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野いばら


この本、第3回日経小説大賞受賞作なのだそうだ。
日経の選ぶ小説大賞ってビジネスものだとばっかり思っていたが、そういうものでもないらしい。

イングランドの田舎道を車で走っていて車が故障。偶然に出会ったご婦人に救われる。
そのご婦人の家に有った「日本人に読んでもらうように」と託されたとある手記。

その手記そのものがこの小説の本編である。
時は今から150年前。
生麦事件が起こった直後に日本に赴任する英国人士官がこの手記を書き、またこの話の主人公でもある。

主人公氏は香港の駐在から日本へと渡り、日本語を学ぼうとする。

生麦事件と言えば、島津の御老公の行列に乗馬のまま突っ込んだ英国人を薩摩武士が叩き切った事件で、英国側は野蛮な行為としてずいぶん非難をしたように思われがちだが、英国人にしても、実際には馬で乗り入れた方が礼儀知らずだと思っていたりする。

この本、英国人の視点から書かれているが、作者は日本人。
どこまで当時の英国人の気持ちが反映されているのかはわからないが、案外アーネスト・サトウあたりならこんな感じ方だったのかもしれない。

この物語、英国人と彼に日本語を教えることとなった美しい日本の女性とのロマンス物語のように読まれてしまうのだろうが、それはそれで本編の筋。作者が本当に書きたかったのは、この英国人主人公の感じる当時の日本という国なのではないのだろうか。

主人公氏は日本へ来て、これまでみてきたアジアの人たちの中で最も誇り高き、礼儀正しい民族に巡り合う。
自身も礼儀を重んじ、日本人と同様に深ぶかをお辞儀をする。

花屋が運んで来る花の中には英国人士官の彼でさえ、買うのに逡巡してしまうような豪華で高価な菊の花などもある。
花というもの、一時の命のものである。どれだけ美しかろうと、宝石のようにまた換金できるようなものでもない。
そういう花に、これだけの高価な値段が付き、それを勝って行く人がいる。
それは、今の言葉で言うところのGDPだとかそんなものではとても言い表せない、民度の高さ。真の豊かさを持っているということだ。

生麦事件を受けての英国本国よりの命令はなかなか届かないが、主人公氏はその命令が戦であろうと賠償要求であろうと、日本がどう出てくるのか、その情報収集をするのが彼の役割。

もとより、海上から大砲をぶっ放す程度の脅しをかけるぐらいしか手段がないことは、彼はかなり早い段階で気が付いている。
本気でこの国と陸戦など交えようものなら、いくら火器をそろえたとしても、責める側には多大な犠牲者が出るだけ。この国は決して屈服などしない。

開国を求め、もはや国を閉じている場合でもないと江戸政府は思ったかもしれないが、この美しく、豊かで、文化レベルが最高峰の国に欧米の文化などが果たして必要なのだろうか。
そんなことを考えながら、本編はすすんで行く。

こういう当時の英国人が感じた日本というのが、この本の本当のテーマなのではないかと思っている。

当時の誇りは今いずこ。世界で最も誇り薄き国と今や思われつつある平成の今。
我々はため息をつきながら、せいぜい野いばらをめでることで当時の人たちと意識を共有するぐらいのことしかないのだろう。

野いばら 梶村啓二著 第3回日経小説大賞受賞(日本経済新聞出版社)



蕩尽王、パリをゆく ― 薩摩治郎八伝


大富豪が散財の限りをつくし、現在の貨幣価値にして800億とも言われる金を放蕩で使いつくしてしまう。
明治~昭和のノンフクション。

なんだか途轍もない豪快な逸話の数々を期待してしまう。

タイタニック号を借り切ってみたり、全世界の映画スターと豪遊してみたり、オリンピックの金メダリストを集めて自分だけのオリンピックを開催したり・・・なんて途轍もない逸話が書かれているわけではない。

治郎八氏は芸術を愛する人でありながら、決してコレクターにはならなかった。
コレクターとして収集するのにお金を使うのではなく、寧ろ芸術家のパトロン、良き理解者としての散財をする。

