カテゴリー: ア行



三人姉妹


年の少し離れた二人の姉。
長女は恋愛した相手を選ばず、見合い結婚で田舎のちょっとした企業家の家へ嫁ぎ、
次女は他社からヘッドハンティングをされるほどのかなりやり手のキャリアウーマン。

そして主人公がこの三女。
化粧っけもなくボーイッシュな感じなのだろう。

長女が嫁ぎ先から一人息子を連れて、帰って来るところからはじまるのだが、読み始めて、まず、おそらく退屈な展開になるんじゃないかなぁ、と一瞬頭をよぎったが、なんのことはない。就寝前のわずかな読書時間でそのまま眠ってしまわずに一気に読むことが出来た。
結構、長編だったのに。

主人公の大学を卒業してもまともな職業には就かず、フリーターとしての生き方は、昨今の雇用問題云々が原因では無く、大学時代に所属していた映画研究会というものが影響を与えているのだろう。
昔から演劇部や映研に所属する人間に多く見られるタイプだ。

フリーターとは言え、映画館でのアルバイトなので基本的に好きなことをしながら暮らしているわけだ。

この本、個性的な登場人物は何人か出て来るが、一番光っているのは、長女の嫁ぎ先の妹、所謂小姑と呼ばれる存在の女性。

普段は事務服を着て、地味な存在と思われがちな彼女。
田舎のことなので、人様のうわさ話には事欠かない。
「行かず後家」だとか「色気も可愛げもない」だとか「お洒落もない、愛想もない、かさかさだ」とか、姉の嫁ぎ先の従業員達は平気でくそみそに言う。

ところが、「色気も可愛げもない」のも「お洒落もない」、「愛想もない」も全部彼女の演技だったりして、昼間は敢えてそういう自分を演技しておいて、真夜中になると、ポルシェに乗ってがんがん走りまくる。
同上した主人公に「まるでジェットコースターのようだ」と言わせるほどに凄まじい。
また昼間の事務服の地味さが欠片もなく、行きたいと思ったところまでところまで自由にぶっとばして行く。

一番自由人に見えなかった人の豪放磊落な自由人気質。
この落差が面白い。

このキャラが無ければこの小説も魅力も半減していただろう。

まぁ誰が誰を好きになっただの、別れただの離婚を考えている、だのという些事については特に感想のかけらもないが、この本の舞台装置には映画というものがある。

この映画が、この誰が誰を好きだの、どうのという一番つまらないやり取りの部分をうまく打ち消している。

大学の映研といってもやはり洋画、邦画が主流なんだなぁ。
佐藤忠男という人が書いた『私はなぜアジアの映画を見つづけるか』という本には、アジアの様々な映画が紹介されている。

アジア映画と言えば、香港、韓国あたりしか思い浮かばないだろう。
インドが映画大国であることは良く知られているが、なかなかインド映画を見ることはない。あのモンゴルにだって世界に充分通用する映画作りがなされている。
大学の映研とはそういうマイナーな映画でも研究するのか、と思ったがそうでもないらしい。
まして、これは小説。読者も目にふれることのない映画を背景に書いてもしかたがないか。

この小説のテーマが重たいのか軽いのか、私には判断がつかない。

最近のフリーターや派遣社員の話にありがちな雇用不安や若年者救済的な深刻さはもちろんない。

それでも、考えようによってはそれなりに重いテーマも含んでいるようにも思える。

そんなことは一切お構いなしに、私は軽い読み物として一気読みしてしまいました。

本なんてそんなものでしょう。

軽い気持ちで読むのが、いえ読めるのが一番ですよね。

三人姉妹  大島真寿美 著 (新潮社)



珈琲屋の人々


読み終えた後、なんとなくほのぼのと心があったかくなる話である。

バブル全盛期ではどんなに場末だろうが、金融機関に動かされた地上げ屋が土地を買占めに来たものである。

この物語の舞台となる商店街もバブルの後期に地上げ屋が買い占めようとした場所。
地上げ屋の嫌がらせは嫌がらせの次元を超え、反対派のリーダーだった商店主の高校2年生の娘を集団で暴行して、自殺に追い込んでしまう。
それを吹聴している地上げ屋のリーダーに飛びつき、店の柱に頭をぶつけて死なせてしまった上、殺人罪の懲役を喰らった過去がある珈琲屋のマスター。

