カテゴリー: ア行



キリング・サークル


かつてのカンボジアでクメール・ルージュによる大量虐殺を描いたような作品を期待される向きには、全くおすすめしない。
「キリング・フィールド」と確かにタイトルは間違えそうであるがジャンルが全く異なる。
なるほど、こういう本を「サイコ・ミステリ」と呼ぶのか。

カナダの作家でカナダが舞台の小説。

主人公は小説家志望のジャーナリスト。
ジャーナリストとはいえ仕事はテレビの紹介だったり、たまに書く小説家の賞の論評では作家達や賞そのものもこき下ろす。

ところが、自分で物語を書けるかというと、これが書けない。
テレビの紹介記事は書けても、自らの創作が出来ない。

そんな彼が小説家を目指す人たちのサークル、創作サークルに入るところがまだこの長編の冒頭部分。

サークルではいかにもシロウトっぽい人たちが自らの体験談を小説にして、朗読して行く。

その中で、一人だけずば抜けた語り手が現れる。

サンドマンと命名された怪人に怯える少女の物語をその語り手である女性は語る。

その朗読を聞いた人は自分の廻りにもサンドマンが居るのではないか、と思ってしまうような独特の語り。

丁度その頃、主人公氏の町の周辺では不審な行方不明や殺人事件が何件か立て続けに起きていたことが、そんな妄想に拍車をかける。

創作サークルは4週間ほどで終わり、それぞれが会う機会も無くなり、不審な事件も忘れつつある頃に、主人公氏は自らの毒舌記事が災いして会社をクビになり、住むところの家賃さえおぼつかなくなったあげく、音声で残していた「サンドマン」の話を自分の作品として出版してしまい、またそれが大ヒット。
賞を受けるほどの売れ行きとなる。

その頃からまた、不審殺人は再開され、今度はかつての創作サークルのメンバが一人一人ターゲットになって行く。

人の創作をパクって、売れてしまう小説家.。
また、その小説に書かれていることが現実とかぶって行く。

疑おうと思えば、その小説家は最も疑われやすい立場にいるとも言える。
書いていることとほぼ似たことが実際に起こっているとしたら、自作自演も疑われるだろう。

とは言え、この本を読んでの感想はそんな殺人やら事件などではない。

カナダが舞台なだけにこの主人公が上司の一存で意図も容易く解雇されてしまうところだろうか。

アメリカ映画などでは良く見かける光景だが、
カナダは労働者にかなり手厚い、という話を聞いたことがある。

しかしながらよくよく内容を聞いてみると
・雇用者は被雇用者に最低月に2回以上給料を払わなければならない。
(回数の問題か?それよりも額の問題じゃないのか?)

・雇用者には5時間ごとに30分の食事時間を設けなければならない・・・だとか。
(8時間超なら1時間の休憩必須の日本と変わらないか。食事時間というのが変わっているだけ?)

そうか。労働者に手厚いは気のせいというやつだった。

なあーんだ、カナダもアメリカ同様じゃないか、などと本編と関係の無いところで感心してしまう。

それだとか、冒頭で親子で映画を観るシーン、ドライブインシアターなのだ。

ドライブインシアターなんかで映画を観たことはないが、殺人だのホラーだのという映画を巨大スクリーンに映し出すってどうなんだ、などと思ってしまった。

本編の感想?・・・・・・・・・そうだなぁ、本編はちょっと長すぎるんじゃない。

こんな長編で書く話だろうか。
半分ぐらいに削れば良かったのに・・・・・。

主人公を真似てちょっとだけこき下ろしてみました。

キリング・サークル (新潮文庫) アンドリュー パイパー (著) Andrew Pyper (原著) 佐藤 耕士 (翻訳)



カッシアの物語


近未来小説。
人類が目指すべきユートピアを描いた作品はいくつもある。
そのほとんどが、実はユートピアとは、管理された監視社会であった、という類のもの。大半の人々はそのユートピアを信じ、これぞ正しい生き方とその与えられたものに満足し、感謝さえしたりする。
ところが、その社会の有りかたに疑問を持つものが表れるや否や、ユートピアはその牙を剥くのである。

何故にそのような監視社会ばかりを描くのだろう。
いったいいつになれば、ジョージ・オーエルの「1984年」の延長でしか勝負しないのだろう。ジョージ・オーエルが皮肉った相手のソビエト連邦はとうの昔に消えて無くなったというのに・・。

とはいえ、それぞれの近未来作者はしのぎを削り、それぞれの新しい世界をみせてくれていることもまた事実。

この物語の世界、人はCREATEする、という行為が出来なくなってしまっている。
文字は読めても文字が書けない。
どうやら、文字を書くことはどうやら禁止されているらしい。
音楽に興味を持つ者も居ない。

生涯の中で二大イベントの一つが17歳で体験する「マッチ・バンケット」と呼ばれる儀式で、生涯連れ合うのに最も相応しい、見ず知らずの結婚相手をその場で決められる。もちろん、たまたま知っている相手と当たる場合もある。
仕事に関してもその人の能力に見合った仕事が割り振られる。
31歳をすぎて子供を持つことは禁じられている。
自分の家の中ですら正直な会話が出来ない。
資料館などで、特定のキーワードで検索をかけると、誰がどんな検索をかけた、とあらぬ嫌疑をかけられかねない。

そして、癌になることもなく健康体のまま生きて、二大イベントのもう一つである「ファイナル・バンケット」と呼ばれるイベントを迎える。
「ファイナル・バンケット」とは80歳の誕生日にめでたく健康体のまま、死を向かえるイベントなのだ。
人間、歳をとって自分が必要とされていない、と思う状況ほど辛いものはない。
この世界で科学的に計算された健康で理想の寿命、それが80歳なのだった。
これがこの物語でいう「ソサエティ」という世界。
「ソサエティ」では何事につけ、公平なのだ。

そして、生まれてから死ぬまで、ずっと管理されているわけだ。

そこまでしてルールに縛られ、管理、監視され、彼らは何を得るのだろうか。
安寧な生活か?健康な肉体か?貧困ではない生活か?

