カテゴリー: サ行



無罪と無実の間


「無実」と「無罪」一見、同義語のように感じてしまったりしがちな言葉です。
少なくとも司法の世界では同義語ではないでしょう。]
「被告は無実を叫び・・・」、「被告は無実を訴え・・・」などと言うような報道のされ方が多いのでついつい勘違いをしてしまいます。

裁判の結果「無罪」を勝ち取ることはあってもそれがすなわち「無実」の証明を勝ち取ったことではないでしょう。
限りなく黒に近いが証拠不十分ならば「無罪」。決して「無実」ではない。
「被告の心神喪失による責任能力の欠落の結果の無罪」という場合ももちろん「無実」ではないでしょう。

「無罪と無実の間」の主人公はイギリスの勅撰弁護士デーヴィッド・メトカーフ。
エリート弁護士で数々の訴訟で勝訴し名を残した人で英国弁護士会の会長。
その弁護士があろうことか、妻殺害の容疑で起訴され法廷に立つ。
弁護人は付けずに自分自身で弁護を行なう。

検察側の証人からはデーヴィッドとって不利な証言が次から次へと出て来る。
なんと言っても犯行を見たという家政婦の証言。
一番身近な存在だけにそのインパクトは大きい。
家政婦は言う。毎晩のように酒を飲んで遅くに帰って来ては妻に暴力をふるうと。
妻は週に一回しか飲んではいけないという劇薬を処方されている。
妻がその劇薬を既に飲んでいるのを知りながら、さらにもう一錠、紅茶に溶かして彼女に与えたのだという爆弾発言。
さらに、株式投資の失敗による多額の借金をデーヴィッドが負っていた事も判明する。
妻が亡くなる事で、その遺産により借金を清算することが出来る事も。
もちろん、デーヴィッドも有能な弁護士なので黙っているわけではない。
家政婦がどれだけデーヴィッドという主人を嫌っていたか、暴力を奮っていたなどとは家政婦の妄想に等しい事。家政婦が見たという距離からは錠剤の色が識別出来なかったであろうこと・・・などなど。

判事は陪臣員に言います。
裁く(ジャッジする)のはあなた方です。
評決は陪臣員の責任です。
さぁ、デーヴィッド・メトカーフは有罪ですか?無罪ですか?

日本にも陪臣員制度が導入されます。
2009年(平成21年)5月までに開始予定ですので、あと1年と少し。
さて、選ばれた人達は有罪か無罪かなどという大それたジャッジが出来るのでしょうか。ジャッジ次第で弁護士会会長という社会的立場のある人を永久にその立場から葬るばかりか、法廷にも二度と立てないでしょうし。過去の栄光も信用も全てを失わせてしまうことになるのです。

もっとも、この法律、正確には「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」と言うらしいのですが、今年に起こるかもしれない政変次第では本当に来年に施行されるかどうか、雲行きは怪しくなって来ましたが・・。

日本のこの陪臣員(裁判員)の制度と英国の制度との大きな違いは英国の場合は陪臣員の責任のもと陪臣員が判断しジャッジを行なうのに比べて、日本の場合は一般の市民が、裁判官と一緒に(原則一般の市民6名、裁判官3名)なっての評議・評決を行なう、という点でしょう。
そうなると、どうしても裁判官の方が主導権を握ってしまうのでは?などと思えてきたりもします。

いずれにしろ、この様な「Guilty? or Not guilty?」(有罪か無罪か)などというシロかクロかの二者択一を迫られる場面などかなりレアなケースの様な気がします。
どちらかと言えば量刑の軽重を問われるケースが大半なのではないでしょうか?
15年が相応しいのか25年が相応しいのか・・・。
などとなるとますますシロウトの出る幕では無さそうな気もして来ます。
極端な凶悪犯罪で死刑が相応しいのか無期懲役が相応しいのかと問われた方がまだ意見は言えるでしょう。但しそのジャッジに参加する個々人は非常に辛い気持ちになるのでしょうね。

と、いうような事はこの本の主題とは全く関係ありません。

関係が無い事のついでに英国の司法制度について、興味ある記述がこの文庫本の解説にありましたので、簡単にふれておきましょう。

冒頭に勅撰弁護士という言葉を使っていますが、今一「勅撰弁護士」と言われてもピンと来ないのではないでしょうか。
勅撰弁護士とは「Queen’s Counsel」の訳で、功績のあった弁護士に与えられる称号なのだそうです。

英国の法廷弁護士はバリシターと呼ばれる。そのバリシターは被告側の弁護に立つことも検察側に立つ事も出来るのだといいます。双方が弁護士なわけです。
また判事もバリシターから転じる人がほとんどなのだといいます。

日本でも裁判官、検察官、弁護士、皆司法試験に受からなければなれないのは同じですが、その後は官になる人、民になる人で各々立場が異なります。その後に官から民へはあっても民から官へは無い。裁判員の制度で裁判官に民をという事であれば、バリシターの様な制度も一考かもしれません。

