カテゴリー: ア行



いさご波 


お家断絶の上、仕官のかなわぬ武士というのは現代では、就職先の無い若者よりももっと厳しいものがあったのだろうな。

職業選択の自由がないのだから。
それに武士としての矜持を守らにゃならんのだから。

赤穂浪士の討ち入りと言えば格好いいが、家族を息子を大事に思った人にはどう映ったのだろう。
「沙(いさご)の波」ではまさにそんな「討ち入り」に加わらなかった武士の流浪の果てとその息子の仕官して後の話である。

赤穂の格好いい討ち入り武士達は歴史に名を残したが、加わらなかった卑怯者の汚名を甘んじて受けた47人以外の武士達にとっては、屈辱を味わう日々だったのだろう。

討ち入り武士達の家族や一族郎党もあの華々しさの影になってしまっているが、出家を強いられるのはまだましで、島流しの目に会う者、や路頭に迷ったあげくに衰弱死したり、と散々である。

そんなことにはさせじ、と討ち入りに参加せず、息子の仕官だけを願って死んで行った父。
願いかなって仕官をした息子にその後に与えられた使命とは?

安住さんの本は初めて読んだ。
味わいのある書き手の方と思われるのだが、あまりに短編すぎるように思えてしまう。
この「沙の波」などはもっともっと掘り下げて長編にされても良かったのでは?
などと言うのはしろうとの単純な発想なのかもしれないが・・。

これは短編だから味わいがあるのです、とツウの方からお叱りを受けてしまいそうだ。

武士というのは体制的には現代では官僚に近いのだろうとぼんやりと思う。
ただ、違うのは武士には矜持というものがあったというところだろうか。
そんなことを言えば、現代の官僚にだって矜持のある人もいるだろうから誤解を招かないように書き添えると武士とは上から下まで矜持そのものだったのではないだろうか。
矜持を失って生き延びるぐらいなら腹をかき切る方を選択するのが武士。
まぁそこまで言えば、現代人に真似の出来る人間など居るわけがない。

そんな武士の話だが、感動した!などという感想が出るような作品でもなく、わくわくした!などという感想が出るような作品でももちろんない。

ただ、末端の武士の哀切あふれる小編が「波」というキーワードのタイトルで五編収録されている。

そんな頼りない感想で恐縮だが、興味をもたれた方にはおすすめする。

いさご波 安住洋子 著(新潮社)



ハッピー・リタイヤメント 


財務省に33年間ノンキャリアとして勤めあげた56歳の男。
財務省を退官するやいなや妻からは離婚届を出され、妻と、息子、娘は退職金と預貯金を山分けし、それぞれがバラバラに暮らして行こうとする。
明らかに山分けにしては少ない金額を残され、見事に捨てられた父でもある。

方や陸上自衛隊に37年間勤務。
防衛大学出でなければ、なかなか出世の出来ない世界で、叩き上げでありがら二等陸佐まで昇進したが、一等はかなわず。
カタカナの和製英語は日本語に置き換えてから理解しようとし、56歳になるまでにマクドナルドも一度も食したことが無いという現代日本人を超越したような稀有の人。

両者共、退官の後に用意されたのが、全国中小企業振興会(通称JAMS)という財団法人。
ん?そんな団体っていかにも実在しそうな気が・・・。

無一文で起業をする人に銀行は融資などしてくれない。
そんな起業家達にチャンスを与えることを目的として、戦後間も無くのまだマッカーサーの統治時代に設立されたのがこの団体。
無担保無保証の人の保証人にこの団体がなってあげる。
返済不能となれば、銀行はこのJAMSから取り立てれば良く、貸し手である銀行にリスクは無い。
借りた側はというと返済不履行となってそのまま音沙汰も無いままのケースが多々有り。その中でも二人が配属されたのは、債務保証をしてからほぼ30年近く経過した、紙くず同然の債券の管理場所。
借り手にしても、もはや時効なので、返済の義務は無い。

