カテゴリー: ア行



大盛りワックス虫ボトル


同じ小学校に、しかもたったの3クラスしかない同じ小学校に6年間も通っていたというのに、中学へ入るやいなや、「えぇ!同じ小学校だったっけ」と言われる少年。
どれだけ存在感無いんだ。
名前を忘れられることなら、まだまだ普通だが、もはや存在そのものが記憶から消されてしまっている。

小さな頃からそうだった。
かくれんぼをしていたら、かくれているうちに存在を忘れられてみんなが家に帰ってしまっていたり、小学校の催し物を行った時も一人だけ遅れて参加出来なかったのに、参加していないことにも誰からも気が付かれなかった。

「透明人間」を取り上げた本や映画というのは昔からいくつもある。
その中では透明人間って不便だったり、透明だからこそなのか、返って目立ってしまっていたりする。

真の透明人間というのはこの主人公:虫ボトル君のことではないのか。
見えていてもその存在そのものがあまりにも希薄すぎて、結局居ることに誰も気が付かない。
昔の日本の忍者にはそういう技術があったという。

存在感を消すという技術は、透明人間を作りあげるような科学技術は不要だが、効果としてははるかに有用なものなのだろう。

しかし、それはあくまでも存在を消したい人にとってであって、自分はここに居るんだ!と存在を認めてもらいたい少年にはたまらないことだろう。

自宅に戻った彼はペットボトルに向かって秋葉原連続殺傷事件じゃあるまいに「こうなったら手あたり次第に1000人ぶっ殺ししてやる!」と叫ぶところからこの話が始まる。

その1000という数字がこういう具合に返って来るとは。
ペットボトルの底に現れた、糸くずみたいな手足の虫が彼に命令する。
次の誕生日までに人を1000回笑わせろと。
なんともたわいのない話ではあるのだが、とにかくそういう設定なのだ。

相棒を探して文化祭でコントをやってみよう・・と決心をしてからは彼の中で何かがはじけたのではないだろうか。

以外にもお笑い芸人には昔ネクラだったとか、静かで目立たない人だった、みたいな人が多いと聞いたこともある。

案外、こういう人が将来芸人になってしまっているのかもしれない。

いや、芸人になるかどうかはどうでも良くて、彼ともう二人の相棒の彼らが味わった達成感はそれから先の彼らにとって大きな財産となって行くのだろう。

大盛りワックス虫ボトル 魚住直子著 YA!ENTERTAINMENT



一刀斎夢録


時は明治がまさに終わり、新しい時代である大正へと移らんとしている。

天然理心流を極めた剣士でもある近衛将校の主人公に明治天皇の御大喪として八日間もの休みが与えられる。

その休みの間、夜毎通い続け、酒を傾けながら明け方まで話を聞きに行った先がなんと、往年の新選組副長助勤、三番組組長斉藤一。

そう。この話、ほとんど斉藤一の一人語りなのだ。
ひょうきんで明るいと一般には言われる沖田と対比され、無口で薄気味が悪いとされる斉藤一が語る、語る。
数年前に壬生義士伝が映画化された時、斉藤一を佐藤浩市演じているのに、さほど違和感が無かったのだが、よくよく考えてみるに斉藤一は若いイメージのある沖田よりさらに若く、新撰組に在籍していたのは20~25才ぐらい。今で言うとさしずめ大学生から社会人1~2年生といった年齢だ。
佐藤浩市じゃ少々歳が行きすぎているはずなのだが、この斉藤というあまりに際立ったこの人をそんじょそこらの若手俳優が演じられるはずがない。

もっとも斉藤に言わせれば、沖田こそ人を斬るために生まれて来た男ということになるのだが・・。
斉藤はことあるごとに人間みな単なる糞袋じゃねーか。と言う。
壬生義士伝の中でも坂本龍馬を暗殺したのは実は斉藤一だった、みたいなことがさらりと触れられていたが、この話の中ではもはや確信的だ。
浅田次郎は絶対にそう確信しているのだろう。
薩長連合の橋渡しをしたばかりか、大政奉還までも成し遂げ、国内での戦を回避させようとする龍馬は長州にとっても薩摩にとっても、もはや除外せざるを得ない存在だったのだろう。

