カテゴリー: ア行



聖女の遺骨求む


イギリスすなわちグレートブリテンがイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドからなることはサッカーファンは必ず知っているでしょう。
ワールドカップ予選ではイギリスでは無く各々の四カ国が別の国としてエントリーしていますし。
もちろん、サッカーファンならずともさようなことは承知の事実じゃ。と言われそうですが。

各々四カ国と言ったって、日本の九州や四国や北海道みたいなもんじゃないの、ぐらいに思っていた人は、この本を読めば、そんなものじゃないことが良くわかるだろう。

かつてはヨーロッパ全域に暮らしていたケルト民族。
数々の歴史の中で地方へ散っていくが、ここグレートブリテンにてはアングロサクソンに中心から押しやられ、ウェールズ地方へ移り住んだのだと言われる。

この本の時代背景である12世紀ならば、言語も違えば、民族も異なり、風習も違えば、倫理観も異なる。そこへ入って来て徐々に広がりつつあるのがキリスト教。

中世の教会というもの。
かくの如くに、教会が祭る聖者、もしくは聖女をなんとしてもものにして、教会の権威付けを行いたかったのだろうことが想像できる。

宗教伝播より寧ろ権威付けを目的としていたのかもしれない。

主人公の修道士カドフェルの存在が無ければ、当時の人々は神秘的なことについて聖者や聖女の魂の為せる業と言われれば、そうなのか、といとも容易く信用し、事の本質は明らかにならないままだったのだろうし、そのようなことは歴史の中にはいくらでもあったようにも思えて来る。

またこの本、キリスト教徒にとってはうれしくない、どころか排斥すべき本だったのではないだろうか。もちろん『ダ・ヴィンチ・コード』ほどではないにしろ。
そのような本をキリスト教信者が殆どの国で今から約100年近く前に産まれた世代の作者が書けたものである。

この本のジャンルは一応ミステリという範疇になるのだろうか。
となれば余計にエンディングは書けないが、一般の探偵もののように真犯人がわかったから、真相が究明されてから、といってそれを暴きたてたりはしない。

とてもおしゃれな終わり方をするのである。

聖女の遺骨求む ―修道士カドフェルシリーズ(1) (光文社文庫)



立ち向かう者たち


ショート・ストーリーが八篇。

「立ち向かう者たち」
知能障害のある男の裁判の風景が舞台である。

容疑は女子高校生の背中から火の付いたタバコをポイっと入れた事。
被告はその前にもエスカレーターの前に居た女子高生の足をカッターで傷つけるという事件を起しており、今回の事件はその執行猶予中のこと。

被害者の父である主人公は裁判所に呼び出される前から、そんな大したことなのか、という思いがありながらも妻と娘の前では言い出せず、証言台でもそういう場面での台本どおり、
「娘のショックなどを目の当たりにすると・・・・
       ・・・・・厳正なるお裁きをお願いしたい」
などという言葉が自然に出てしまう。

そして、自分の語った言葉に「本当か?」「本当に自分はそんなことを考えていたのか」と自問する。

主人公はこの裁判を通して、容疑者と自分を重ねてしまう。
五十前まで生きて来て、ものわかりが良く、腰が低く、怒りがないわけではないが、怒る前に「怒ってもはじまらない」という諦めることが身に付いてしまっている自分を自覚している。

被告は永年勤めた家具工場は倒産し、障害者センターの掃除の仕事をわずか月給800円で行っている。時給でも日給でもなく、月給が800円。バングラディシュだってそこまで賃金が低いことはないだろう。

被告は何故そこに自分が居るのかさえ明確には理解していないのだろう。
全て人からこう言え、ああ言え、と言われたことを自分なりに理解したつもりで応えている。

このストーリーのタイトルが何故「立ち向かう者たち」なのか、読者はなかなか理解に苦しむところだろう。

その答えは「相手が若い女性でなく、男性だったらそれは悪いことだと思っていますか?」に対する被告の応えに表れる。

被告は、不公正な世の中で、存在を全て自分で引き受け、他人のせいにするでもなく、ただ淡々と自分なりのやり方で、過酷な世界に立ち向かっている・・・。とそう思える主人公は真摯な生き方をして来た人のように思えてならない。
またそれを著す作者も。

