう。

特に日本ならどうだろうが、「20代はもっと苦労せい!」と言われてしまいそうではないか。
銀行なら各地の支店の営業を経験して預金集めに歩いたり、清算部門を担当するのなら担保の処分をするだけでなく、その企業へ出向して内部から会社を立て直したり・・・そんな事をいくつもやってきてこその銀行マンじゃないのか、などと・・・。
財務部門で収益をあげる、つまり株式投資の運用益をあげた者だけが有能な経営者なわけないだろう、アメリカではそうなのか?などと。

それがジェフリー・アーチャーが描く登場人物は、読者からそんな批判めいた言葉が生まれ得ないほどに非凡なのである。
その少年時代の生い立ちの描きで、その年齢を超越した非凡さを読者も納得してしまう。

アベルの方も非凡さではケインに引けをとらない。
アベルは希望を捨てなかっただけでなく、アメリカンドリームを勝ち取ろうとする。

生涯を百貨店の売り子として満足する人生もあれば、ホテルのレストランのウェイターで満足する人生もあるだろう。

が、アベルはそんな立ち居地では満足できない人だった。

この人の場合もやはり最初の資金作りは株式なのである。
アメリカンドリームとはすなわち株式投資の成功者の事なのか?

アベルもまた優秀な人なのだが、頭角をあらわすきっかけは、たまたま引き抜かれたホテルでの不正を摘発するところから。

そこでの不正は上から下まで行なわれており、社員が皆してホテル食いものにしている。ホテルに喰らい付いたダニの様な存在である。
宿泊者が100人居ても、内10人は無かった事にして関係した社員が宿泊費をネコババしているのが日常茶飯なのであれば、もし利益率が10%あったとしても、どれだけお客が増えようが、ホテルが黒字になるはずがない。

なんかどこかで聞いた事があるような話ではないか。
日本のどこかの自治体では上から下までが税金を食いつぶそうとしていた、とか。

それを改革するにはどうするか。従業員の意識改革などという生っちょろいやり方ではない。
もちろん、首切りである。
「明日から来なくていいから」
日本ではなかなか拝めそうにない光景である。

それにしてもこの「ケインとアベル」って旧約聖書の創世記の登場人物じゃなかったっけ。ってあちらは「カインとアベル」か。
紛らわしい事極まりないが、単なる偶然とは思えない。
登場人物のセリフにも旧約聖書の創世記がどうの・・って出て来るぐらいだから、作者はたぶんに意識しての命名だろう。
とはいえ、「カインとアベル」の何にちなんだのか、その類似性は見つけられなかった。
ケインはこれっぽっちもカインではなかったし。

この本は、第一次大戦、禁酒法の時代、アメリカ発の世界大恐慌、ニューディール政策、真珠湾攻撃と第二次大戦参戦、そして戦後というアメリカの近代史そのものを二人の主要な登場人物の歩みと共に描いている。

この本の描くもう一つは憎悪というものの愚かさだろうか。

我々の様な凡人の日常の中においては人に好悪の感情はあれ、憎悪というところまで達するような事はまず有りえない。
上司にどれだけ不満があったところで、せいぜい同僚とグチれば事足りるし、顧客にも同業他社にもそんな存在は見当たらない。

「ケインとアベル」はその憎悪という感情がもたらしす数十年という歳月のあまりの無益さを、あまりの悲しさを読者に教えてくれるのである。

長編でありながら、途中ではなかなかやめられない本の一冊である。

ケインとアベル  ジェフリー・アーチャー (Jeffrey Archer) (著) 永井 淳 (翻訳)



運命の息子


過去二度も死産してしまっているのでこれが最期のチャンスと言われる大富豪の夫人の出産。
同じ日に平凡な保険のセールスマンの夫人も同じ病院で出産。こちらは双子を無事に出産する。
出産したその晩に富豪の赤ちゃんは亡くなってしまう。これを見かねた家政婦がその亡がらと双子の赤子の一人と入れ替えてしまう。

こうして双子としてこの世に生を受けながら、各々の道を歩んで行く。
とは言え、運命の息子というタイトルからして、さほど遠くないうちに二人が遭遇するだろう事は大半の読者は想像するだろう。

物語はこの二人を交互に描いて行くのだが、その切り替えがあまりにも急ピッチなのに少しとまどう。

二人は敵になるのか、味方になるのか、凄まじく影響し合うであろう事は予想に難くないが、この長い長い話でなかなか出会ってくれないのだ。

じりじりとしながらもその時を待つ読者。
しらす作家。

「選挙」というキーワードと「裁判」というキーワード。
これらが絡んで来る事は物語を読み進めて行けば大概想像できるのだが・・。
その時はなかなかおとずれない。

この二つのキーワードはどちらもジェフリー・アーチャーには馴染みのあるものなのだろう。
ジェフリー・アーチャーは英国保守党の元国会議員。
偽証罪の罪で裁判で争うという過去を持つ。

