カテゴリー: ア行



天才


あの石原慎太郎があの田中角栄を第一人称で書く。

なかなかに想像できなかったので、思わず読みたくなってしまう。

田中角栄と言えば、コンピュータ付きブルドーザーとも呼ばれ、天才的な記憶力でエリート官僚の名前や家族構成なども頭に入れ、官僚を使いこなす天才だった、というあたりはあまり書かれていない。
一人称なのだから、自分を天才とはまぁ書けないか。

岸・池田・佐藤と続いた官僚出身の総理大臣の後に本命は官僚出身の福田。
田中には官僚出身の総理とは発想の原点が違う。

その福田を破って総理になり、日本列島改造論やあの時点での日中国交改善には、賛否両論あるだろうが、官僚の発想や実行力では到底成し遂げられないことを、角栄氏は実行してきた。

石原慎太郎氏は、田中政治を若い頃は批判していたが、彼もまたも官僚の出身ではないだけに、実はその政治家としての類まれなる実行力には共感するもの大だったのだろう。

中国との接近、アメリカのメジャーに牛耳られていた石油についても、アメリカに依存しない自主外交にて資源ルートを確保して行く。

そんな脱アメリカ属国的な外交がアメリカの虎の尻尾を踏んでしまう。

田中角栄を失墜に追い込んだロッキード事件という事件は、石原氏が書くようにまさに奇妙な事件である。

アメリカでのコーチャンらの証言は、「証言内容に偽りがあっても、偽証罪とならない」つまりは何を言ってもOKという摩訶不思議な証言を元に始まったあの事件、結局、日本の司法は田中氏を有罪と断じ、政治の表舞台に立てないようにしてしまった。

政治家になってからの田中角栄氏が成立させた議員立法の数は記録的なもので、その後その記録を塗り替える政治家は現れそうにない。

石原慎太郎氏は自らの都知事時代に国相手に何度も折衝をしたがなかなか聞き入れてもらえず、その時に角栄氏が居たなら、さぞかし違っていたことだろう、と思いを馳せる。

昨年の北陸に続き、今年の3/26には北海道まで新幹線が到達した。

それを聞いたとしたら、列島に隈なく新幹線を走らせたいと思っていたであろう角栄氏は喜んだのだろうか・・・。

角栄氏が望んでいたのは脱東京一極集中、地方分権だったのでは無かったか。

昨年・今年の新たな新幹線開通は、ますます東京への集中を促すものになってやしないか。角栄氏の本音を聞きたいものである。

天才  石原 慎太郎 著



アイネクライネナハトムジーク


短編だと思わせておいて、最後の方で実は全員つながっていた、みたいなパターンなんだろう、と思って読み始めたら、いきなり二篇目から繋がってた。

最後で繋がるどころか、全編にわたる人物が複雑につながりまくってる。
実はこの一篇は過去の話で、誰某は誰某の娘で誰某と友達だった誰某は誰某の会社の先輩の娘で・・・みたいな。
人間関係、複雑すぎるだろう。

マーケットリサーチ会社に勤める男が夜中の街頭でアンケートを取るはめに。
本来はサーバの中に鎮座しているはずのマーケティングデータが、システム管理担当の先輩のチョンボでぶっ飛んでしまったためだ。
そこでアンケートに答えてくれたフリーターの女性。
その女性とあるところで再開するという、割りと平穏な出だし。

次の舞台は美容院。
美容院の常連客が弟を紹介するという。
断ったが、客は勝手に携帯の電話番号を教えてしまい、弟君と週に二三度、長電話をする中に。お互いにあったことも無い相手と8カ月以上電話だけでデートをしているようなもの。
その相手が誰だったのか判明した時はさすがにぶっ飛んでしまいましたね。

客とトラぶったりして一方的に罵られている女性への助け舟として、さも罵っている男を心配してあげているかのような「この方は誰の娘さんかご存知ですか?」作戦。
この作戦が、軸になっていろんな人に伝授されてまた、その繋がりが見えてきたりする。
なんとも面白すぎる構成だ。

他にも日本人のヘビー級プロボクシングのタイトルマッチ、これも縦軸の一つか。

ある一篇の中で広告代理店のクリエーターがいかに大変か、という話になる場面がある。作家やアーティストは一度、探し出した金鉱と同じ路線を掘り続ければいいのだが、広告のクリエーターに二番煎じは無い。それって前にもあったパターンだよね、が通用しない、常に新たな発明をし続けなければならない、云々。
(近年はシリーズもののCMってのも多くなってきたかもしれないが・・。)

でもどうだろう。
伊坂さんの作品って、充分に新たな発明ばっかりじゃないの?

アイネクライネナハトムジーク  伊坂 幸太郎 著



ロゴスの市


昔、塾の講師をしていた友人が高校生の英訳の回答を見て「最高の訳なんやけどなぁ。残念ながらテストでは0点や」と言っていたのを思い出した。

受験英訳、学校英語の英訳では0点になっても仕方がないぐらいの意訳をするのだろうとは思ってはいたが、翻訳という仕事、こんなに大変な仕事だったのか。

スローテンポなというと語弊があるか。熟考に次ぐ熟考を重ねる翻訳という仕事を生業とする男が主人公。
彼が思い焦がれる人は大学時代に同じサークルの仲間だった女性で同時通訳というスピード勝負の仕事を生業とする。

翻訳者の仕事を軽視していたわけではないが、原作者に比べてその知名度の差からしてもここまでクリエイティブな要素が入り込むものだとは思っていなかったが、考えてみればかなりありそうな話だ。
第一人称一つとったって「僕」「私」「俺」・・・どれを選ぶかによって登場人物のイメージは大きく変わる。

原作に忠実なのは当たり前なのだろうが、表現の仕方は原作者と同等、ひょっとしたら、自由奔放に書いているかもしれない原作者よりも原作者の気持ちを推し量りつつも、より最適な表現、情景が思い浮かぶような日本語を追い求める翻訳者の方が労の多いクリエイティブ作業なのかもしれない。

でもさすがに原作の一文を訳すのに最適な表現を見つけるのに何日も何日もかけていたら生産性は低すぎるわなぁ。

方や、同時通訳の女性も元の言語を別の言語に表現し直すという面は同じであっても、熟慮を重ねられる翻訳とは違い、瞬間瞬間が命。

国と国との交渉事の通訳ともなれば、誤訳は許されず、神経をすり減らす仕事であることは想像に難くない。

どちらも言語と表現との格闘だが、裏方さんであるのは双方同じ。
翻訳者の方が、本に名前が載るだけ、日なたと言えるだろうか。

海外を飛び廻る女性と家に閉じ籠もりっきりで文字と格闘する男。

二人は長い年月を経てようやく、年に一度会えるようになるのだが、それは恋愛というより他言語を表現する戦士たちの束の間の休息の如くだ。

世の中の翻訳者がすべからくこのようではないかもしれないが、あまりに翻訳者に敬意を払って来なかった自分のこれまでの読み方については反省せねばならないとつくづく考えさせられた一冊だ。

ロゴスの市 乙川 優三郎 著