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ダークゾーン


勝負師の中でも最も過酷と言われる日本将棋連盟の奨励会の三段リーグ。
四段のプロ棋士への道は狭き門で年を経る毎に状況は悪くなって行く。
そんな狭き門を目指す三段棋士が主人公。

その三段棋士がいつの間にかワープしてしまった先が、ダークゾーンと呼ばれる仮想空間のような世界。
人間がゲームの駒のようになっての戦いが繰り広げられる。

主人公は自らがキングという駒となって、味方に指示を出す立場なのだが、状況がなかなか飲み込めない。
とにかく戦うことに決まっているらしく、その戦いで四回負ければ、つまりキングが四回死ねば、本当に死ぬ。・・らしい。

確かではないが、四敗すればそのチーム全員が死ぬのではないか、とルール説明者は言う。

この四勝したもの勝ちという日本シリーズみたいな戦いに命がかかっているかもしれない以上、戦わざるを得なくなる。

相手のキングは同じ奨励会の三段リーグのライバルである。

18人の赤の軍勢と同じく18人の青の軍勢。
それぞれに将棋やチェスのような駒固有の能力があり、赤も青も個人差は互角。

つまりは人間チェスであり、人間将棋みたいなもの。
取られた駒が敵陣の駒になるところは将棋に近いのかも。

将棋にしろ、チェスにしろ、相手に取られたら以上、その駒は取られる以外にないのだが、ここの駒は少し違う。
刺されても刺し違えて相手も戦死させることが出来たりする。

将棋やチェスの人間版のようにも思えるが、別に一手一手を交互に指すわけではないので、寧ろこれは均等な力量の兵士を与えられての戦争なのではないだろうか。

なんせ、命がかかっているんだから。

この空間が軍艦島という実在の島であることもわかって来るとますます実戦っぽく感じられたりもする。

とはいえ睡眠を考慮する必要がない。
食糧補給を考慮する必要がない。
傷病兵を匿う必要がない。

眠ることも食べることも飲むことも必要なく何時間でも戦える。
戦いでは戦死より負傷の方が多いはずだが、軽傷から重傷というのを通り越して戦死しかかない。

そういう意味では戦争でもなんでもなく、やはりここ独自のゲーム世界なのだろう。

第一戦、第二戦、と進んで行くうちに主人公もだんだんとこれまでわからなかったルールがわかって来る。

時間の経過と共に、駒のポイントが上がる、敵を倒す毎にもポイントが上がる・・そして一定のポイントを超えると歩がと金になったり、飛車が龍になるがごとくに持っている力が格段に強くなる。

物語はこの仮想社会みたいなところでのゲームと現実界での話が交互に出て来る。

現実界では最初は大学生だったはずが、社会人に成長していたりとどのタイミングでワープした仮想社会なのか、だんだんとわからなくなって行く。

ストーリーとしてはなんだかなぁ、というフシが無きにしもあらずなのだが、こういう読み物は読みだしたら、最後まで絶対にやめられない読み物だろう。

ダークゾーン 貴志祐介 著 祥伝社



津波災害――減災社会を築く


著者の河田惠昭という人、この震災直後より何度かテレビにてお顔を拝見した。
確か内閣の肝煎りで発足した復興構想会議の一員にもなったのではなかったか。

この本はこの度の震災の直前に刊行されている。
2010年のチリ沖地震津波をきっかけに書かれたものであり、津波被害に対する警笛を鳴らしている。

著者の警笛がもっと浸透していたら今回の津波被害は少なくなったか、というと多少は、とは言えても必ずしもYESと断ずることは難しいだろう。

この本には津波被害についての恐ろしさや津波のメカニズムの解説、津波に対する対処などがふんだんに述べられているのだが、よもや一つの地方そのものがほぼ壊滅状態になり、町や村全体が流されるような事態までは想定していまい。

著者は通常の津波にて、住民の避難率が低いことを問題視しているが、それは今回の震災と津波にも当てはまるだろうか。

この度の震災に関してはいずれ歴史的検証もはじまるだろうが、確かに万を超える多くの方が亡くなってしまったわけだが、行方不明の方の大半は、巨大地震で家が倒壊しその直後の津波にて家ごと流され、その戻り波にて家ごと海へと持って行かれてしまったような、もはやどうしようもない状態の方が大半だったのではないだろうか。

寧ろあれだけの津波が押し寄せたにしては、こと避難という意味ではかなりの人が避難され、避難率は低いどころか、状態から見れば高かったのではないだろうか。

特に小学校などは普段の避難訓練が行き届いていたのか、小学校の校舎はもろ被害に遭いながらも小学生は全員無事だった、という報道を何度も聞いた。

東北地方沿岸部はそれだけ、津波に対する用心を行っておられたが、その用心のレベルをはるかに超える津波が来、しかも大震災で崩壊した家で動けない人はもはや逃げるという選択肢すら持てなかった。
そんな方々が大勢おられたのではないかと推察する。

「東北の万里の長城」と言われる防潮堤を築いた町がある。
岩手県宮古市の田老町。高さ10M、最大幅25M、延長2.4Km。

津波を減殺するはずの無敵の防潮堤ですら、今回の津波にあっては破壊されてしまっている。

筆者は津波は防波堤に激突した段階でそのエネルギーは増加され1.5倍の高さになると述べられておられる。
10Mの津波に対応したはずの防波堤であっても防波堤にぶつかり15Mの津波になってしまうのだ。
この度の津波報道を見ていてもある工場などでは、はるか天井近く高さ16Mの位置まで海水が押し寄せた跡などが映されていた。