と、全く本題からずれまくりました。この本は陪臣員制度を問うものでもバリシター制度を問うものでもありません。

病気の苦痛をこらえて夫に尽す妻。
妻の苦痛を知り妻を愛する男の愛するが故の苦悩。またその社会的立場としてのジレンマの行く末。
そういうものを描いた戯曲なのです。

有罪として裁かれればもちろん社会的生命は終りを告げるが、無罪となったとしても愛する妻の亡き人生。法廷へ立つ気力は失せてしまう。法廷へ立つ事だけが生きがいのデーヴィッドにすれば、いずれの道も社会的生命が絶たれてしまう事になる。

短い読み物ですがそれなりに読みごたえがあります。
1980年代後半に書かれたものでありながら、いまだにロンドンっ子の間では売れ続けているのもうなずけるような気がします。

尚、文庫本解説の辻川一徳さんの記述ではバリシターの説明だけで無く、ソリシター(事務弁護士)の事。英国の司法制度を丁寧に説明しておられますので、そのあたりも興味深く読めます。



神の汚れた手


曽野綾子という作家、昔から山ほどエッセイなどは読ませて頂き、その見識の高さにいつも感心していたのですが、あらためて考えてみるにエッセイは山ほど読んでいるのに、一度もその小説を読んだ事が無かった事に気が付きました。

で、その代表作と呼ばれる中の一冊「神の汚れた手」を読んでみたわけなのです。
書いているのは「クリスチャン」という先入観がまずありました。
またまたタイトルに「神」という文字がある事からしてもさぞや「クリスチャン」らしき物語なのだろうなぁ、などと勝手に想像していたのですが、さすがはエッセイで毎度感心させられた曽野綾子さん。やはり並のクリスチャンでは無いですね。

この本、産婦人科医の野辺地医師が主人公。
産婦人科医という立場上、もちろん出産という人の生命の誕生に立ち会う仕事をしながら、その反面全く正反対の堕胎手術を行なうという生命を亡き者にする事も仕事の一貫として行っている。

クリスチャンならば当然一方的な「中絶反対」という立場なのかと思いきや、この野辺地医師の元へは様々な中絶要望の女性が訪れ、中絶しなければならない様々な人間模様を主人公を通して描き出す。
その中には姑に無理矢理連れて来られた人。
まだ未成年の学生だから産ませるわけには行かないと親から連れて来られる人。
貧しさゆえに到底赤子を育てられないと自ら来る人。

またその逆になんとしても一児が欲しいがどうしてもその一児に恵まれないと悩む壮年夫婦。

人間の生命というものを扱う話だけに非常にデリケートな話なはずなのに、主人公の野辺地医師のあっけらかんとした性格がその深刻さを打ち消している。
打ち消してはいるものの野辺地医師自身も仕事だと割り切りながらもその実、心の中では割り切りきれていない葛藤を作者はさりげなく引き出しもしている。

野辺地医師が教会の宗近神父や姉の友人でクリスチャンの筧搖子のところへ行って酒を飲みながら頻繁に話をするのはその葛藤のあらわれなのではないでしょうか。

私も親戚にクリスチャンが居たこともあって教会という場所に何度か足を踏み入れた事が過去にあります。
教会というのは地域地域によって活動形態が全く異なることをその頃知りました。
やけに活動的な教会もありました。日曜のミサでは賛美歌を歌って、聖書を読んででは飽き足らず、その時の政府の方針にまで異を唱えるようなお説教がなされ、いろいろ署名活動あり、敬虔な信者の中からXX部会、YY部会、ZZ部会・・・、などと委員を選出し、かなり組織的な活動を行なうような協会が方やあるかと思えば、某地方のほんの小さな掘っ立て小屋の様な教会ではお説教を垂れる事よりも、来られた方々のいろんな意見を自由に話し合いをさせるような教会もありました。

その後者の神父さんは若いのですがとても人柄が良く、意見の違いなどは当たり前と人の意見に耳を傾けておられました。

この野辺地医師が頻繁に会う宗近神父というのはその後者に近い存在なのでしょう。

前者の様な教会神父であれば、彼の行為は糾弾され、彼自身も会いになど行かなかったのではないでしょうか。

こんな事を書くと私が中絶賛成人間みたいに思えるかもしれませんが、他人様はどうであれ、こと自分や自分の身内であればそれがいかなる理由であろうとも絶対に反対すると思います。胎児と言えども生命には違いないですから。
私はクリスチャンではありませんが、いかなる理由であろうともそれを亡きものにしてまでのことをして何らかの幸福を得ようとは思いません。
また逆にその考えを人に強要するつもりなどは毛頭ありません。

