カテゴリー: ア行



ヒア・カムズ・ザ・サン


同じような設定で登場人物が若干変わり、同じ登場人物も少しキャラクターが変わっていたりする。

一作目では、編集者に勤める主人公は、幼い頃より感が強く、触れた物からその持ち主の思いが伝わったりでする。
編集者という立場で小説家と向き合うにはかなり有用な能力だろう。

同期入社のカオルの父親が20年ぶりにアメリカから帰国する。
ハリウッド映画の脚本を手掛けた人なのだという。

その人の手紙の書いた手紙に触れた瞬間、主人公氏は衝撃を受ける。

もう一作が、ヒア・カムズ・ザ・サン Parallel。
パラレルワールドというわけではない。
設定そのものが異なる。

こちらの主人公も同じ名前の人物で同じ様に編集者。
こちらの主人公は、どうやら能動的にみようとしてはじめて触れたものからその物の過去の風景そのものを見ることが出来てしまう。
こちらもカオルという女性が登場するが、こちらは主人公氏の婚約者として登場。

同じようにカオルという女性の父親が同じく20年ぶりにアメリカから帰国するのだが、こちらの父親は一作目の父親と違って、大法螺吹きの男。

・主人公は30歳。編集者。
・物を触るとそれに残された人間の記憶が見える。
・同僚のカオルと共に成田空港へ行く。
・カオルの父が20年ぶりに帰国する。
・父はハリウッド映画の仕事をしている。

そんな設定(具材)を与えたなかで、作家が料理をするという趣向らしいのだが、無理に設定を与えるということは作家の自由な発想転換の機会を逸してしまい。
そんなものの書か方というのはいかがなものなのだろう。

無理やりストーリーをはめて行く中でどうしても無理が出て来てしまう。

一作目にしたって、無茶苦茶優秀、芸術的なほど激烈で・・とはいえ、脚本家という仕事だ。
脚本を書く人間が20年放ったらかしの娘の気持ちを読めないような有り様で優秀な脚本など書けるのか、などと思ってしまう。

寧ろ音楽家だったり、画家だったりという本来の芸術家の方が激烈な個性に当てはまるのではないか。

もう一つは語学の壁。
役者なら、まだ語学の指導も付けられるだろうが、脚本家に語学の指導など有り得ないだろう。
成長期をとうに過ぎて、結婚して、子供までいる年齢になってから、身につけた語学で脚本などという肝が書けるだろうか。
大人になってからのビジネス英語ならなんとかなっても、言葉のやり取りの機微など表現し切れるのだろうか。

この二つの話、文芸雑誌かの一章として書かれているのを、たまたま見つけたとしたら、あぁ、いい話を読ませてもらった、とすごく得した気分になるのだろう。

ところが、「有川浩の単行本」として読むと、もっともっと期待していたのに・・という感はが残ってしまう。
まぁ、いい話ではあるのだが・・・。


ヒア・カムズ・ザ・サン 有川 浩 著 (新潮社)



降霊会の夜


郊外の森に住む団塊の世代の初老の男が毎晩、同じ夢を見る。
同じ女性が現われて、過去への懺悔を求めている様子なのだが、男は夢の中で言う。
この歳まで生きて、悔悟のないはずがない。それらを懺悔して贖罪するなどあまりにも都合が良すぎるではないか、と。

そんな彼が降霊会に招かれる。
振り返る過去の時代は二つ。
一つは、彼の小学生時代。もう一つが大学生時代。

それにしても小学校の一学年のたった一学期だけ、という短い付き合いの転校生のことが良く頭に残っていたものだ。
いや、普段はとうに忘れ去っているが、降霊会という場が思い出させたという方が正確か。

戦争が終わって、さぁ復興、という波にうまく乗れた人と乗り遅れた人の差。
うまく乗れた人が主人公氏の父親で乗り遅れた人がその転校生の父親。

方や、瀟洒な家に住み、都心で会社を経営するプチ・ブルジョア。

方や、空き地にバラックをおっ建てて、トタンを被せただけのボロ屋住まい。
ボロ屋というよりは、ただの空き地に住んでいるのだから寧ろホームレスに近い。
母親はニコヨンと呼ばれる、日給240円の日雇い労働者。
父親は普段はパチンコ屋通いの当り屋稼業。
当り屋と言っても自分の身体を使うならまだしも子供の身体を使って当り屋をする、とんでもない親を持つ子。

