カテゴリー: ア行



黙示録


黙示録ってタイトルがものすごいインパクト。
どんな予言の書なのか、と思ってしまう。
最後まで読んでみると、「千年」の意味がやっとわかって来る。

この物語の時代は、江戸時代に遡る。
薩摩藩の侵攻を受け、薩摩藩による実質的な支配下に入った琉球王国。
その薩摩の支配下にありながらも清国への朝貢も行う。

双方の大国の狭間で大国の機嫌を取りながらも首里城の王家を維持する。

そんな立場から一転、琉球を世界のど真ん中に置こうじゃないか、と考える男が現われる。
蔡温という政治家で国師という特殊な地位を与えられる。

世界のど真ん中、と言ったって商業の中心地でも政治の中心地でも軍事の中心地でも有り得ない。
芸の世界で世界の中心たるに相応しい文化国家であろうとする。

登場するのが了泉(りょうせん)と雲胡(くもこ)という若い天才舞踊家。

彼らは楽童子として薩摩経由で大阪へそして江戸へと登り、将軍の前で踊りを披露する。
その時の大阪の描き方、江戸の描き方が面白い。
江戸ではまるで現代の芸能記者に追われる芸能人扱い。

方や清国からは冊封使(清国の皇帝が周辺国の王に爵号を授けるための使節)を迎えてまた新たな踊りを披露する。

主人公は了泉というニンブチャー(ヤマトで言うところの士農工商からもはずれた低い卑しい身分)から舞踊ひとつで這い上がった少年。
方や舞踊のエリートとして育成された雲胡とは何かにつけて比較される。

この了泉の見る天国と地獄のような浮き沈みが物語の柱。

舞踊を見た人みんながうっとりし、また感動し、涙を流し・・・というような民族舞踊は想像できないが、テレビも映画も無かった時代の人たちにとって、は目の前で繰り広げられる美しい踊りは唯一の娯楽であり、贅沢だったのかもしれない。

この話、了泉や雲胡のような個人の話は別だが、江戸幕府への使節の派遣やら、清国からの冊封使を迎えるところなど、大まかな流れとしては実際の歴史に忠実に書かれているのだろう。

ただ、ヤマトと清国の描き方から言えば薩摩は力づくで侵攻した相手なのに対して、清国の冊封使は詩を用いてこの国師を絶賛するなど、清国の方に若干好意的に書かれている気がする。
尖閣問題以降、沖縄まで中国が射程においていると言われるこの時期に出版されているだけに若干不安な気持ちも残る本ではある。

黙示録 池上 永一 著



黎明に起つ


なんだか、歴史の教科書の副読本を読んでいるような気持ちだ。

北条早雲の生き様を描いた本なのだが、応仁の乱の前後の描写は教科書副読本のように日野富子だの細川勝元だの山名宗全だのとかつて詰め込みで覚えたような懐かしい名前がいくつも登場する。

そういや、東京都知事選を賑わせている細川さんの家柄はこんな時代から世の中を賑わせていたのだなぁ、とあらためてあの家の家柄のすごさを思い知らされる。

この本の主人公はもちろん北条早雲なのだが、その名前では登場しない。伊勢新九郎や伊勢盛時や宗瑞と言った名前で登場する。
その若き日の早雲である伊勢新九郎は足利義視に半ば人質をとして仕えるのだが、人質とは言え主従関係。
上洛し、義視を捕縛する側に実の兄達が居るのだが、親兄弟よりも主従関係の方に重きを置き、実の兄を斬り殺してしまう。

また、「明応地震」のことも興味深い。
この地震がどれほどの大地震で大津波をもたらしたか。
その途轍もない大きさは、本来純粋な湖だった浜名湖を海とつなげてしまうほどで、現在の浜名湖も海につながったままである。
その津波の混乱に乗じて早雲(宗瑞)は敵を打ち取ってしまう。