明治から大正という時代、第一次大戦を経て、空前の好景気を甘受した日本人は多かっただろう。

今のお金にして800億というのはとんでもない巨額だが、平成の今でさえ100億という巨額をバクチにつぎ込んでしまう人がいるぐらいだ。
当時の貨幣価値をどういう基準で現在の価値に結びつけたのかは知らないが、その当時の大金持ちなら、もっと桁違いの金遣いをしていた人が居てもおかしくはない。

コレクターとしてもっと金を使った人もいりゃ、本業を維持しながらも豪快に金を使った人もいる。

本の冒頭では、治郎八氏は放蕩で全てを使い切ってしまうところが素晴らしい、とそのあとの展開にかなり期待をさせてくれる。

ところが、寧ろ、豪快な逸話がありながらも極めて記述の仕方は地味なのだ。

それどころか、この筆者はやはり学者なんだなぁ、と思ってしまう。

本人の書いた手記にアラビアのロレンスと会ったことや、コナン・ドイルと会ったこと、フランスの外人部隊に入隊したことなどが、事実だったかどうか、その年号や妥当性の検証やら傍証にかなりの枚数を割いている。

史実探究の推理の過程を楽しむ人にはおもしろいのかもしれないが、初めて薩摩治郎八なる人物にお目にかかった読者がそこまで治郎八オタクになるには、少々関門が高過ぎる。

放蕩で全てを使い切ってしまう、というよりも昭和の戦争で日本人が皆、何もかも失ったのと同様に、金の出どころの実家が傾いてしまった。
日本人が皆一文無しからの出直し。
放蕩で使い切ったというのは、ちょっと意味が違うかもしれない。

それでもまぁ、いずれにしろ、若い頃からとんでもない金を自分のやりたいことのために自由に使いまくったわけだ。

当然、我が人生に悔い無しだろう。

蕩尽王、パリをゆく―薩摩治郎八伝― 鹿島茂/著 金は使うためにある! 大富豪の華麗にして波乱万丈の生涯。 新潮社



シャンタラム(上)


上・中・下の三巻からなる大作。

インドを知るには上巻だけでももう充分でしょう。

自国で強盗事件の後、拘留。
そこを脱獄してインドへ。
そしてインドのスラムで暮し・・・

著者の略歴を見る限り、この本限りなくノンフィクションに近いものと思われる。

ボンベイ(現在のムンバイ)へ行くバスの中で知り合ったカナダ人のインド旅行慣れした二人の青年。
彼らは途中に並ぶスラム街を見て汚いでしょう、と口を揃えるが、主人公氏はバスが停止した時にそのスラムの家の中を観察している。
チリ一つ落ちていない。食器は整然と並んでいる。
家の中は極めて清潔なのだ、と。
その時から、主人公氏はスラムに住む資格を持っていた、ということなのかもしれない。

主人公氏は自らを犯罪者、逃亡者と言いながらも、すべからく素直なのである。
バスを降りた途端に群がって来る、ガイド希望者達。
旅慣れた人はさっさと無視してしまうのだが、主人公氏はその笑顔が気に入ったとその中の一人を雇い入れる。
また、自らの名前もそのガイドから「リン」の方が良いと言われ、そのままリンと呼ばせてしまう。

何から何まで、これまでの常識と思っていたことが覆される、目からウロコの小説(自伝か?)なのだ。
スラムの中では一切盗難は起きない。
そう、外からかっぱらって来たとしても内部では絶対に盗んだりしない。
たまに飼っている猿が手くせで人のものを持ってこようものなら、これどなたかのものです、と台の上に並べていて持ち主が現れるのを待っていたりする。
いさかい、けんか、もめごとがあれば、スラムというコミュニティの長が表れて、まさに八方がまるく収まる解決策を呈示し、皆はそれに従う。
ボンベイのスラムにはいろんな地域の人々が集まり、その宗教もヒンズーもあれば、イスラムもある。
そんな宗教上のトラブルなど、血をみない限り解決策はなかろうと思ってしまうのだが、その長は見事にいさかいをストップさせるのだ。
そして、スラムの中で困っている者が居れば皆で助け合う。
なかなかにして、すばらしいコミュニティなのだ。