この物語、舞台はアメリカだが、アメリカやイギリスでは学校の学級委員や自治会の会長になるために本物の選挙さながらの選挙戦などを行なうものなのだろうか。

運動員がいて、選挙参謀がいて、選挙戦術があって、とまるで本物の選挙さながらである。

日本の学校ではなかなか想像するのも難しい事である。

もし実際に行なわれているのなら、クリントン VS オバマ、そしてその勝者 VS マケインの様なことを学生時代から弁論やはたまたネガティブキャンペーンなども学生時代から体験して来ているという事なのだろうか。

そういう素地の無い日本とはやはり文化が違うのだろうな、などという感想を持ってしまう。

運命の息子達はいずれ出会い、お互いに影響を及ぼす関係となるのだが、ちょっとそこまでの「じらし」は長すぎるのではないだろうか。

ジェフリー アーチャー (著), Jeffrey Archer (原著), 永井 淳 (訳)



相対性理論を楽しむ本


20世紀の偉大な天才、アインシュタインの「相対性理論」と言えば知らない人は稀でしょう。
その「相対性理論」とはどんな理論なのか。
その言わんとする事をご存知の方は結構いらっしゃる様です。
ちょっと周囲にヒアリングした結果がそうでしたので少々驚きでした。

しかしながら、それはどうしてそうなるの?と聞かれて答えられる人となるとその数はぐっと減る。
ましてや数式を持ち出すまでも無く容易な言葉で説明出来る人となると、これは滅多にお目にかかれない。

高速移動の乗り物、例えばロケットなどに乗っている人と下界に居る人(静止している人)とでは時間の進み方に差が出てしまい、ロケットで長時間生活をして地球に帰って来ると、自分では1年のはずが地球では何年も経過していた、なんてまるで「猿の惑星」の世界の様な理論。
実際に「猿の惑星」の原作を書いたは「相対性理論」を参考にしたのかもしれません。

別にロケットを持ち出さなくても電車でも船でも説明がつくんですよね。
動いている船のマストの上から真下に物体を落とした時に1.5秒かかったとします。
地上で同じ高さから同じ重さの物体を真下に落とした時も同じく1.5秒。
しかしながら地上から船の上の物体の動きだけをとらえてみると、船が1.5秒間に進んだ距離だけ斜め前に落ちている。つまり真下の距離よりも長い距離を落ちているにも関らず、かかった時間は同じ1.5秒。
となると移動している乗り物の中に居た方がほんの少しだけ地上よりも(静止している人よりも)時間のたつのが遅い、という事になる。
って言葉で書くよりも図解した方がわかりやすいんでしょうけれど、ここでは敢えて相対性理論についての説明を書こうなどとは思っておりません。

この本は、そういうふうにわかり易く「相対性理論」を説明しています、という事が言いたいだけなので。

それでも頭で理解してもなかなか現実的には考えられませんよね。
実際に電車に乗って駅へ着いたら駅の時計より時間の進みが遅くなっていて、喫茶店へ行ってたっぷりとコーヒーが飲む時間が出来たなんて事はありませんし、電車の運転士は年をとるのが遅くて定年の頃には妻どころか子供も孫も老人だったなんて聞いたことないし。

私共のような俗物にはどうしてもSFっぽく聞こえてしまいます。

SFついでなので、この時間の早い、遅いって考え、タイムマシンに利用出来ないのか、ってこの単純思考はついついそっちへ頭が行ってしまうのですが、科学的には不可能だそうです。

もちろんこの本にそんな事は書いていませんが、こんな事は考えられませんか?
20光年先の星を見る、という事は30万キロメートル/秒の光でさえ20年かかって到達するほどの距離。
光が20年かけて到達したのですから当然、その星をいくら観察しても20年前なわけですよね。という事は20年前を見ている。
10光年先の星まで辿り着いて、そこに地球が写る巨大な鏡を設置したとします。
その鏡に映った地球の中は20年前の過去ですよね。
100光年先の星に設置すれば、200年前の過去が見られる・・・・・・んん、んな事出来るわけがない、というより出来た頃にはそんな過去でさえはるか未来だ。光でさえ、10年、100年かかる距離を人類が到達するのに何千年、何万年かかることか。