そういう霊に主人公氏は懺悔しなければならないことの一つでもあったのだろうか。

小学時代の近所の警察官の霊が現われて主人公氏に言う。
人間は嫌なことを片っ端から忘れていかなければ、とうてい生きてはいけない。
でも、そうした人生の果ての幸福なんて信じてはならない、と。

忘れてしまう罪は、嘘をつくより重い、と。

それを当時小学生だった主人公氏に言うのは酷すぎやしないか。

いや、高度成長時代にも貧富の格差はあったとか、貧困はあった、とか、そんなことは当り前だ。
ただ、仕事など探せばいくらでもあった時代に、自ら「くすぶり」だと決め込み、「せっかくやろうと思ってた矢先なのに」と、まるで子供の駄々のような理屈をこね、悪いのは他人で、世間で、時代だとばかりに怠惰な暮らしを決め込んだその転校生の父親こそ、どうしようもない。

方やの大学生時代は、まさに学生運動の真っただ中の時代。
ゲバルトもノンポリもフーテンも含めて、自分達が地球上のほかのどこにも、歴史上のどこにも存在しないぐらい稀有な人種であることに気が付いていなかった、と当時のやりたい放題だった自らの学生時代を振り返る。

ここでも主人公氏は一人の女性を忘れ去ってしまっていたわけなのだが、小学時代の回顧にせよ、大学時代にせよ、あたかも高度成長を否定しているかの如くに読めてしまえそうな箇所がいくつもある。
だが、著者が言いたいのは、そんなことではないだろう。

著者は忘れ去って捨て去ってしまったものを、今一度振り返って見つめ直してみよ、と言いたいのかもしれない。

浅田氏の本に霊のようなものが登場するのは少なくない。 だが、これは少々重たいなぁ。

降霊会の夜  浅田次郎著 朝日新聞出版



あやし うらめし あな かなし


ホラー、怪談、怪奇談などと、ジャンルではひと括りにされてしまうかもしれないが、所謂ホラー小説などでは決してない。
霊的なものを取り扱った七話のお話。

最初の「赤い絆」と、最後の「お狐様の話」は作者の母方の実家で聞いた話を元にしているのだそうだ。
「赤い絆」は心中事件の顛末。「お狐様の話」は狐に取り憑かれた由緒正しき家のお嬢様を預った作者の母方の実家であった話が元で実際に伯母や母からその顛末を聞いたのだという。

「虫篝」
戦争末期、南方戦線で飢餓しかけになる男の前に現われたのは、まだそんな飢餓状態になる前の自分そのもの。
その現われた自分と魂を入れ替えて生き残る、という不思議なお話。

その話が現代を生きる主人公にどうつながるのか・・・。

「骨の来歴」
ある男の語り。
学生時代に好き合った女友達が居て、共に受験勉強をする。
男は貧乏の苦学生。方や女友達の実家は裕福な家庭。
無事に合格してから付き合えと女友達の親から言われ、男は無事に合格するが、携帯電話の無い時代、彼女が合格したのかどうかは家へ電話する以外にない。
ところが電話に出て来た母親は、
「もうご縁が無くなったはず」
「今さらお行儀が悪いんじゃございませんこと」
などと言われてしまう。
そればかりか、父親も訪ねて来て「身を引け」と言う。

「念ずれば通ず」とは使い道が違うかもしれないが、彼の念力は通じてしまう。

「昔の男」
流行らない病院で居つかない看護婦。
総婦長の跡を継ぐのは現婦長、そしてそのあとを継ぐのは唯一居ついている主人公の看護婦。
そこへ現れるのが先先代の院長。
その院長は志願して軍医となり、南方へ送られた人であった。

この物語については浅田氏がかつて医大の卒業生名簿を見た時の感想を述べている。
その卒業生名簿のある年度のところをみると、戦死、戦死、戦死・・・・と軍医で出征して戦死している。
本来人の命を救う人が、人を傷つけ合い殺し合う戦場へ行って何をしたのか。

霊がどうの・・などという話ではない。
そんな悲劇をさりげなく盛り込みながら書いている。

他に「客人」、「遠別離」。

本のタイトルに「あやし」や「うらめし」などとあるが、うらめしい話などではない。

怪談めいてもいない。

敢えていうなら、浅田次郎の手による「民間伝承」っぽい、現代に作られた物語集といったところだろうか。

あやし うらめし あな かなし (双葉文庫) 浅田次郎著