弁護士の意見も聞かず、
「本当に殺そうと思った」
「殺意が有った」
「ヤツを殺した事については反省はしない」
を裁判で貫いたため、本来であれば情状酌量の余地が有りとなるところ、そうはならず永い懲役を喰らってしまう。

そんな過去を持つマスターは 「自分は前科者ですから」 と控え目な姿勢を崩さない。

出所してくるマスターと時期を合わせたかの如くに嫁ぎ先から出戻りで帰って来る、幼馴染みの女性。

普段は客の少ないこの珈琲屋に商店街に暮らす人達の問題ごとが持ち込まれる。

それぞれが短編としてまとめっているのだが、この作者の素晴らしいところは、それで結局どうなった、の箇所を書かないところである。
そこから先は、読者のご想像にお任せします、というわけだ。

・クリーニング屋の主人の浮気を知った妻。
その妻が包丁を手にして主人とこの珈琲屋を訪れる。

・生活が苦しく父が自殺を考える父。それを知った娘の女子高生は援交をしてでも家計を助けようとするがやはり出来ない。
その援交を仕切る女子高生にマスターが言葉を投げかける。
前科を持ち、塀の中で人生の一時期を過ごした人間ならではの説得力。

・妻の介護に疲れる年金暮らしも元サラリーマン。
訪問ヘルパーが来る一週間の内の二日だけ、カラオケ仲間と息抜きをする。
そのカラオケグループで知り合ったひとまわり年下の熟女を好きになってしまう。
好きになったとたんに寝たきりの妻に死んで欲しいと思うようになる。
「人を殺すとはどういうことか、教えて下さい」
「人を殺すということは人間以外のものになるということです」
マスターは答える。
さてこの団塊世代の元サラリーマンの下した結論は・・・。

・友人の店で働く、計算高い損得勘定から離れられない店員の女性の話。
    ・
    ・
    ・
それより何より主人公とその主人公を愛する女性との成り行きにしても須く、その先はどうなったの?は常に読者の想像に委ねられる。

読者としてはその先を読みたい反面、これで終わってくれて良かったんだなぁと、納得させられる。

そして、自分は前科者ですから、と言いながらも皆から頼りにさせるこのマスターの暖かさに心打たれる。

この本の帯には「読み終わると、あなたもきっと熱いコーヒーが飲みたくなる・・・。」とある。

ひと昔前の「この映画を見たらあなたもラーメンを食べたくなるでしょう」という伊丹十三監督の映画を思い出してしまうような文字が並んでいるが、あの映画のようなラーメンを極める如くに珈琲を極める話ではない。

居心地のいいのが取り得の商店街の珈琲屋の物語である。

珈琲屋の人々 池永陽 著 双葉社



時空の旭日旗―我ら、未来より


平成の平和日本の海洋調査船が戦前日本にいきなりタイムスリップする。
荒唐無稽な話だろう、などと思いつつもかなり内容に興味はあった。
本の装丁を見て、これはマンガチックな話なのかな?と思ってしまったがさにあらず。

なかなかどうして、これは一つの歴史ものじゃないですか。

タイムスリップした先は、1935年の日本。
まさにこれから戦争への道へまっしぐらと進む最中である。

それをこの海洋調査船の乗組員達は戦争回避への道を探ろうとする。
これはなかなか出来るものじゃないと思われる。が、やってしまう。

真珠湾攻撃直前あたりにタイムスリップしていたら、誰にどんなものを見せようと相手にもされず、即監獄行きだっただろう。

二・二六事変の前年というのもかなり際どいタイミングなのだろうが、最初に出会う人次第ではやはり、怪しい一味として監禁されかねない。

そこはさすがにうまくすり抜けている。
海洋調査船の中に20時間を超える12枚組の昭和史の記録をえんえんと綴ったDVDが有り、乗組員の中に元海上自衛隊員が居たり、戦争オタクが居たり、内視鏡手術などという先端技術を駆使する女外科医が居たり、と未来から来たことを証明するに値する人や物や技術が無ければ、そうそう人はそんな事を信じてはくれないだろう。

