カテゴリー: ア行



電子の星 池袋ウエストゲートパークIV


「東口ラーメンライン」「ワルツ・フォー・ベビー」「黒いフードの夜」「電子の星」の4篇。

池袋の路上で上野のGボーイズに相当するチームのリーダーが数年前に何者かに殺害され、その真犯人探す被害者の父親。
調べていくうちにだんだんと明らかになっていくそのリーダーの実像・・・「ワルツ・フォー・ベビー」

軍事政権のビルマにあって、アウンサンスーチー側の民主運動に加担したとして投獄された二人の男。
その時の拷問のせいで今だに真っ暗だけはいやだと夜中でも電気をつけないと眠れない。その一人は家族を守るために味方を売って、日本へ逃げて来た。
もう一人はその裏切り行為を許せない、というレベルはとうに過ぎて、単に裏切り行為をばらされたくなかったら、とその子供のあがりまで吸い上げる。
14歳の少年がボロボロになっていくのを見逃せるマコトではない・・・・「黒いフードの夜」

そんじょそこらのMじゃない。人体が損壊されるシーンがそのままショーになり、その残虐ショーのDVDがマニアの間で高値で取引される。
そこまでいったら、趣味とかってレベルじゃないでしょ。
もう完璧に壊れた人たち・・・・「電子の星」

「東口ラーメンライン」
ラーメン屋ってそんなに行列が出来るものなのか?
そういや、東京出張の時に行列の出来ている寿司屋へ連れて行ってもらったことがある。なんで、わざわざ、こんな並んでまで、とこっちは思うのだが、相手の好意だったのでやむを得ない。つきあってみた。
しばらく待たされて、カウンターに通される。
寿司ネタが悪いとか、そんなことはないのだが、いやはやなんとも感じの悪い店なのだった。
こっちは別に食い気だけで店に入ったわけじゃない。
しばし会っていなかった人物と再会すればそれなりに話もしたいところ。
結構注文したにもかかわらず、箸を休めてビールを飲んだだけで、
「食べないならとっとと帰ってよ!」とカウンターの中から声がかかる。
そりゃあれだけ行列が出来てるんだから、腰を落ち着けられたらたまらないのだろう。

行列の出来る店なんて行くもんじゃない。

以前ラーメンに関しては結構、食い歩きをしたことがあるのだが、どうにも人に是非ともとお勧めできるような店には出会えなかった。
あの当時、少しずつ欠点を紹介せよ、と言われたら結構的を得た指摘が出来たかもしれない。
ラーメン屋はやっぱりアルコールを浴びるように飲んだあとの締めくくりが一番。
そんなラーメン屋ならいくらでも知っている。

そんなこんなで、元Gボーイズのお二人のラーメン屋さんの店に行列が出来るのは多いに結構なことだが、私は行列の出来る店にはたぶん行かない。
だから美味いラーメン屋に出会えなかったのかもしれないが・・・。

電子の星 池袋ウエストゲートパークIV IWGP 石田衣良著



骨音 池袋ウエストゲートパークⅢ


●骨音

骨音って、こんな発想はどこからきたんだろう。

動物の骨から打楽器を作るなんていうことは古代から行われていたことらしいし、今でも現存しているものもある。

有名どころではキューバの打楽器「キハーダ」。
馬やロバの下顎の骨から作られるということで有名だ。
近頃ではネットでも買えるようになったらしい。

中国の自治区の一つの広西自治区。
そこに住むチワン族には古くから「馬骨胡」という琴のような楽器を奏でる。
これは馬の大腿骨を使っている。

モンゴルみやげで有名な「馬頭琴」。
みやげにしてはかさ張るから結局は買うのをあきらめたりする。
これも少し前までは馬の骨で作られていたと言われる。
現在売られているものは木製しかないだろうが。

やはり骨ならではの音というものがあるのだろうか。
まさに骨の髄までしみ込んで来る、というような音なんだろうか。

モンゴルの「馬頭琴」の場合は音のためというよりも愛馬を偲ぶ意味でその骨を楽器にまでして身近に置きたかったという意味の方が強いらしいが。

全国、至る所で中高生達がホームレス狩りを行っているのだという。

彼らはホームレスの連中なら税金も払ってないし、臭いから狩っても罪にもならないだろう、などと言う刷り込みでもされて来たのだろうか。

近所の河川敷で見かけるのはホームレスというよりこれは立地条件抜群の立派なホームじゃないのか?と思えるようなもの。
自転車が鎖につながれていて洗濯物も干してあって入り口には「入るな!」「覗くな!」の張り紙看板などもあったりして・・・
こういうのは特別なのだろうな。

