カテゴリー: ア行



何者


朝井リョウという人、初の平成生まれの直木賞受賞者で、本作がその受賞作品。

3回生の終わりから始まる大学生の就活が描かれる。

学生時代から書き始めた人でつい昨年まではまだ学生をやっていた人だけに、ここに書かれていることは今日の就活の実態そのものなんだろう。

名刺を作り、大学でのサークルでの役職などを肩書きに載せ、大学OBの社会人と名刺交換をしてそれを人脈と呼び、そこからつながった就職担当者のメールアカウントから検索してSNSアカウントを見つけ、twitterで就職担当者に向けての情報を発信しようとする学生。

そうかと思えば、就活に何の意味がある?とばかりに開き直り、就活しない宣言をする人。
そう言っていた当人を別の就活学生が企業の試験会場で見かけたりする・・。

主人公君の同居人がおもしろいことを言っている。

名前も知られた大企業の内定をもらうことだけで、即、神様の如く尊敬を得られてしまう。
俺は単に就活という活動が得意だっただけなのに。

数学が得意、水泳が得意、料理が得意、陸上が得意、サッカーが得意、人それぞれに得意不得意があるだろうに、就活が得意なやつはそれだけで神様のようなまなざしを向けられ、不得意なやつは全否定されるっそれってどうなんだ、と。
本文を正確には覚えていないがそんな主旨の言葉だ。

内定をもらった人ももらってない人もまだまだ何も始まっちゃいない。
スタートラインにさえついていない。
何者にもなっていない。
それに気がついた彼は偉い!と思えてしまうほどに、それだけが人間の価値と思っている人があまりに多すぎる。

この本、就活のことを柱に置きながら、twitter、facebookといったSNSに依存する今日の学生のコミュニケーションの取り方というものにもスポットをあてている。

彼らは何故、誰かとあんなにつながっていたいんだろう。

twitterをはじめSNSで発信される言葉など、生身で話す言葉と比べればなんと表面的で薄っぺらいものか、彼ら自身が一番よくわかっているだろうに。

何者 朝井リョウ



光秀曜変


明智光秀と織田信長って同世代だとばっかり思っていたが、実は違った。

この本に登場する明智光秀は67歳。

織田信長の年齢は書いていなかったと思うが、
「人間五十年、下天のうちを比ぶれば~・・」と舞いを舞ったぐらいだから信長はせいぜい50歳か。

明智光秀が信長よりそんなに年上だったとは知らなかった。

御承知の通り、明智光秀は本能寺の変で自らの主である信長を討ってしまい、謀反を起こしたとんでもない男として歴史に名を残すことになってしまったわけだが、なんのことはない、人生50年と言われた中で67まで生きてしまえば、ここで一花咲かそうとしたとしてもいかしくはない。

まして、信長の率いる兵はわずか。

自らは信長から毛利を責める秀吉を助っ人に行くよう命令されていて、率いる手勢は一万を超える。

方や光秀のライバル達はどうか。

秀吉は助っ人を求めるぐらいだから、播磨を離れられない。

柴田勝家は北陸で上杉勢と対峙していて、これも離れられない。

滝川一益は関東で北条と対峙している。

信長を討った後、近畿圏内を手中に治め、維持し、上杉、毛利、北条と同盟を結んでいけば、存外に治まってしまうのではないか。

本能寺の変は光秀が信長に対する仕打ちを耐えかねた怨恨によるものという説が一般的だが、案外じっくり考えた末のことと思えなくもない。

だが、この本の中の光秀は違うのだ。

もはや本能寺の変よりだいぶ前から物忘れがひどくなっている。

まぁ、老人が呆けていくのは何も現代に限った話ではないだろうから、まんざら有り得ない話と切ってすてることもない。

この本の中の光秀に大きな影響を与えたのは信長が、織田家の譜代とも言える佐久間信盛らを追放してしまったことだ。

役に立たなくあんれば、自分もすぐに放逐されてしまう。

そんな恐怖心から、眠れない。
起きていても無の前に信長の姿が現われてくる。

そんな精神状態の光秀が本能寺の変を決意する。

想定外は、毛利と対峙して播磨を離れられないはずの秀吉が、速攻で引き返して来たこと。
味方につくと信じていた筒井順慶らがことごとく味方につかなかったこと、だろうか。

その後は負けるべくして負ける戦。

どれだけとめても聞かないわが主。主がそこまでの決心なら、とついていく家臣達。

負け戦の中でもわが主光秀のためにと、命を投げ出す家臣達がなんともいたましい。

光秀曜変  岩井三四二 著



ルーズヴェルト・ゲーム


野球で一番おもしろいゲームは7-8のゲームなのだそうだ。

ルーズヴェルト大統領がそう言ったとのことで、7-8のゲームのことをルーズヴェルト・ゲームと呼ぶのだそうだ。

この物語は、家電メーカーの下請け部品工場の会社の野球部の野球部の物語。

大企業でもないこの会社の野球部が、かつては都市対抗野球の名門チームだった。
所属する選手はプロ野球には入れないが、野球をすることで会社と契約を結んだ、契約社員。プロにはなれないが、アマチュアでもない、職業野球人達。

納入する大手企業からは単価下げを要求され、運転資金を借り入れている銀行からは人員削減を要求される。

そこへ来てのリーマンショック。
取引先は大幅な生産調整に入る。

もはや、会社の存続上、明日が見えない状況の中、当然野球部の存在も安泰ではなく、その存続をめぐって、役員会でも常に俎上にのぼる。

野球部の物語と言いながら、実は中小・中堅企業の生き残りをかけた戦いの物語なのだ。
創業者からバトンタッチされたまだ若い社長は、銀行の要求通りにリストラをすすめて行くのだが、創業者はそれに反対はせずにただ一言。
「仕入れ単価を減らすのはいいが、人を切るには経営者としての『イズム』がいる」と。
キッチリとした経営哲学があってのことなのだろうな、とも取れる。

企業の業績などいい時もあれば悪い時もあるに決っている。

その業績のいい時には人を増やして、業績が悪くなりゃ、人を切ればいい、みたいな考え方が蔓延してやしないだろうか。

いったい何のためにその会社はあったのだろうか。

人を切ってまでして営業利益を出したところで、その存続し続ける意義とは何なのか。

株主のため、か?
非上場会社である。

残った社員のためか?

それとも経営陣のためか?それなら本末転倒もいいところだ。

もはや、物語は野球部云々などの話ではなくなっている。

野球部の存在は、この会社が負け続けの中、7-8のルーズヴェルト・ゲームに持ち込めるのか、の小道具だと言ってもいいぐらいだ。

会社の存続する意義とは何か、が問われている。

そんなことを感じさせてくれる一冊なのだった。

ルーズヴェルト・ゲーム 池井戸 潤 著