一般の平成人がタイムスリップしたところで、何をどう証明出来るのか、携帯電話を持っていたって、肝心の基地局が無ければその未来技術は発揮できない。GPS機能もしかり。ワンセグしかり。せいぜい写メで驚かせるぐらいのことだろうか。
パソコンでインターネットを駆使する人がそこへシフトしたところで、肝心のインターネット網が無い。
また、パソコンをいくら使いこなしたって、それを構成する機器がどの様な仕組みで出来ているのかを理解している人など滅多にいない。
仕組みを説明出来きてこそ、過去の科学者にとっては画期的なものである事を理解させられる。
また過去の歴史を知って居ればこそ、それを改めるべくの忠言も出来る。
日本とアメリカが昔戦争したってーえーウッソー!という平成ヤング達は論外としても、一般人レベルでは結局何も出来ない。

どうもこの海洋調査船にはかなりのエリート集団ばかりが集まっていたということになるのだろう。

1935年と聞いて即座に二・二六事変の前年だと思い当たり、その3年後のノモンハン事件に更に翌年の日独伊三国同盟なんて年表みたいに頭に入っている人達ってどんな人達なんだ。

いすれにしろ、彼らは日本の進むべき進路を変えて行く。
それも最も理想的と思われる進路に。

対中からも撤退し、軍縮を行い、満州と朝鮮半島を独立させる。
これもなかなかにして至難の業だろう。
政治家や軍のトップ連中を納得させる事が出来て彼らの進路を変更出来たとしても、若手将校や国粋主義者とそれを持ち上げるマスコミがおそらく黙っているはずがない。
「この腰抜け外交」と揶揄されるだろう。
中国からの撤退と言って暴走関東軍を押さえ込めるものなのだろうか。
それに中国から撤退する、即ちソ連が南下してくる、そんな時代だったのではないだろうか。

そのあたりも、最善の時期に最善の選択をした、という事で納得しちゃおう。
二・二六を押さえ込んだ事で世論を味方に付け、未来からの技術と史実より内需拡大を図り、油田を掘削し、アメリカがどう出て来ようと困らない社会整備を整えつつある政治に信頼が生まれた、ということで。

彼らのおかげで日本は真珠湾攻撃をしない選択を選ぶのだが、ここからが作者の歴史観だろう。日本がどれだけ譲歩しようと、アメリカは何があっても日本を叩きのめしたかった。結局アメリカからの宣戦布告という形で日米戦争が始まるのである。

ここでも未来からの歴史から学んだ負の教訓より、軍のトップは悉く、戦術変換をしていくわけだが、これらについても緻密な戦史を知らない事には情報は情報にならない。

こういうシュミレーション、いろんな人がやってみればいい。
それぞれの歴史観が表れることだろうと思う。
但し、それは生半可なことではないことは言うまでもない。
作者は楽しみながら書いたとおっしゃるが、それこそとんでもない壮大なことに取り組んでいる。
一旦歩んで来た歴史を横道に逸らせるということは戦史や近代世界史に精通しているだけでは出来る事ではない。
新たな昭和史を描くほどの大事業になってしまう。
エンディングを書く事はご法度だろうが、この一冊ではまだそこまで行き着いてはいない。
読者としてはその先の日本の姿が気になるところである。

現実の日本は、村上兵衛言うところの「国家なき日本」からまだ脱却出来ていない。
占領軍に押し付けられた憲法を戦後60年たってもまだ後生大事にする国である。
一時、自民も民主もかつては改憲を謳いながらも近くある総選挙の争点にすらなっていない。
また逆にGHQの行った様々な改革の中で最も評価されるべきものは農地改革だろう。
世界に冠たる総中流の平等国家もGHQのおかげなのかもしれない。
戦前の日本の姿を引きずった戦後日本の姿とは、どんな姿だったのか。

続編を是非とも読んでみたいものである。

時空の旭日旗 我ら、未来より  安芸一穂 著 (学習研究社)