筆者が述べるように100%の事前対策などはないのだろう。
減殺ではなく減災。
完全無欠の防潮堤があったとしてもそれに驕らず、逃げるにしかずなのだろう。

かつて、京都の桂イノベーションセンターというところを訪れたことがある。
京都市内の賑やかなところではなく、京都の中でもすこしはずれた場所で近隣には歓楽街どころか飲食店すらほとんどなかったのではなかったか。そんな場所に京都大学の土木工学科の研究施設があった。
そこではビルの中にすっぽりビルを作るという途方もない研究が行われていた。
外ビルがどれだけの強度の地震にあってものそこで揺れを吸収してしまい、まるでぶら下がっているかの如くの内部の建物には一切揺れ感じさせない、そんな研究をしていた。
そこで言う外ビルがまたビルの中にある研究施設なのだからどれだけ巨大な施設か想像がつくだろう。
それを見たのはもうかれこれ10年近く前だったと思うが、その後の耐震ビルと言ってもそんな技術が用いられたなどはトンと聞かない。
巨額な重要施設では案外用いられているのかもしれないが・・。
いずれにしろ、民間使用するにはそんな耐震施設など莫大な費用がかかりすぎて実用化は難しいだろう。
だが、揺れを吸収してしまうというところに津波にも同じようなヒントはないだろうか。
津波に関してもじゃぁ10Mで足らないなら15Mの、20Mの防波堤を作ろうという発想は土台無理がある。
こと相手は自然なのである。
真っ向から向かうのはもう辞めにして、そのエネルギーを緩やかに吸収するような技術、誰か研究を始めないかな。
高く高くするよりも吸収する技術と言うのだろうか。
サッカーでどれだけ強いボールが飛んで来てもすっと足元に落とせるのは瞬時に引いてボールの勢いを吸収してしまうトラップという技術があるからである。
ボクシングにしたって真っ向から顔面ストレートを受けたら途端にダウンだろうが、瞬時に引くことで相手のパンチの勢いを吸収してしまう。
吸収と言ってもサッカーボールやパンチを例に出せば、規模が違いすぎるだろうが!とお叱りを頂戴しそうなので、表現を変えれば、津波を真っ向から防波する堤ではなく、その勢いを逃すような技術とでもいえばいいだろうか。

河田先生の本のことを書くつもりが後半は思いつきのことを書いてしまった。
この本には貴重な記述が多々あるし、教わることも多々ある。
せっかく2010の年末に刊行したばっかりではあるが、1896年の明治三陸地震のことや、1933年の昭和三陸地震のことや、1993年の北海道南西沖地震のことや、2004年のスマトラ島沖地震のことや、2010年のチリ地震のことなど過去の地震津波のことは写真も交えていろいろな計測値で満載なのですが、いろいろな意味で既に我々に伝わり済みのこともありますし、今回の震災を踏まえて新たな減災社会に向けてあらためて加筆、いえ書き直して頂く必要があるのだろう。

とは申せ復興構想会議の委員をなさっておいでなので、その結論が無ければおそらく何も始まらないだろうし、始める気もなさそうな気配濃厚なので、河田先生には本を書き直す暇などありますまい。

一刻も早く復興構想会議からの提言を出して下さいませ。

津波災害――減災社会を築く 河田 惠昭 (著) 岩波新書



点線のスリル


2歳の時に施設の前に捨てられていた少年。
13年間の自分を振り返って何も見えないと作文に書く。
自分の歩んで来た道は点線なのだと書く。
自分の出生に至るまでを知らなくても、本当の親を知らなくても、それまでの人生は決して点線などではないと思うのだが、ずっと暗闇に生きるような暗い学校生活を耐えて来た彼には点線に思えるのかもしれない。

施設で育ったからってそんな苛めの対象になったりはしないだろうに。
おそらく学校では彼自信が暗い殻の中に閉じこもっていたのだろう。

それにしても彼から見た学校の連中というのはあまりにも醜い。
新聞配達をしてから学校へ登校したからインク臭いっと騒ぐ女子生徒だとか。
まぁ、そういう設定なのだ。
ここで書かれているようなクラスメートなら、彼から見れば確かに記号の群れであり、ヒト科のメスであり・・なのかもしれない。

そんな少年が図書館で出会った年上の女の子に引っ張られる形で、自分の出生を探索する。

この物語にはもう一つの探索がある。

偶然に間違えてチャイムを押してしまった家に住む認知症のお婆さん。
一人暮らしで、元ヤクザだという隣人が面倒をみている。

「あたしには行かなければならないところがあるの」と老婆は言う。

認知症だと聞かされれば、あいずちだけうっておけばいいだろう、と思うのが一般人的な発想かもしれないが、この少年は放っておかない。
元ヤクザの隣人を撒きこんで探索を始める。
その老婆がどこから来たのか。
これまで何をして来たのか。
どこへ行かなければならないのか。

その二つの探索をめぐっての展開はなかなか読ませてくれるのだが、ここらあたりまで来るとちょっと嫌な予感がしてしまうのだ。

そう来るんだろうな。
いや、それだけはやめて欲しい。

二つの探索が接点を持ってしまう?うすうす感づいてしまうが、この二人の出会いからしてそんな偶然があったら「ご都合主義」のそしりを受けてしまうのは必至じゃないか。

ネタバレは書くまい。
だが、途中まで読んだ人は誰しもその方向への予感を感じるだろう。

仮に接点を持とうが、ガッチリ重なってしまおうが構わない。
点線は点線のままでは少年が可哀そうだ。

ちゃんと実線にしてあげなければ、作者も終わるに終われないだろうし。

点線のスリル 軒上泊著