西郷は血の雨を降らさなければ、新しい時代にはならないという考えで、鳥羽伏見はおろか、戊辰戦争を終えて後でさえ、まだ血の量は足りなかった。この浅田説によれば、西南戦争は西郷と大久保利通の図り事であったのだという。

士農工商はこれで終わりね、といきなり言われたってそう簡単に人間変われるもんじゃない。
御大将自らが壮絶に討ち死にすることで、世の不平士族を黙らせ、国軍を国軍たらしめる、そのために西郷と大久保は、壮大な画を描いた。

おそらく西郷蜂起の一報よりも派兵決定の日が先だったり、というのはこの話の中の作り話ではないだろう。
確かに不平士族を黙らせるための征韓論なんていうのもあまりにお粗末だ。

そんななぁと思いつつも、だんだんとなるほどそうだったのかも、と読者に思わせてしまう。
特に西南戦争の真っただ中で今度は官軍側の抜刀隊として斬って斬って斬りまくった斉藤一が、戦というものを熟知する男である斉藤一が語ったのであれば、尚更である。
そういうところが浅田次郎の新鮮さなのだ。

浅田次郎はこれまで人が散々書いて来た題材を扱う時、必ずや自分ならではの視点を持って来る。

大政を奉還したって日本最大の大大名であることに変わりはない徳川が何故いとも容易く、恭順の意を示してしまったのか。
勤皇の空気が漲る水戸出身の将軍が最後の将軍になったから。
そしてそれを実現させたのが、薩摩出身で大奥へ入り、大奥を牛耳る存在にまでなった天璋院。天璋院を動かすべく画策したのは西郷だという。

なるほど、なるほど。

読めば読むほどに目からうろこ。
まことに面白い。

上・下巻通しで結構の分厚さの本でありながら、一気に読まされてしまった。

斉藤一は言う。

始末に負えぬ将には三つの形がある、と。
己の功をあせる者、死に急ぐ者、思慮の足らぬ者。

その将の典型が203高地の乃木将軍だったと。
そしてその真逆が西郷隆盛であり、土方歳三だったのだろう。

斉藤からすれば乃木将軍でさえ年下なのだ。
殉死にあたって言い訳を書き残すやつがあるか。
後の始末をせねばならん妻までも道連れにしてどうする。
なかなかに手厳しい。

方や五稜郭を土方一人が御大将であったなら、永久に陥落しなかったであろうと、斉藤は言う。
その後の軍隊が乃木将軍を軍神と崇めてしまったところが昭和の軍人の不幸だろうか。
開戦から敗戦に至るまで、思慮も足らない、命を大切にしない将校が日本をあの無残な敗戦に追いやったのかもしれない。

そんな斉藤が百年後のこの日本を見たらどう言うのだろう。

たぶん、同じことを言うのだろう。
どいつもこいつも糞袋ばかりじゃわい、と。

一刀斎夢録  浅田次郎 著 文藝春秋



鞍馬天狗敗れず


何故、今 鞍馬天狗なのか。
大佛次郎という明治生まれで、40年近く前に亡くなった方の本が、しかも鞍馬天狗なら連載ものだろうに何故この一冊だけがこの近年になって出版されたのか。

この本は生麦事件の騒動直後が舞台となっている。
生麦事件とは日本史の復習になってしまうかもしれないが、幕末に薩摩の島津久光の行列に騎馬の英国人が闖入したのを薩摩藩士が切って捨て、それが元で外交問題に発展し、英国は40万ドルという法外の賠償金を幕府に求める。
肝心の薩摩はそれは「岡野新助」という架空の人物を仕立てあげ、彼がやったことで、行方不明だからと幕府を無視。
幕府はとうとうその支払いに応じてしまう。