何より「生物兵器ってライオン?」と聞く弟を楽しいヤツと思えるこの被告の兄とその家族はつくづく包容力の大きさに人たちなのだろうなぁ。

他の七篇ふれてみようと思ったが、これ以上書くとあまりにも長文になってしまうのでこのあたりで筆をおきます。

立ち向かう者たち 東 直己 著



人間の覚悟


五木寛之の書いた小説に関しては、出版されたものはほとんど読み漁ったと思う。
小説ではそれだけ引き込まれるのだが、どうしてもエッセイに関しては殆ど好きになれなかった。
だからずっと五木寛之の書いたエッセイは避けて来た。
その理由が何だったのか忘れるほどに遠ざけて来た。
今回、手にとってみたくなったのは、一つにはタイトルである。
「覚悟」という言葉が好きなのだ。
また別の理由は五木寛之の年齢に思い至ったからかもしれない。
厚生労働省が命名したところの後期高齢者の範疇に入ってから書いたエッセイだ。
それなりに達観した「覚悟」が読めるに違いない。大いに非常に興味をそそられた。

そして、・・・果たして、もはや達観をはるかに超越していた。

第一章は「地獄の門がいま開く」から始まる。

自殺者が10年連続で3万人を超えた。
秋葉原の無差別殺人。
格差社会。
サブプライム。
教育もダメ。医療もダメ。年金も全てダメ。
果てはスポーツの世界にまで話は及び、相撲界の不祥事、ボクシングの亀田兄弟の記者会見・・いや命に関わる問題だけならまだしも、よくぞまぁそれだけ並べ立てたものだ。そんな分野まで?と思う分野に至るまで悪いニュースのオンパレード。

北京オリンピックで日本の野球の惨敗にはふれても北島康介選手のアテネに続く100M、200M二冠、2連覇達成という偉業にはふれない。ソフトボールの金メダルにもふれない。イチローの活躍にも、日本人宇宙飛行士にも、日本人ノーベル賞受賞者にも目をつぶる。

明るいニュースには全て目をつぶり、悪いニュースばかりをかき集めりゃ、そんなものなのだろう。

それをもって現代を地獄だという。

この平成の世は応仁の乱の前の状態に近いという。

賀茂川の河原に餓死者が積み上げられた時代と同じ貧困だという。

精神的な貧困を言うならどの時代になぞらえようが、それこそ考え方の問題だけなので構わないだろうが、氏は精神問題ではなく現実問題として格差地獄、貧困地獄と言っている。

この国が今現在、飢餓状態だと。
北朝鮮の飢えた人民に対してでは無く、アフリカの飢餓難民に対してでもなく、平成日本に対して五木氏はそう言ってしまう。

貧困な国に自殺者は皆無だというが、五木氏の耳には入らないだろう。

飢餓にあえぐ国民が食品の偽装問題で大騒ぎをするだろうか。

自殺者の多さや無差別殺人をもってして、戦前を通して今が一番命が安くなったと五木氏は言う。
果たしてそうか。

お前の代わりなどいくらでもいるが銃弾の代わりは無いなどといった、たった一つの銃弾より命の安かった時代よりも現代の方が命が安いのか。

国を愛しても国を信用するな。
国は何もしてくれない、と氏は言う。

国に何をしてもらえるかでは無く国に何を出来るかを考えよ、的な発想であれば、ケネディの演説を想起させられるが、国は何もしてくれないと覚悟せよ、ではちょっと意味が違う。

