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出口のない夢―アフリカ難民のオデュッセイア 


南アフリカで開催されたサッカーワールドカップ。
前大会優勝国のイタリアは予選敗退。
準優勝のフランスも予選敗退。
当初、決勝トーナメントはいったいどれだけ盛り上がらないものになるのだろう。
ヨーロッパのサッカーは終焉を迎えたのか・・などの下馬評を余所にヨーロッパ勢がスペイン、オランダ、ドイツの強豪が1位、2位、3位を独占。
決勝トーナメントの盛り上がりも凄かった。

その開催国である南アフリカは次には五輪の開催に名乗りをあげるのだという。

その発展目覚ましい南アフリカでさえ、開催前は治安が問題視されていた。

発展目覚ましいとはいえ、その労働力の実体は高学歴者や高技術者はアメリカ、カナダ、オーストラリア・・などへ移民として流出し、モザンビーク、ジンバブエ、ボツアナ、ナミビアといった貧しい国からの大量の移民が低賃金の労働者として移民として流入してくる現実を普段はアフリカなどに興味もないメディアでさえ伝えていた。

この本は南アフリカが主題ではない。
西アフリカの話が大半であるが、西であれ、南の周辺国であれ、多少の事情は違えど悲惨であることには変わりはない。

ヨーロッパへの出稼ぎ、それも命の危険を冒してまでしてヨーロッパへ渡る彼ら。
それも国へ残して来た家族を養うためだ。
EUが出来てからヨーロッパ内部での壁は低くなった分、アフリカに対する壁は高くなってしまった。
一旦、ヨーロッパへ出稼ぎに出たものの、おいそれと帰れるものではない。
この本では4年がかりでヨーロッパへ渡り、14年間もの間、国へ帰れなかった男性のヨーロッパへ渡るまでの4年間の道のりを追いながら、その道のりで出会った取材結果が取り上げられている。
14年間、という年数はこの男性ばかりではないだろう。
0歳の子供なら14歳、4歳の子供なら18歳、それだけの期間を遠方からお金は送金したとはいえ、一回も顔を見ることすらない。
14年経って返って来たところで、子供からすれば、父親という身近な存在としては到底見ることは出来ないだろう。
どこかのおじさんが来たみたいな感触しか持ち得ない。

そんな話、こんな話の本であるが、著者が強調しているのはアフリカが今日の貧しさに至ったそもそもについてである。
ヨーロッパ人である著者が良くそこへ踏み込んだとは思うが、奴隷という名の人狩り無くしてアフリカは語れない。
ヨーロッパ人がアフリカの地を踏んだのは、日本の種子島へヨーロッパ人が訪れるほんの数十年前である。
支配人間(ヨーロッパ人)は金(GOLD)と下等人間(当時のアフリカ人民を指す)の輸出を始めた。
その後の四世紀の間に2900万人のアフリカ人民は殺害され、同じく2900万人のアフリカ人民が人狩りで狩られ、奴隷として輸出された。
その数字の根拠は示されていない。実際にはその数はもっと多かったのかもしれない。
アフリカは近年まで暗黒の大陸と呼ばれたがその元凶がヨーロッパ人であったことは明白である。

農業をするにもどんな産業をするにも若い豊富な人口無しでは成し得ない。
その若い豊富な人口を次から次へと輸出してしまっていたのだ。
世界が近代化の競争に走ろうと言う時にアフリカは若い働き盛りは狩られ、残った人々は大地に鎖で繋がれた。
暗黒にならざるを得ない状況を作られてしまっていた。
その四世紀の間の植民地支配、その後独立するも内戦。
労働力はと言うと若い働き盛りはヨーロッパへの出稼ぎ、移民を目指す。
ヨーロッパ人の去った後に、権力を握ったアフリカの人はヨーロッパ人の行った支配人間をそのまま模倣した。

中東の石油産出国の中には、自国の国民は一切働かなくても国が国民の生活費はおろか遊興費まで面倒をみてくれるような国がある中、現代でさえアフリカの中の産油国の中には国民一人当たりの年間所得が300ドルなどという、とんでもない搾取が行われている国もある。