逆にそのルールを破ったら何がもたらされるのだろうか?

優秀な人間は仕分けと呼ばれる仕事を行う。
コンピュータででも行っていそうなそんな仕事を役人となった人間が行う。

仕分けとは特定の仕事に向いている人間、向いていない人間を選り分けて行く仕事。
結婚相手を見つけ出すのも一つの仕分けなのだろう。
その上級職がまた仕分けする人間を仕分ける。

では逆に掟破りをして異端となった果てには何があるのか。
ちょっとした異端は「逸脱者(アベレイション)」と呼ばれ、もっとはずれた者は「異常者(アノーマリー)」と呼ばれる。

異端の身分になると、少なくとも長生きだけは出来そうに無さそうだ。

この物語、ソサエティというこの管理されながらも安全な社会で平凡に生活を送っていた少女、カッシアが、「マッチ・バンケット」で定められた相手以外の異端から来た男の子を好きになってしまう。

そして、文字を書くことを覚え、ソサエティのルールを侵すことを覚え、ソサエティからのはみ出し者になることも厭わなくなって行く。
この一冊でストーリーとして充分に完結していそうにも思えるのだが、続編がまだ出るらしい。

異端の世界へ行ったその後、ということだろうか。
そこがどんな世界かはわからないが、どこだろうが常人ならこんな監視社会よりはマシと思うかもしれない。
でも、生まれてこの方ずっと管理・監視されることに慣れ、平和な世界に慣れたカッシアが如何に耐えて行くのか、乞うご期待、といったところか。

『カッシアの物語』アリー・コンディ著、高橋啓訳 プレジデント社



奪還


麻生幾がかつて2001年に書いた「宣戦布告」。
たった11名の北朝鮮の武装集団がやって来ただけで、右往左往してしまうこの国の有り様を描いていた。
飢えてガリガリになった北の兵士の画像が放映されてみたり、はたまた今回のミサイル打ち上げ失敗と言い、北の武装集団というものへの不気味な怖さは10年前よりも減っているかもしれない。

それでも日本の自衛隊は、組織は立派でも法律でがんじがらめにされてしまって身動きが出来ないのは、今も昔もさほど変わりはない。

小泉内閣の時だったか有事関連法案が可決されたのは、上の麻生氏の本が出版されたことがトリガーではなかったか、などと思ったものだ。

それにしてもウィンカーを付けなければならない戦車だとか、他の国では考えられないようなしばりがこの国を守る軍にはありすぎる中、それでも命をはっておられる人達には、本当に頭が下がる。

この「奪還」の中に、かつて奄美沖に出現した工作船を海上保安庁が撃破し、それから工作船はしばらく日本に近づかなかった、という記述がある。
「九州南西海域工作船事件」と一般に呼ばれている事件のことだろうか。たぶん真実なのだろう。
その正反対のことが、例の仙石・管の尖閣対応後に発生している。
断固たる意思をみせることが、国防にとってどれほど大事か、ということなのだろう。

この本に登場する海軍の特殊部隊、そんな工作船が来て海上保安庁の保安官に工作船に乗り込みそのまま拉致された時などに出番が訪れる。
自らの命を賭してでも、自国民を奪回する。
如何なる犠牲を払ってでも自国民を守る。
その為に必要なありとあらゆる訓練を積んで来たプロ中のプロ。

ところが、そのプロを運用する側にその意識が無ければ、宝の持ち腐れもいいところだ。
この本の中では実際に工作船に乗り込んで、敵と撃ち合い、保安官三名を奪還するが、部下の二名を殉職させてしまう。
そしてなんと敵は全滅。

帰還した彼らに待っていたのは、正当防衛だったかどうか、などという虚しい机上の空論。
結局、日本最強の部隊は解散させられてしまい、部隊長は辞職し、海外へ移住する。

この物語はそこから始まる。
その部隊長はフィリピンのミンダナオで海中での格闘訓練の特訓を続ける。

いつか日本が再度自分を本当に必要とする時のために。

命を賭した自分と自分の部下を見捨てた国のためにさらなる訓練などと、そこまで思える人がいるものなのだろうか。

そんな訓練のさなかに飛び込んで来た依頼が、NPOの国境なき医師団で働くの日本人女医が行方不明になったので探して救出して来て欲しい、という依頼。

ここからは、もうアクション映画さながら。
この男、身も心もどれだけ強いんだ!という感嘆符がつくほどの展開になる。

フィリピンの巨大マフィア組織を相手にたった一人で奪還作戦を進めて行く。

どこかの国の特殊部隊にでも所属した人からでも取材しなければ書けないようなプロの技。戦術。
プロが相手を見てプロと見抜くのはどんなところなのか、そんなプロの視点の記述が満載。

この本、「宣戦布告」が与えたインパクト。
「ZERO」が公安という組織について綿密に調べたような類の本とも違う。
それにあの東日本大震災直後の自衛隊を描いたノンフィクションの「前へ!」とももちろん違う。

それらに比べると、少々アクションものっぽい感もあるが、それでも麻生氏の思いには「身命を賭して」いる人達への敬意があるのだと思う。

奪還 麻生幾 著