そんな背景の中のお話。
鞍馬天狗は自分が岡野新助だと名乗って、他の英国商人がアヘンを扱っているのを知り、その商人を樽に詰めて海に浮かべてしまう。
その商人を「黒ひげ危機一発」の黒ひげオヤジよろしく樽から首だけ出した状態で身動きの取れない憐れな姿にした上で、アヘンを扱っていた証拠品を岸辺に並べるばかりか、幕府の現地を差配する外国掛りの役人にも送りつける。

これで英国から言われる一方ではなく、向こうへも抗議を呈する下準備をしてあげたわけだ。

岡野新助を名乗る天狗が外国掛りの責任者に言う。
何故、抗議をせぬのか、と。
アヘンを扱っていたのは生麦で切られたのと同じ英国商人だぞ、と。
相手に直面している責任者が臆病風に吹かれて、一歩事を誤ったら、日本の歴史上取り返しがつかぬぞ、と。
信念を持て!
現状を無難に乗り切ることを考えずに日本の末始終を考えて行動しろ、と。
一度、膝を折れば何度も折ることを繰り返さざるを得なくなるぞ、と。
如何なる場合にも国の威厳を損じるな、と。
命を叩きつけるぐらいのつもりで談判してみよ、と。
さすれば必ずその至誠は人を動かす。
敵の軍艦を恐れるな。大したことは敵も出来ぬ。
大砲をぶっ放したところで手持ちの砲弾が尽きればお終い。
上陸戦どころか上陸すら出来ないはず。
恐れるには至らない、と。

ところがその役人は英国へ抗議するどころか、反対に岡野新助を名乗る男を捕えようと懸命になる。

まるで昨年秋の事件と似ているではないか。
尖閣での一連の事件。
あろうことか、首脳会談を開きたいばかりに尖閣ビデオを流出させた国士を捕えようとし、相手に抗議をするどころか、肝心の首脳会談では手持ちのメモを読むのに精いっぱいで始終俯いたまま、相手の顔を見ることすら出来なかった、もはや外交とも言えぬ国の恥を世界にさらしてしまったあの一連。
40万ドルで結着させた幕府どころの話じゃない。
その恥ずべき人もようやく辞めるハラを決めたようだが、あれほどひどいことはないにせよ、彼を総理大臣にと投じた同志の誰かが代わりを務めるわけだ。
まぁ当分、期待するには当たらない。

むろん、大佛が生存していて今の民主党政権のうすら寒さを見て書いたわけではもちろんない。
もっとはるか以前に書かれている。

ただ、今これだけを引っ張り出して出版した側には何らかの意図があっただろう。

上の天狗の現地責任者に対する物言い、何かまるで櫻井よしこさんが民主党政権に一言ブッっているかのようだ。
いやあの方々の政権じゃ、さすがの櫻井さんだってあきれてモノ申す価値にも至ってないか。

この本を出版したのは丁度、前政権が誕生した頃。
だから、何か意図があったとしてももっと前の政権に言いたかったはずで、思い当たるのは、あの何事にも他人事の言い方をしていた福田何某か。

洞爺湖サミット中国の毒入りギョウザの一連対応に関しても、チベット問題に関しても何ら抗議はおろかコメントすらせず、温暖化対策をしない国相手に日本の温暖化対策を約し、この期に及んでまだODAだの、と約すあの無責任他人事総理あたりの時にカチンと来たのではないだろうか。

この手のことは前政権あたりからもう手の付けられないほどにひどいことになって行くのだが・・。

大佛次郎が存命なら、もはや呆れてモノなど書けぬと言い出しかねない。

元へ戻すが、「鞍馬天狗敗れず」というタイトルながら、結局この物語で天狗は「勝ち」は決してしていない。
負けに近いが「敗れず」だった、ということだ。

どのあたりを持って「負け」なのかはさておき、せめて「敗れず」であって欲しいものである。

鞍馬天狗敗れず  大佛次郎 著 大佛次郎セレクション