あの阪神大震災の時、テレビであまりにも象徴的に何度も放映されたのは高速道路の寸断。
メディアでは報じられなかったのは画像としてのインパクトが少ないからだろうが、そこらじゅうの道路が至る所で陥没状態になっていたし、北大阪と大阪市内を結ぶ幹線道路の十三大橋などは橋の付け根に軽程度なら充分に落下してしまうほどの大きな亀裂があって、こりゃ道路の復旧だけでも半年ぐらいはかかるんだろうなぁなどと思っていたのだが、何たる復旧の早さだっただろう。十三大橋は三日後には復旧していたし、あちらこちらの道路の陥没も半月も経たない間にどんどん復旧して行った。

あの時につくづく思った。
税金は無駄遣いもされるかもしれないがちゃんと有効にしかも時には極めて迅速に使われるのだなぁと。

五木氏がどれだけの納税者なのかは知らないが、そりゃ高額に納税している人がそれだけの見返りを期待をしたってそんな高額のサービスがバックされるわけはない。
高額納税分を国に期待するな、と言うならわかる。
一般の読者に対して国に一切期待するなと言う。

五木氏は少なくとも一般の読者よりはるかに世界を旅して来たのではないのか。
なら、わかりそうなものではないか。

この国の行政が国民サービスをないがしろにしただけではないことぐらい。
世界の中には首都を一旦出たら至るところ、まるで震災後の陥没みたいな穴ぼこだらけの道がえんえん続く国がそこらじゅうにあることを知っているんじゃないのか。

そんなこんなで現代を悲観的に悲劇的にこれでもか、というほどに悲観し、達観を超えた世界から我々に「覚悟」という言葉を使う。

「覚悟せよ」はいい。
だが、彼が言う覚悟は単なる「アキラメロ」なのだ。
この時代を鬱状態と言うが、自ら過去何度か鬱状態になったという氏はこれを書いている最中も極度の鬱状態だったのではないだろうか。

覚悟の意味は「あきらめる」ことだと断言し、あきらめることこそ良いことなのだ、というのである。

いやはや、なんとも。

覚悟というものは何かを成し遂げる際の決意の時に必要なものなのではないのか。
ただ、「こういう時代なんだ。あきらめろ」というのを覚悟と呼ぶのか。

こんなもの「青春の門」の作者が書くなよ。

戦前氏は朝鮮半島の平壌に住んでいたのだと言う。敗戦の最中、ソ連軍が押し寄せ、居留民はほうほうのていで帰って来た。

その際にソ連兵に接触した居留民は女性を三人ほど差し出さざるを得なかったのだという。その連れて行かれる女性には行く時には皆で拝み倒しておきながら、運よく生きて帰って来ようものなら、感謝はおろかねぎらいの言葉も無く、病気をもらってるかもしれないので近づくな!だったという。

その人間のエゴイズムには吐き気がするが、だから生き残った日本人は悪人なのか。
日本人は悪人だとして女を差し出せと言って、ボロボロにしてしまったソ連人には何故何も言及しないのか。
ソ連人はハナから悪人だから、とはどこにも書いていない。生きている人間は皆悪人だ、と親鸞聖人の言葉はひいているが。

仲間が死んで行く最中を生き残ってしまったことに負い目を感じた人は大勢居たのかもしれない。
だからこそ、逆にその負い目を糧に覚悟を持って復興を成し遂げようとされたのではないのだろうか。当時少年だった五木氏の一世代上の世代の人たちは。

もっと大局から読むべし。というご指摘を頂戴するのは覚悟の上。(あきらめの覚悟じゃないですよ)
しかしながら、どんなに広い心で読んだところで「人間の覚悟」をこんな流されるままにあきらめることと割り切る考えに同調出来る余地はこれっぽっちもない。

もはや運転もままならなくなった自分にあきらめた境地で「人間の覚悟」をあきらめる事だ、などと説いてまわってほしくはない。
自らをあきらめた境地を読者と共有しようとしないで欲しい。

かつて五木寛之の小説に魅了された一読者としてつくづく思うのである。