余談となったが、ホームレスだから骨ぐらい折ったところで構わないだろう、という発想よりも人の骨をバキっとなるぐらいにまで折ってまでして収録した音が人をそんなに熱狂させる音楽に使用される、っていう発想、その思いつきそのものにまず驚いてしまう。

ネタばれのようなことを書いているように思われるかもしれないが、そんなこともないだろう。コンサート会場のシーンあたりで大抵の人はこのタイトルと考え合わせれば、ホームレス骨折り犯人が誰かなんて、想像ついてしまうだろうし、また作者もそのつもりで書いているんだろうから。

●キミドリの神様

もう一つ、これはなかなかの面白い発想だなぁ、と思ったのが「キミドリの神様」のローカル紙幣。

そもそも貨幣が誕生したのは商の時代で、物々交換の煩わしさを貝がらを貨幣としての物との交換価値のあるものとして普及させたところからはじまる、と中国古代史を描く宮城谷氏が書いていた。

貝がらが貨幣なら海沿いの人々はぼろ儲けじゃないのか、という疑問が湧いてくるなぁ。
宮城谷さんはそこをどう説明していたっけ。

それはこういう出来立ての紙幣だって同じ事が言えるだろう。

物と交換するに値すると誰しもが判断ようになりさえすれば、それは貨幣・紙幣として成立してしまう。
紙幣を流通させる、つまり価値を認めさせるまでがいけば発行元は大勝利。ぼろ儲け間違いなしだ。
国が発行元でない紙幣なんて世界中にあるだろうか。
買い物をした時についてくるポイントなんかは商品に代わる価値はあってもその店限定だろうし。

喫茶店へ行ってそのローカル紙幣でお勘定ができる。
雑貨屋へ行ってそのローカル紙幣で買い物ができる。
もちろん、お金ではないので消費税は無し?
小売店も円貨の収入でも外貨の収入でもないので、所得にはあたらないから所得税もない、ということになるのだろうか。
いやいや、国税当局はそんな甘くはないだろう。
そもそも金券ショップやそこらで円に交換できてしまうのがよろしくない。
果物屋でりんご一個をこの紙と交換した。それだけなら物々交換をした、つまりりんご1個は売上につなげられなかったわけだ。
とはいえ小売店はただで物を配っているわけじゃない。交換した紙はお金としての資産価値のあるもの。
だとしたら売上の代金回収を債券で回収した様な扱いとなるのだろうか。

いずれにしても税金対策には利用できないだろうし、この主催者はそんなことを目的としていたわけではない。
弱者救済などというときれい事の様に聞こえるが、働きたくても仕事がない、お金のない貧しい若者がボランティアへ参加した時の対価(報酬)としてこのローカル紙幣を受け取る。

金はないが、そのローカル紙幣でメシが食える。服が買える。
金なんてなくても豊かな生活がおくれるじゃないか。

そういう主催者の発想、つまりは作者の思いつくところがなかなかにしておもしろい。

他に「西一番街テイクアウト」、「西口ミッドサマー狂乱」など四篇が収められている。

「IWGP」(池袋ウエストゲートパーク)のシリーズものとしては、レイヴと呼ばれる参加者が一晩中踊りまくる音楽イベントとドラッグを扱った「西口ミッドサマー狂乱」なんかが、メインなのかもしれない。

それでも発想のおもしろさから上記二編を取り上げてみた。

骨音―池袋ウエストゲートパーク<3>  IWGP:池袋ウエストゲートパーク:池袋西口公園シリーズ  石田 衣良 (イシダ イラ) 著” width=”100″ height=”100″></p>
      </div><!--/.entry-->
					   			<div class=



ZERO


1920年、ソ連の建国を受けての共産主義の台頭に危機感を持った当時の日本政府は内務省に警保局保安課を設置。
更にその内部に組織図に載らない組織、<作業>と命名された機関を設けた。
そこは協力者獲得工作、盗聴、文書開被、家宅侵入・・・いわゆるスパイ活動を行う組織である。

