カテゴリー: カ行



サクリファイス


「エデン」はこの「サクリファイス」の次作だった。
新刊に飛びついてしまう悪い癖が出てしまい、読む順番を間違えたようだ。

ヨーロッパのチームでたった一人の日本人としてツールドフランスにも参戦する主人公の白石誓がまだ日本のチームに所属していた時代の話がこの「サクリファイス」。

「エデン」の中で「あの人ならどうしただろうか」と白石が考えるシーンがあるが、その「あの人」が「サクリファイス」には登場する。

アシストに廻る選手達は、たった一人のエースを勝たせることのみのために走り、レースを展開させる。
エースが総合優勝すれば、チーム全員の年棒も上がるが、表彰台に立つ栄誉はエースにしか与えられない。

そのたった一人のエースは、周囲の人間を踏み台にするだけの存在なのか?

ライバルとして将来エースになろうとする選手を潰してしまう身勝手な存在なのか?

エースとは単に自分の栄誉だけのためレースをしているのではなかった。

アシスト達を踏み台にした以上、それを無駄にはしない、絶対に勝ちにこだわる。
そういう選手だからこそエースになる資格がある。

この本の展開は、ロードレースというものがどんなスポーツなのかを存分に味あわせてくれるが、特にラストが凄い。
本来あるべきのエースの存在を描いている。

これは自転車のロードレースならではの話か。
他のスポーツでもゴールを決めた選手にはそのお膳立てをした選手達の存在があっての事。
だが、それにしても他のスポーツなら栄冠を手にするのはチームメイト全員なのに、ロードレースはエースだけ。
そこに若干のひっかかりが残るが、アシストに徹した選手にもちゃんとスカウトの目は向けられている。

白石はここでもアシストに徹する役回りだが、そのアシストぶりを評価されてユーロッパへの移籍話が舞い込んで来る。

この本にはかなり残念な存在の人が登場するが、それもラストのエースの凄まじさを際立たせる、小説の中の名アシストということなのかもしれない。

サクリファイス 近藤史恵著 新潮社



エデン


ツールドフランスという世界で最もビッグな自転車ロードレース。
3週間に亘って3300kmの走行距離を走破する。

毎年、コースは変わるが、ピレネー山脈とアルプス山脈は必ずそのコースに盛り込まされのだという。
つまりは平坦な道ばかりじゃなく、とんでもない登り、降りも走破してチャンピオンを決める。
この競技は個人戦だとばっかり思っていたが、チーム戦。
でも表彰台に上るのはやはり個人。
なんか理不尽な気がしなくもない。
各チームのメンバのほとんどはたった一人のエースのアシストをすることに徹する。

個人と個人が組むとも有りなら、チームとチームが組むのも有り。
総合1位になったエースだけがマイヨ・ジョーヌというジャージを与えられる。
他のチームスポーツのようにチームでW杯を受け取るのではないのだ。

主人公の白石誓は、たった一人の日本人としてこのこのツールドフランスに初挑戦する。
この白石の存在はまさにプロスポーツ界の椅子取りゲーム(ゼロサム社会)の真っただ中の存在。

限られたチーム数、そして次から次へと生まれて来る新たな才能。

スター選手にはいくつもの椅子が差し出され、悠々と好きな椅子を選ぶことが出来、次に年棒さえ文句を言わなければ楽に椅子に座れる者たちがいる。

そして残った椅子の奪い合いをしなければならないランクの選手たちがいる。

白石はその奪い合いをしなければならない位置に居る。

そして自分をアピール出来る最高の舞台であるツールドフランスの出場を前にして、所属するパート・ピカルディというチームからスポンサーが今期限りで撤退することを告げられる。

自チームのエースであるミッコというフィンランド人選手アシストに徹するのか。

次の就職に有利になる区間賞や山岳賞を狙いに行くのか、他のチームのエースのアシストをして、つまりは自分チームのエースを裏切って、他のチームに恩を売り、次の就職活動に役立てるのか。

そんな設定から物語はツールドフランスの3週間の全コースをなぞる形で始まって行く。
レース後の他チームへのオファーへ有利になるような選択をするのか、今のレースで勝ちに行くことを選択するのか。

人間の生き様の話なのかもしれない。

自転車のロードレースというもの。あまり目にすることはなかったが、今度中継でもやっていたら一度見てみようと思う。

エデン 近藤史恵著



バターサンドの夜 


児童文学新人賞受賞とあるが、果たしてこれは児童文学という範疇に入るのだろうか。

中学生の女の子が主人公。
それもたぶん中学一年生じゃないのか。
発育がいいせいか、見た目は高校生か。
考え方や発想などはあまりにもしっかりとしていて、そこらの高校生や大学生より上かもしれない。

それでもアニメの主人公に憧れるあたりは年相応か。
ロシア革命を舞台としたアニメらしくその登場人物にあこがれ、そのコスチュームを着てみたい、と。
その題名は「氷上のテーゼ」。

モデルをやってみない?
と声をかけられるがまるで相手にしない。
そりゃそうだろう。
声をかけたのが、場末の町の商店街の本屋の中。
しかも声をかけた相手が読んでいたのは「ロシア10月革命」。
乗って来ると思う方がおかしい。

声をかけたのは同じくその場末の商店街のつぶれかけた洋品店の娘で大人の女性。
亡くなった父母の跡を継いでしまったはいいが、その店で物が売れるわけも無し。
ネットショップをたちあげて、自前のオリジナルブランドを広めようという腹積もり。
そのネットショップのモデルを探していたわけだ。

その女性との掛け合いも面白いが、この本のテーマは、もっと別のところか。

中学生の女の子の他人との距離の取り方。
女の子というのは中学生の時からそんな面倒くさい人付き合いを気にしながら生きるものなのか。
クラスにはいくつかのグループが出来あがっていて、クラスの中の子は誰しもどれかのグループに属さなければ浮いてしまうような。
お昼ごはん一つとったって誰だれと一緒に食べるかどうか、どのグループに入っているのかだとかがそんな重大事なのか。
政治家の派閥じゃなるまいに。

同年代の男たちには到底理解の範囲外だろう。

この主人公の女の子はそういう面倒な付き合いから、一歩身を引いたところで生きたいと思っている、つまりは本来ならごく一般的な思考回路の持ち主だと言うことなのだろうに。

ただ、一歩引いた先がアニメのコスプレというところがまたユニークだ。
結局、他人と何か一線を引いてしまう人は何かのオタクでなければならないのだろうか。
結局そういう世界が好きだから、逆に一歩引けることが出来るのだろうか。

ブランド造りの大人の女性は彼女をいっぱしの存在としてちゃんと認めてくれている。
周囲の女子中学生よりやっぱりこの子の方がはるかにまともなんだろう。

バターサンドの夜  河合二湖 著 講談社児童文学新人賞受賞