そういう話はなかなか楽しめるのだが、名を伊勢宗瑞としたあたりからだろうか。
武士の為でも公家の為でも朝廷の為でも幕府の為でも無く、「民のために生きる、戦う」という話になって来る。

大抵の歴史上の人物に「民のため」と言う大義名分のを持ちだすことは可能だろう。
「民のため」という大義を大上段にかざした途端、せっかくの歴史ものの値打ちが下がってしまう気がする。

税負担を「五公五民」から「四公六民」にしたことなどはさすがに何かの史実として残っていたのかもしれないが、他の行いについてはどうなんだろう。
何らかの出典を文中にでも出しながら話を進めてくれれば、同じ「民のため」の行いを書くにしても、読み手からは全く違ったイメージのものになっただろうに。

それにしてもこの作者、ご自身では歴史上の人物を良く覚えているから気がつかないのかもしれないが、主人公周辺はともかく、他のちょこっとした登場人物は皆、毎回フルネームで書いて欲しいものだ。

初回登場時はフルネームでも次には姓を省いて下の名だけで書かれてしまうと、これは何氏の人だっけ、とページをめくり戻さねばならなくなる。

信長、秀吉級になればフルネームの方が煩わしいが、下の名前だけで、すぐに何氏と思い浮かぶほどには、この時代の人物を覚えちゃいない。

北条氏と言えば、大ヒット映画「永遠のゼロ」の主人公の岡田君が大河ドラマで演じている黒田官兵衛に滅ぼされるわけだが、この創業者が健在だったなら、うまく関東で所領を安堵し、生き延びたかもしれない。

なかなかに調略上手なのだ。
北条早雲という人は。

黎明に起つ 伊東 潤 著



かけら


なんと読後感の無い小説なんだろ。

父親と二人で日帰りのさくらんぼ狩りツアーに参加する娘。
彼女は写真を習いに行っており、出されている課題が「かけら」。

父親と二人で出かけるのはおそらくもの心がついてからは初めてなのだろう。
日帰りの旅の中でみつけた父の知らなかった一面を娘は見る。

父親が人に親切にする姿。
人が困っていたら助けたりする姿。

そんな一面をみた娘は父を犬猫を見るような気分になったりする。

なんともその表現には嫌悪感を感じる。

「かけら」とはそんな身近なはずの父であっても知っているのはほんの「かけら」程度のもの、というところに引っかけた、ということだろうか。

この「かけら」と「欅の部屋」と「山猫」の三篇。

「欅の部屋」は結婚を間近にした男が、以前の彼女のことをしきりに思い出す話。

「山猫」は東京に住む新婚夫婦のところへ、と西表島から親戚の女子高生が東京の大学の見学に、と泊り込みで来てその相手をする話。

妻の一人称ではじまったものがいつの間にか夫の一人称にすり変わっていたり、また妻の一人称になったり、というところに違和感を覚えたが、最後の一行で後に成長した後の西表島の彼女が一人称なっているので、ひょっとしたら、全て彼女目線で読み返せば、この本の話の面白さが出て来るのか、とチャレンジしてみたが徒労に終わった。

いずれも読後には微妙な嫌悪感が残るのみだった。

表題の「かけら」なんかは芥川賞受賞作家の看板が無ければ、出版してくれるところなど無かったんじゃないのか?
わざわざ本にして出さなくても、そんなこと、家で日記帳にでも書いておけばいいのに。
というのが素直な感想。

芥川賞の受賞時は取り立てて誉めるところもないが失点が少なかったというだけで、選ばれてしまったような人だ。
それでも芥川賞受賞作家の本をたまに読んでみるのは、受賞作がひどくても、その後におお化けしていることがあるからなのだが、その期待は虚しいのもに終わった。
本屋で買わずに図書館で借りておいて良かった。

ところが驚くことにこの「かけら」という一篇、川端康成文学賞なる賞をを受賞したのだという。

まったくもってわけがわからない。

かけら 青山七恵 著