戦後、GHQにより警保局が解体される事で自動的に消滅したはずの組織なのだが、ソ連が脅威を増すとともに再び暗号名<サクラ>として復活。
千代田区に移転した際にも<チヨダ>と暗号名を改称して存続。
そして現在更に改称されて<ZERO>という暗号名で存続し、全国公安警察の頂点に位置する存在なのだという。
警察の中でも、その名前を口にすることすら許されない組織の名前。
それが<ZERO>。

もちろん、これは小説であるから架空のものなのだろう。
だが麻生氏の書いたものには結構実在する組織の名前がそのままの名前で登場したりする。
警察の組織や自衛隊の組織の名前など。
特に警察の内部でだけ使われるような専門用語、符丁、自衛隊内部からの情報が無ければ到底知りえないだろうと思える様な専門知識、などなどを鑑みるにつけ、麻生氏の書き物にはどこまでが作った話でどこまでが事実を引用した話なのか、判断に悩むところがある。

とはいえ、本のタイトルはその「ZERO」なのだが、「ZERO」という機関が活躍する話ではない。
活躍するのは「警視庁公安部外事第2課」というおそらく実在する組織の中の一警察官である。

日本はスパイ天国だとか、他国の諜報機関に国家の機密事項をいとも容易く垂れ流してしまう国だとか、言われ続けて久しい。
自衛隊からの漏洩。企業からの漏洩。
それどころか国のTOPである首相経験者が某国諜報部から女性をあてがわれて無償ODAを約束してしまったりなど。
あまりにも機密漏洩ということに関して無頓着でありすぎる。
逆に外国に対する諜報活動となればCIAもKGBも持たない日本は、その方面では全く機能していないように思われているが、どうもそうも言い切れないらしい。
情報協力者の獲得工作など実際に行われているのかもしれない。

公安部外事第2課の峰岸というベテラン警察官、こういう職人の様な警察官は警察の各部署にちゃんとまだ居るのだろう。
家庭などはなから犠牲にしなければ到底そこまでの任務は行えないだろう。
彼らは一体、誰のためにそこまで、と思えるほどに仕事に献身的なのである。

最近、日本の警察の能力が低下したという類の批判に対しても彼らの様な職人警察官ならいくらでも言い返したいところだろう。

この峰岸という警察官、あろうことか中国への潜入を行うはめになってしまう。
ここでも、一体誰のためにそこまで、なのである。国のため?いやそんな単純じゃない。北による拉致事件、発生から何十年と「そんな事実はない」と相手の言う言葉を鸚鵡返しにしてきたのがこの国である。

峰岸が彼の地で捕まれば、日本は平気で見捨てるだろう。
そんな人間は現職の日本の警官には存在しない、と。
実際に峰岸は行動を起こす前に一旦、辞表まで書いて警察手帳なしの立場で潜入しようとする。
まさに自殺行為そのものだろう。

この物語の壮絶なところは、そういう日本の体質だけを浮き彫りにするのではなく、中国における権力闘争とはいかなるものか、という点を執拗に言及しているところだろうか。
12億~13億の人民の頂点に君臨する共産党の各勢力の権力へのしのぎ合い、その凄まじいさたるもの世界一ではないだろうか。

この話、麻生幾の前作「宣戦布告」よりもはるかに救いがある。

「宣戦布告」では自衛隊の投入に関しても散々すったもんだをし、結局被害者が出て来て止む無くその決定に至るまでの官邸の姿勢はぶざまとしか言い様がないものがあったが、この物語の中ではまさに国の命令にて死地へ赴き、窮地に立つ警察官を国家は見捨てるのか?
の問いに対して、「救出する」を選択するのだ。

日本の自衛隊に課された宿命(決してこちらから発砲してはならない)は陸上自衛隊のみならず海上自衛隊にも適用される。
潜水艦員などに魚雷を発射されるまで何も出来ないなどと言う事は魚雷来たら、潔く死ね、と言っている事に等しい。

この救出の任にあたった潜水艦の館長は「死」を決意して任務に取り組む。
日本の水域内に出没する北の潜水艦を追いかけるのとはわけが違う。

全くその逆で相手の水域へ侵入して来なければならないのだ。
潜水艦の中では何一つのミスも許されない。
命がけの緊迫感、臨場感が伝わって来る。

この国家の危うさ、情けなさに対して警笛を鳴らす書き物をする麻生氏が何故、今回は「救出する」筋書きを選択したのだろうか。

やはり、そうであって欲しいという願いからなのだろう。

ZERO 麻生幾(著) 上・下巻