ならば、これは?
テレポーションという超能力を発揮出来る人間が居たとして、100光年先の星にテレポーションしたら?100年前の地球を観測出来のでは?
でもそれだけではタイムマシンになりません。その100年前の地球にテレポーションして初めてタイムトラベルした事になりますが、これだけの超能力者でもやっぱり無理なんでしょうね。
地球から見たら100年前ですが、瞬間移動したならそこは地球から見た時の100光年後の星にテレポートしたという事になる。100年前のその星にテレポートしたわけじゃない。
100年先にはその星だって消滅しているかもしれないし。で消滅していないとしてそこから見える地球はやはり100年前の地球だが、やっぱりそこから地球に瞬間移動したって現在の地球でしかないって事か。

じゃぁ、どうすればいいんだー!
相対性理論を用いれば光の速度に近づけば近づくほどに時間差は生まれる。
じゃぁ過去へ行くには光の速度を超えて移動しなければならないのか・・ははっ・・やっぱり霊界の世界だ。
ってな事はこの本に一行たりとも書いていませんけどね。

いや逆の事は書いてあったっけ。
「光の速さは最大でこれ以上速い物はない。そもそも質量を持った物体は速くなると質量が増すので動きにくくなる。だから光より速く加速させることはできない」だったけか。
時空を超えるとかって聞けば、ちょっとそういう事も考えたくなるじゃないですか。
まぁ凡俗の考える事です。
せいぜい愛想をつかしながら読んで下さい。

アインシュタインは大学を出た後、大学の教員になろうとしたが受け入れてもらえず、やむを得ず特許庁だったかのお役所勤めをしたのだそうです。
そのお役所勤めのヒマな時間を見つけては物理学の本を読むふけり、就職してわずか3年やそこらで相対性理論を発表したと言います。1905年。今から100年と少し前の事。

社保庁のお役人がなんか理論を発表したとは聞きませんね。 んん? いや今でこそ叩かれているが発表しなかっただけでちゃんと理論を生み出してはいたのか。 「先延ばし理論」。 立派に時空を超えた理論だ。
いえ、蛇足でした。

まだ質量の事にふれていませんでしたね。
アインシュタインは質量が減少する事で莫大なエネルギーが生じることも相対性理論の中で述べています。
その原理が元で原子爆弾が出来てしまうよりもはるかにましなのは、ダイエットだ!ダイエットって叫んでいる全世界のオバさん達、いや今現在の日本のオバさん達、んん?それじゃ男女差別と言われてしまう。日本のオジさんオバさん達だけで充分、その質量をその人達の願い通りに減らしてあげてその質量をエネルギーに変換する事が出来れば・・・、今から100年以内に枯渇するだろうと言われている石油エネルギーどころの騒ぎじゃない。1000年分ぐらいのエネルギーがあっと言う間に確保出来るんじゃないの。
いいなぁ、そうなったら、今大騒ぎのガソリン国会どころじゃない。
中年ダイエット質量確保合戦。

なーんてね。せっかくわかりやすい科学本の事を書きながら、なんて非科学的な事ばかり書いているんでしょうね。読んでいる人、呆れて下さい。

この本、相対性理論を確かに楽しめる本なのですが、後半になればなるほど、どんどんと内容は難しくなって行きます。
特殊相対性理論から一般相対性理論に突入するあたりから、著者もわかっているのでしょう。
無理に理解してもらう事よりもそういう理論なのですよ、ということだけ理解してもらえたら充分という書き方になっていきます。
後半の後半は宇宙の創世から今後宇宙はどうなるのか、膨張するのかどうか、なんてもはやSFを通り越してファンタジーも超越した世界。

何十億年何百億年後の宇宙をの世界をどうやって実証するのか、理論的にはこうなる、と言われたって、その頃まで生きている人なんていませんから誰も証明出来ない話。
何十億年何百億年前の宇宙にしたってこれで証明が成り立つと理論的に言われたところで、ビッグバンがあったのかどうか、そのまたビッグバンの前がどうだったなんていう話は監修の佐藤勝彦教授の持論なのかもしれませんが、それが真実とは誰も言い切れない世界。もちろん誰も見て来たわけではありませんし。

ただ、こういう宇宙の創生やら宇宙の果てには・・なんていうとてつもない世界。
哲学、いやもっと言えば宗教に近い世界になるのかもしれませんが、そこへまで物理学や科学というものでシュミレーションを行なってしまう、というそのスケールの大きさにはただただ驚嘆するしかないのであります。

すごいことですよね。目先の事にはなんら影響しない、自分を含めて誰が得をするわけでもないことを延々と研究する。証明しようとする。
そうやって研究した結果、もしくは理論を証明しようとした結果に思わぬ副産物として新たな発明や新たな発見が生まれる。
そういう人達がかつて存在し現在も存在するからこそ人類は進歩し、また今後も進歩するのでしょうね。
もちろん別の見方もあるでしょうが・・。