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ロンドン・ブールヴァード


イギリス版のハードボイルド小説である。

3年の刑期というお勤めを終えて出所してきた主人公。

昔の仲間がちゃんとお迎えの車が来て、その仲間の属するギャングの集団の仕事の手伝いを始める。

その一方で、チンピラに絡まれていた女性を助けたことがきっかけで、その女性から紹介された、イギリスのかつての大女優の家の修理やら壁のペンキ塗りやらの仕事、所謂正業にもありつくことが出来るようになる。

今となってはおそらく60歳を過ぎた元女優でしかないのだが、本人はまだまだ現役に復帰出来ると信じている。

そして、歳をとっているのにも関わらず、妖艶で出所したての主人公を興奮させるには充分な色気を持っている。

そうこうするうちに仲間が属するギャング集団のボスの目に彼がとまり、大事な仕事を任せるが、どうかと打診を受け、元大女優の仕事をとるか、ギャングの幹部の仕事を選ぶのか・・・。

そのどちらかを選んだことでこの物語は、エンディングの後に主人公氏がさぞやこれから大変な思いをするのだろうな、と想像させるところで終わっている。

これを読んでいて思うのだが、イギリスの刑務所というところ、かなりおそろしい場所のようだ。
命がけの根性が無ければ生き残れない。
日本の刑務所はどうだろうか。
かつて安部譲二氏が塀の中の話をいくつか書いていた中に先に出所するやつに家族の居場所や情報などを絶対に教えてはいけない、というものがあった。
やはり、それなりのノウハウは必要なようだ。
そういえばホリエモン氏はどうしているのだろう。
今頃、塀の中なのではないだろうか、それとももう外へ出たのかな?
ノウハウ無しでも無事に過ごせたのだろうか。

いずれにしろ、何某かのノウハウが必要だと言ったろころで、中で自殺に追い込まれたり、などの命をめぐっての 切った張ったは日本の塀の中ではまずないだろう。
まぁ、日本の刑務所が例外で世界ではおそろしい刑務所がやまほどあるのだろう。

この小説、映画化されたらしい。

翻訳本としてだからか、伝わりづらい雰囲気の場面がいたるところにあるが、映画でならその雰囲気は伝わったことだろう。
今度、折りを見てDVDでも借りてきてみよう。

ロンドン・ブールヴァード (新潮文庫) ケン ブルーエン (著) Ken Bruen (原著) 鈴木 恵 (翻訳)



ディアスポラ


「ディアスポラ」、「水のゆくえ」の二編が収録されている。

いずれも日本で途轍もないどでかい原発事故が発生して、日本から日本人が逃避する世界を描いている。

福島第一原発から半径20キロ、30キロと何キロと同心円を描いて、その中は真っ赤な色で警戒区域だとか計画的批難区域だとか、っていう地図をニュースで何度見たことだろう。
あろうことか、日本列島そのもの全部がその同心円の真ん中の真っ赤な区域になった、という設定なのだ。

日本列島全部って、沖縄まで入れたて同心円を描いたら、それこそ朝鮮半島はもちろん、中国沿岸部の一部やひょっとしたらロシアの一部もその円の中に含まれるんじゃないのか。

そもそもあの原発事故以降、日本の作家という職業の人がニュース番組のコメンテーターにでも登場するや必ずと言っていいほどに、反原発を訴え、アナウンサーもそれにうなずく。

反原発というよりも将来的には脱原発で、という方向性はおそらく日本人の総意に近いだろう。
それでも、目下をどうするのか。
検査のために一時停止したものを検査を終えた後に元通り動かさせない、というのは一体どんな理屈からなのかさっぱりわからない。
徐々に減らして行くなり、発送電を分離したり、代替エネルギーを開発推進したり、ということに反対な人など電力会社の社員でもない限りはそうそういない。

それでも尚且つあの検査一時停止=再稼働はダメの理屈はわからない。
あの管と海江田が浜岡停止を高らかに宣言した事にこれほどに踊らされなければならないものなのだろうか。
停止させたって燃料棒はこれまで通り冷やし続けなければならないだろうし、停止即ち危険が去ったわけでも無かろうに。
それにエネルギーの安定供給が保障されない状態では優良な製造企業の海外逃避にますます拍車がかかり、最終的に日本に残るのは補助金で食い繋ぐようなところだけになってしまいかねない。

勝谷誠彦という人を作家の一人と思ったことはかつて一回も無かった。
なんでもテレビで引っ張りだこらしいのだが、私は日曜日の午後に首都圏以外で放映される「なんでも言って委員会」という番組でしかみたことがない。
まぁ、あの番組だけでも充分に個性は伝わっているとは思うが・・。
それでも「反原発」という旗を鮮明にしていたかどうか、あまり記憶の中には残っていない。

こんな設定の本を書いて出す以上、かなり熱烈な反原発の闘士じゃないか。
あの番組では三宅久之氏の発言が最も強いので、「先はどうあれ当面動かさなきゃ仕方がが無いじゃないか」という三宅氏を恐れて爪を隠していたのか。
官僚や東電の事を糞みそに言うのは何度も聞いたことがあるし、俗称「オーランチキチキ」のオーランチオキトリウムを!と訴えるのも何度も拝見したが、三宅氏の当面仕方ないじゃないか、に噛み付く姿は見たことがなかった。

勝谷のやろう、変な終わり方したら本を叩きつけてやる。
などと過激な思いで読み進めて行ったわけだが、結論から言うと実は思いは変わった。
「反原発」などはテーマでもなんでもなかった。
原発事故は単なる設定でしかなかった。

