カテゴリー: ア行



だれもが知ってる小さな国


「だれも知らない小さな国」という半世紀以上前に書かれた本のリメイク版と言ったらよいだろうか。

蜜蜂を飼って、蜂蜜を取る仕事をする養蜂業の仕事や暮らしがかなり詳しく書かれている。

この本では養蜂業とは言わず、蜂屋という呼称を用いている。

蜂屋さんの仕事というのはあまり知られていないが、本当にこんな1年に何度も移動を繰り返していたのだろうか。

蜂屋さんの子供の小学生が主人公。
蜂屋の子供は1年に何度も転校を繰り返して、また翌年には同じ小学校へと帰って来る。
年度途中で何度も転校する子供達。

学校によっては教科書も変わるだろうに。1学年で何冊教科書を取り替えるんだろう。

学校によっては、その進み具合や教える順番が違うかもしれない。
習うはずのところがすっぽり抜けたり、同じ所を何度もということもあるのだろうな。
と、本題とは関係ないところを心配してしまう。

主人公の少年はコロボックルに出会い、同じ蜂屋の同級生の女の子もコロボックルのことを書いた「だれも知らない小さな国」の熱烈な読者で、コロボックルの存在を信じている。

そのコロボックルの話をテレビの取材班が聞きつけて来て、懸賞金を出してコロボックルを探そうという試みを始めようとするのだが、二人はそれを懸命に食い止めようとする。
テレビ局側の人間に大阪出身で全国的に売れているという設定の漫才コンビと思われる人たちが登場し、子供たちを説得しようとするあたり、ちょっと大阪の人間としては読んでいて複雑な気持ちにならざるを得ないが、まぁ彼らも決して悪役というわけではなかった。

なんともほのぼのとした気持ちになれる読後感のいい読み物でした。

だれもが知ってる小さな国 有川 浩 著



塩の街


有川浩のデビュー作にて、電撃小説大賞受賞作。

ある日突然飛来した隕石。
それは途轍もなく巨大な塩の結晶で東京湾の埋め立て地に被弾、というより着陸。

はるか遠くからでもその山のような白い物体を見る事が出来る。

この塩隕石の到来その日に日本の人口の1/3は塩化してしまう。
人間の身体が人形のように固まってしまい、その中身は塩になっている。
触れば、さらさらと塩になって人型は崩れていく。

政府機能も麻痺。交通も麻痺。
となれば無法地帯。

阪神や東日本、古くは関東の大震災においてさえ、日本は大災害時に無法地帯とならなかったことで、世界の人々を驚かせたが、有川浩の世界は世界標準で、無法地帯となってしまうらしい。

両親がその日を境に帰って来なくなった娘。
家に親が居ない、男が居ない、ということが知れ渡ると、欲望に飢えた狼たちの格好の餌食となるらしく、家の扉を破ってでも襲って来ようとする。

そんな娘を危機一髪のところで助け、自宅に居候させた元自衛官の男。
彼がなんとしてでも守るべき存在として娘の存在は大きくなり、娘の中でも彼の存在は大きくなって行く。

この本、この塩の結晶を男が退治しに行くところで話としては完結しているはずなのに、その後、まだまだ続くのだ。
案の定、一旦終えた後に続編として書かれたものらしい。

このデビュー作での編集者とのやり取りが、あとがきに記されていた。

売れっ子作家にはあれを直せ、これを直せとは言わないが、新人には登場人物の年齢を変更させたり、設定を変えさせたり、ということが行われるらしい。
その変更内容には、売るための戦術もあるだろうが、差別用語、偏見と取られかねない表現などへの検閲に近い事も行われる。
改めて単行本化するにあたって今や、有川浩は売れっ子作家となったので、編集者に直されたところは尽く原作に戻したそうなのだが、その偏見と看做された表現部分の修正は、敢えて直さずに、読者に違和感を感じてもらおうとの意思だったようだ。

おそらく「華僑」という言葉がはまっていただろう箇所に「外国人」では、趣きが全く変わって来る。

そんなデビュー作にての経験が、検閲をめぐっての戦い四部作、図書館戦争・内乱・危機・革命四部作を有川浩に書かせる動機付けとなったのかもしれない。

塩の街  有川浩著



図書館戦争


しばらく前まで、図書館のア行の有川浩の棚には図書館戦争とその続きがずらりと数冊並んでいた。映画化が決まったり、テレビで放映された途端、棚から本は消え、予約も数週間待ちに。
映画・テレビの影響が本の業界に及ぼす営業をつぶさに見せられた格好だ。

人類の歴史の中で「焚書」という行為は行くたびも行くたびも行われている。
日本ならば、最も近いところではGHQによる、本の検閲。黒塗り。これは焚書とは言われないが事実上の焚書だろう。

ナチスドイツによる焚書。スターリンや毛沢東と言った共産党独裁国家の中での焚書。
中国の古代史の中では、秦の始皇帝があまりにも有名だが、他にも統治者が変わる都度の焚書というのはいくらでも繰り返されている。

この図書館戦争、昭和が終わって新たな年号になるというだけで、日本が戦争に負けたのでも無ければ、統治機構が変わったわけでもないのに、いきなり成立してそまった「メディア良化法」なる法律。
それを遂行すべく特務機関なる組織が出来、彼らの行うことはまさしく現代の焚書。

抵抗しようものなら力づくにても奪って破棄。
この焚書に唯一立ち迎えるのが図書館。
ここら辺の理由が良く分からないのだが、図書館法という法律で守られ、「図書館の自由に関する宣言」などを謳いあげる。
焚書にしては一貫していない、というか、図書館だけは別みたいな取り決めにしつつも武力衝突は黙認する、という極めて国の統治の上では危ない施策ではないのだろうか。
もし反政府勢力が出来るなら、当然図書館という安全地帯を根城にするだろうし、図書館へは市民の出入りは自由なのだから、そこを通しての勢力拡大も容易だろう。

そのあたりの、何故、現代の日本でいきなり・・。と言う疑問は残りつつも結構楽しめる本なのだ。

テレビの報道にては、足の不自由な人、目の不自由な人、耳の不自由な人・・・それぞれに該当する日本語が、その使われ方如何に関わらず、使われなくなってしまっている。
というよりも、絶対に使ってはいけない言葉になってしまっている。
そんな言葉が実はいくつも存在するのだが、これって「メディア良化法」みたいなものによる検閲と一緒じゃないのか。
それが行きついた先にはこんな世界が・・・というあたりが何故現代の日本でいきなり・・・の理由だろうか。

それにしても主人公の笠原郁と言う女性とその教官とのやり取り、面白すぎるだろ。