即ち、彼らに与えられた任務は、『そこで何もしなくて良い』ということだった。

日がな、本を読んでいても良し、居眠りをしても良し、囲碁、将棋をしても良し。
朝・夕の9時5時さえ守ればあとは、昼間中映画館へ行ってても良し。

そこへ来た大抵の人はこの状況を天国と感じる。
何をしていても良く、しかもお給料もちゃんともらえ、さらにそこを退官するせずともしっかりと退職金をもらえる。

皆、どこかを退官して、もはや終わった人たちだ。彼らは口々に言う。これぞハッピーハッピー・リタイヤメント!と

ところがどっこい。
この二人はまだ終わっていなかったのだった。

そこから物語は面白くなる。

久しぶりに会った娘が40万のシャネルのバッグを「タダみたい」とはしゃぐのを聞いて、バカにみがきがかかったと感じる元財務省のノンキャリア。

誠実、実直、朴とつそのものが歩いているような元自衛官。
どちらも味があって浅田氏好みのタイプの二人ならでは、と言ったところだろうか。

さて、天下り、渡り、などともうさんざん報道されたのでそういう言葉を知らない人の方が少ないだろう。

浅田次郎氏はこの天下り人事を全て仕切っている男、言わば悪玉なのだが、その男に発言させることで、この天下りの構造を見事に浮き上がらせている。

終身雇用と言うのは江戸時代から連綿と続いて来た武家の伝統。
終身どころか末代までの雇用を約束している。

方や年功序列と出世主義からなる三角形のピラミッド型の組織体。

終身雇用を維持するのには、入省した時の人数がそっくりそのまま年を取るまで居続ける四角形型の組織となるが、年功序列と出世主義の下では組織は三角形型でなければ機能しない。
そこで四角形でありながら三角形である、という手段を思いついたのだ。

と、とうとうと語るのが、この天下りという方式の素晴らしさ。

このオヤジ、天下りの人事を握ることで、人の心を鷲づかみにするような野郎なのだが、そんな美味しい汁をすすらせるだけじゃなく、組織の外へ出たらまずい行動に出るかもしれない人間などをこういう天下り組織ですっかり骨抜きにしてしまう、などという芸当もやってのけるのだ。

公務員制度改革は現政権の選挙時のマニュフェストの一項目だが、手をこまねいているのか、どうなのか。
小手先はあっても抜本改革を行うようにはとても見えない。

単に天下りを無くす、無くすとは言いながらも結局ピラミッドから溢れた人の受け皿をどうするのか。
そもそもピラミッドじゃなくしてしまうのか。
じゃぁ年功序列はやめないと、それはそれでとんでもない人件費がかかってしまいそうだ。

制度改革を行うのなら、年功序列の廃止は避けては通れないはず。
ところがこの肝心の給与法の改正が進まないばかりか、OBによるあっせんは天下りでは無いなどと屁理屈のような理屈で、天下り根絶どころか、かつての行革推進時より後退している感が拭えないのが現状。

何事も言うは易し。行うは難し。と言うところか。

ハッピー・リタイヤメント 浅田次郎 著(幻冬舎)



嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん 


読み始めて第一感、西尾維新っぽいかな?と思ったがそうでも無かった。

作者があとがきで自ら述べているように、まさに「書き散らし」た言葉遊びのやり取り。作者は山ほど書き散らかしの言葉遊びを溜め込んでいたのではないだろうか。

あらかじめストーリーありきだった様には思えない。
書き散らかしの山から削って、拾ってを繰り返す内に体系だって来たものを後からストーリー的なのものに嵌め込んで行った、その結果の成果物のように思えてしまうのは何故だろう。

物語としてはまりに救いが無い。
あまりにも壊れすぎている。
心が壊れているという表現は語弊を招くだろうか。

とある田舎町で立て続けに発生している連続殺人事件と一つの小学生の失踪事件。
連続殺人の方は単なる殺人ではなく惨殺という言葉を使うような殺人ばかり。
なんの取り柄もない田舎の町が全国区になったのは8年ぶり。

その8年前に発生した誘拐事件の被害者が主人公のみーくんとまーちゃん。
そのまーちゃんが小学生を監禁している。
話はそこからはじまる。

そこからはじまるがストーりーそのものは先に書いたように救いがないのでふれない。

荒っぽい言葉遊びだけに明け暮れている様にも思えるが、存外な面も覗かせる。

例えば、無意識という言葉を作者は「ムイシキ」とカタカナ表記する。
会話ではもちろん感じないが、文章では「無意識に○○をした」と「ムイシキに○○をした」では伝わる語感が違う。
意識が無い状態で行ったのではなく、何気なく行った行為について「無意識」という漢字をあてることを回避しているあたり、案外この作者は言葉表記を大切にしていないように見えて大切にしているのではないかと思わせる。

作者のペンネームも変わっている。入間人間。

作風からしてあの宮崎某が起こした連続幼女誘拐殺人事件の舞台となった入間川をもじったのではないか、などと考えてしまったが、それはおそらく考えすぎなのだろう。