日本からの避難民は世界各国へ散る。
「ディアスポラ」はその避難民の一部がチベットへと移され、そこで中国の人民軍の監視の元、避難生活を送る。

あまりにもチベットの様子に詳しい。
これは本来チベットの事を書くつもりで取材をしたに違いない。
それこそチベットを舞台とした物語はほぼ書き終えていたのではないか、そこへ来てあの3.11が起き、原発事故が起きて急遽失われつつあるチベットに日本民族を重ねてみようとしたのではないか、などと思っていた。

もう方やの「水のゆくえ」も酒造りのことを徹底的に取材していなければ書けないシロモノで、醸造会社にでも勤めていたのではないか、と思うほどに酒造りの詳細が書かれている。
その造り酒屋がダム建設でいじれは立ち退かなければならなくなった時に知事が代わった。
その知事を流れる水のようだ、とたとえれれている。
この流れる水の知事はかつての長野県知事の田中康夫氏を頭においているのでは?そういえば勝谷氏が田中康夫氏の応援演説をする姿を何かで見たことがある。

酒造りという柱を元にかなり書きあがっていたのではないか、そこへ八ッ場ダムの建設から建設中止へ・・そしてという紆余欲説を織り交ぜようとしたのではないか、ところがそうこうするうちに起きたあの原発事故。ダムの建設中止のあとに発生する日本全体を覆う原発事故。
誰も居なくなったところで杜氏と二人で誰も飲まないだろう酒を造り続ける。

そんな展開で出来た本ではなかろうかなどと想像を巡らせながら読み進んで行った。

まさか、だった。

巻末を見るまで気がつかなかった。

この本、初出誌はなんと2001年と2002年なのだ。
10年前に書かれていた。

雑誌に掲載されていたのだった。本としての出版は2011年8月だが、「文学界」という雑誌に載っていたのだった。

一旦発表したものを若干の表現を直すことはあってもあらすじを直すわけがない。

ディアスポラとはユダヤ国民がローマ軍に滅ぼされてからの民族離散のことを言うのだという。
彼らユダヤ人たちには、離散しても自分たちはユダヤ民族であるというアイデンティティの根幹を成すものが有った。
日本民族に果たしてそれがあるのだろうか。
日本民族と言ったって列島で同一民族が暮らしているだけではないのか。
離散したあとの日本民族にとっての日本民族たるアイデンティティは何か。

それがこの「ディアスポラ」のテーマである。

あのチベット問題を北京オリンピックの聖火リレー前に取り上げていた人はそんなに居ないだろう。
ましてや原発事故による避難民を10年前に取り上げて、小説にしている人などそうそういない。

事故前に書かれたのか、事故後に書かれたのかがそんなに大事か、と聞かれれば、そりゃ違うだろう。
あの事故後にいくらテーマは実は別のものだ、と言ったところで、あえてこの設定で書く行為そのものに嫌悪感が走っていたかもしれないのだ。

いやぁ、上でぼろくそに書きかけてしまってなんなのですが、勝谷さん、なかなかやりますねぇ。
見直しましたよ。
ってそれもなんか上からっぽい言い方ですね。失礼しました。
ぞれにしても、もっと早くに出来れば事故前に単行本化してりゃ良かったのに・・。
それこそ大評判で売れまくっていたんじゃないでだろうか。

いや、このままでも充分にこの本、売れまくっているか。

『ディアスポラ』勝谷誠彦 著 文藝春秋刊



同期


そもそものはじまりは一件の殺人事件から。
被害者が組関係者だったことから、敵対する組が抗争を仕掛けたとして敵対する組へガサを入れる。
そのガサ入れの最中に逃げ出した組員が次の標的となり、2つの組からそれぞれ死者が出たことで、捜査本部は組対組の抗争事件として進めようとする。

捜査一課から駆り出された刑事達は、組織犯罪対策部(略して組対)の使いっ走りをさせられながら、抗争事件としてはどうも様子が違うのではないか、と思い始める。
ところが、抗争事件にしてはいくらおかしなところが出て来ようとも、捜査本部は頑としてその捜査方針を曲げようとしない。

そんな矢先に捜査一課の主人公の同期で現公安所属の刑事が突然、懲戒免職になってしまう。
その同期を探そうとすると、かなり上の方からの圧力がかかる。

その圧力をかけたのはZEROだという。

ZEROという組織は公安の中で最もシークレットな部隊で、諜報防諜などの任務を行う組織として、かつて麻生幾の小説でその実態が細かく紹介されていた。

同期の男に何があったのか、主人公はやっきになって探しまわり、自らの危険も顧みず・・・と、話は展開していくわけだが・・・。
その理由は?と聞かれると、

「同期だから」

同期ってそんなに珍しいものなのか。

全国に警察官と呼ばれる人、何万人といるのだろうから、同期だけだって何千人規模だろう。
そんな規模の組織で同期だからどうの、なんていうのは、成人の日に同じ会場に来た連中全て同期だから、というようなものではないのか。

それとも、昔の軍隊同様に上下関係の厳しい組織だから「俺、お前」で呼び合える同期というのは特別な存在なのだということだろうか。

いずれにしても捜査本部を立ち上げておいて、某大な費用をかけて、所轄を含めれば、かなりの大所帯の人手を割いておきながら、その人達に間違っていることが分かり切っている情報を与え、偽りの捜査をさせる、なんて無駄なことをするだろうか。

捜査員達がそれを知った途端、その担当の人達はおろか全国の警察組織の士気は二度と上がらなくなってしまうのではないか、などと心配してしまうのである。

そんな筋立てが安易なこと、それにあまりにもあからさまにZEROの存在が出てしまうあたり、麻生幾の作品とはだいぶん違う。

それでも、政治家さえおびえるという、戦後右翼の大物が出て来たり・・・と、軽い読み物(作者の意図とは違うかもしれないが) としてはなかなかに読ませてくれる。

同期 今野 敏(コンノビン) 著