まさにそのスラムのありようは「貧しいこと即ち不幸とは違う」を見せつける。

その言葉は昭和の貧しかった時代を懐かしむ年代層が言いそうだが、ちょっと意味が違う。
方や高度成長で未来に夢を見る人々だが、スラムの人々は未来に夢を見ているわけではない。

主人公のリンはボンベイから何十キロか何百キロか離れた電気も無い村へ一週間の滞在のつもりで赴くが、そこでも何ヶ月と住んで溶け込んでしまう。
貧しい村だが、ここの人々も未来を夢見てはいない。
それどころか、何百年、ひょっとしたら何千年と同じ暮らしを続けて来て、今後もずっと変わらないと思っている。
つまり未来もまた現在の延長でしかなく、これから変わるなどとこれっぽっちも思ってやしない。

インドをはじめ世界の貧困の凄まじさを書いた本はあまたある。
また、いろいろな旅行記もあるが、インドをこれほど深く知った人の本は無いだろう。
もう、これを読んだら他のインド旅行記など読めたもんじゃない。

インドでの子供の人身売買。
人身売買をするだけではなく、買ってきた子供をかたわにして、足を引きづらせたり、片手の不自由な身体にして、乞食として稼がせ、その上前をはねる商売がある。
そういうものを書いている本、いや書き手だけじゃなく読み手も、到底「人間のすることじゃない」と思ったことだろう。
それがごくごく一般の見かたというものだろう。

だが、この本は違う。
そうやって、買われて行った子供の方がまだ幸せで親も安心しているのだ、などというのだ。
そう買われなかった子供はそのまま飢えて死ぬしかないから、乞食としてでも買われた方がマシで買った大人に皆感謝しているんだ、とその商売をリンに見せるインド人は言う。
まさにこれまでの常識の正反対じゃないか。

主人公のリンはなんでも素直に受け入れる。その性格の良さがインドの人達にまた好かれる。
なんでも素直に受け入れるのは、もうどこへも逃げ場が無くなったから、とも読めるが、実際に素直な性格、そのガイドに言わせると「良い心を持っている」から。
まさにそうなのだろう。

冒頭のインド通のカナダ人旅行客は初っ端の宿泊費、三人で米ドルにして6ドル、これをして4ドルにまでまけさせられたのに・・という。

三人泊まって6ドル。もう充分に安いじゃないか。
これを三人であと2ドルばかり値切ったところで、その金にどんな使い道があるというのか。

リンは値切らない。
その2ドルを値切ることが宿泊施設の人たちの晩メシを削っているかもしれないと思ってしまうからだ。

インドの人は、ヒンディー語やウルドゥー語はもとより、自分のふるさとの言葉、ボンベイに出て来る人にはマラーティー語をふるさとの言葉として持つ人たちが多いが、そんなふるさとの言葉を覚えて話してくれる外国人が居たら、とたんに好きになる。
そして彼らは一旦好きになってしまうと、あふれんばかりの、見返りを要求しない愛で包んでくれるのだ。

「シャンタラム」。これはリンがインドの田舎で暮らしていたときに、そこでもっとも尊敬されている女性から与えられた名前だ。意味は「神の平和のひと」。

一年の間に何度も何度もインドを訪れるインド通と呼ばれる人たちがいる。
彼らの自慢はどれだけ安く旅が出来たか、であり、インドをいかに良く知っているか、なのだろう。

そんなインド通の彼らにさえ、インドの人々は、通り一辺の外国旅行者向けの一面しか見せていないのだ。

シャンタラム〈上〉 (新潮文庫)作者: グレゴリー・デイヴィッドロバーツ Gregory David Roberts 田口俊樹訳