現在の中絶人口がどのくらいなのか全く知りませんが、やはりなんらかのやむを得ない事情があって中絶に至るのが一般的でしょう。
ところが、戦後に出来た優生保護法の影響なのでしょうか、それとも戦前の産めよ増やせよの反動なのでしょうか、一時期人口中絶が一般の家庭でごく当たり前の如く日常的に行なわれた時代もあったといいます。
少数家族化が国策とまでは言いませんが、少数家族化の考えのもとで人口的に奪われた胎児の生命の数は、戦争犠牲者に匹敵するかもしれません。

「神の汚れた手」はそんな時代背景があればこそ書かれたものなのでしょう。

それにしてもこの本、半ば医学書と言っても過言ではないほどに専門的な分野に踏み込んでいます。

曽野綾子さんの生命に対する並々ならぬ思いがそれだけの取材力を発揮されたのでしょうか。

私にはこの物語に登場する筧搖子というさっぱりとした女性が曽野綾子さんそのものにかぶっているように思えました。

曽野綾子さんという人はクリスチャンと言っても全くその範疇の中で思考が固まってしまう人では無く、寛大な心で広い視野でものごとを見る事の出来る人なのだろう、とこの作品を通してあらためて思ったのであります。



バーティミアス プトレマイオスの門


「ジン族のサカル、強者ヌゴーソにして銀の翼を持つヘビ!」そのバーティミアスがおいぼれ、とかジジイとか言われてますよ。
なんだか悲しいですね。
そりゃ5000年も生きてりゃ、おいぼれどころじゃないでしょうけど、異世界に歳月の風化は無関係でしょう。
もちろんエネルギーの消耗はナサニエル坊やがずーっと召喚したまま2年間も解放してあげなかったからなんですけどね。

そう言えばR.A.サルバトーレの『アイスウィンド・サーガ』に登場するドリッズトも異世界から「グエンワイヴァー」という名の黒豹の姿をした魔法生物を召喚していたけれど、地上に居るとはエネルギーを消耗するから、と役目が終れば直ぐに解放していたっけ。

全く鬼みたいなヤツだなこのナサニエル坊やは、とバーティミアスでなくても思ってしまいます。
今回は前回の『ゴーレムの眼』で活躍?した結果更に出世している。
タロー長官亡きあとの国家保安庁長官を経た後に首相のおぼえもめでたく、情報大臣という大物閣僚にまで出世しています。
しかもたったの17歳という年齢で。

ところで、このジンとかアフリートとかマリッドなんていう妖霊は、新たに生まれるという事があるのでしょうか。

魔術師は死んでも弟子が跡を継ぐ。
妖霊を召喚するのには悪魔の年鑑か何かの本で過去の実績を調べてから召喚する。

そう言えばナサニエルが『サマルカンドの秘宝』で最初にバーティミアスを召喚する時、過去の妖霊たちの実績を調べて二流どころの召し使いの記述を見て召喚したんだったっけ。
二流どころだなんてなんと失礼な。バーティミアスがその本を見たらさぞかし激怒した事でしょう。

妖霊は戦いで死に、同じ妖霊に喰われたりして死んで行く。
という事は召喚出来る妖霊の数は減る事はあっても増える事は絶対に無いでしょう。
最後にはゼロになってしまうのかな?

話が横道に行く前に軌道修正をして、前作を読んだ後の予想は見事にはずされました。
キティはジャンヌ・ダルクにもなりませんでしたし、民衆が一斉蜂起した訳ではありません。
もちろん、話の結末を書くほどの愚はおかしませんが。

今回は「プトレマイオス」というバーティミアスがいつもその人の姿を利用する古代の人がキーマンです。
おそらくはこのプトレマイオスという人も実在の人なのでしょうね。

バーティミアスにかかると過去から現在に至るいろんな事は全て魔術師と妖霊のおかげになってしまうのですが、古代エジプトやペルシャ、ギリシャ、ローマに止まらず、中国の仙人ですら魔術師扱いです。
アラビアンナイトの世界の空飛ぶ絨毯は魔術師が妖霊を絨毯に変えて乗っていた。
その頃の魔術師は妖霊を生き物以外の無機物にも変化させて利用していたのだそうです。
中国では雲に変えて乗っていたという事でした。

バーティミアスのシリーズはこの『プトレマイオスの門』で終わりです。
きれいに終っています。

続編の余地は?
バーティミアスそのものが生きているのですから、続編の余地が無いとは言えませんが、このシリーズはおそらく最初から
『サマルカンドの秘宝』、『ゴーレムの眼』、『プトレマイオスの門』で終結する様に書かれています。
1巻目でも2巻目でもまだ正体を表していない怪しげな存在の影が残りましたが、この3巻目でそれもきれいさっぱり片付きました。
ですから、続編はもう無いでしょう。

全く別の物語として、バーティミアスが登場する、という様な事があるかもしれませんが・・。

バーティミアスⅢ プトレマイオスの門  ジョナサン・ストラウド (著) 金原 瑞人 (訳) 松山 美保 (訳)