近年に至るまで、ヨーロッパ人はアフリカの人民を人ではなく、人間と動物の中間と見ていたのではないか。

今回のワールドカップで日本と初戦を戦ったにはカメルーンである。
日本はカメルーンに勝利したことで自信がつき、勢いがついたことは確かだろう。

そのカメルーンにエトーという名フォアードの選手がいた。
今大会前から調子は崩していたとのことだったが、かつてエトーを扱ったドキュメンタリーを見たことがある。

彼は、若い時にスペインに渡り、レアル・マドリードに所属。出場機会に恵まれず、バルセロナに移籍、その後インテル・ミラノへ。そのエトオのスピードと切れ味は、数多の得点をチームに与え、数々の記録を残して来ている。

その彼がバルセロナに所属していた時のアウェイでの対戦中に観客席からサルの鳴き声のブーイングを浴びた際に、試合途中でありながら、ゲームを放り出して、帰ろうとした瞬間があった。
チームメイトが引き止めるのはもちろんだが、敵のチームのアフリカ出身の選手やブラジル出身の選手からさえ引き止められ、なんとそのブラジル選手は、一点取って見返してやれ、とまではっぱをかけたのだという。
そして、続行した彼は見事に点をたたき出した。

そのブラジル選手を失念してしまったが、微かな記憶ではロナウジーニョだったような気がする。

いずれにせよ、アウェイで敵方の応援観客のブーイングなどは当たり前のことなのに何故、エトーは途中退場までしようとしてしまったのか。

原因はサルの鳴き声ブーイングだ。

俺を人間として見ない連中の前でサッカーなどやりたくない。

その考えの根幹は、我々には到底想像出来ないだろう。

アフリカ全土の希望の星だった彼だからこそ、ヨーロッパ人がアフリカ人を人と動物の中間とかつて見ていた、その名残りが今もある、という屈辱に耐えられなかったのではないだろうか。

アフリカはもはや暗黒の大陸ではないのかもしれない。

それでもまだなお、アフリカの人々のオデュッセイアは続くのだろう。



対岸の彼女 


第132回直木三十五賞受賞作

働く女性と子育てをする女性を対岸の存在として表現していることに、なんとなく抵抗を感じながら手にした一冊。
最近よく取り上げられるこのテーマに、他と同じような展開を想像してしまいましたが、角田さんの視点はすこし新しく感じられました。

ざっとあらすじ。
主人公はちいさな子供のいる専業主婦の小夜子。
独身時代はばりばり働いていたけれど人間関係に疲れて結婚と同時に退職。
再び世間とのつながりを求めて働き始めることを決意します。

そこで出会ったのが独身女社長の葵。
意気投合しますが山あり谷ありで決別。

間には学生時代の葵のエピソードがあったりします。

いろいろなエピソードから、小夜子と葵がまったく違う人生の経験を通して、まったく違う人間になったのではなくて、
意外と同じ感性や感覚を育てていったことが伝わってきます。

高校時代、いろんなことを言わなくても伝わるくらい近くに感じられたた友人と、卒業後、進路を別にして徐々に距離が離れていった経験があります。
壁を作っていたのは何だったのか、わかるようではっきりわかりません。
でも、きっと自分の中の勝手な決め付けが彼女を遠ざけてしまったのだと思います。
この本を読んでいると(もしかしたらこれは女子独特のものかもしれませんが)、誰にでもある苦い思い出がよみがえってくるような気がします。
そして、そのことを悔やむだけではなくて、またもう一度小さなきっかけを自分が作ることで、対岸の彼女をこちら岸に、もしくは自分をあちら岸に連れて行けるかもしれないと思わせてくれます。

すぐ近くに感じた人でも何かのきっかけで対岸の存在になりえること、
対岸の存在だと思い込んでいる人が、実は寄り添える存在であったこと、
もしかしたら対岸と感じさせているのは自分の人生を肯定したいという弱い思い込みだったりすること。
そんなことを考えさせられる一冊です。

対岸の彼女 角田光代著 第132回直木三十五賞受賞作



セピア色の凄惨 


とある探偵事務所に「親友を探して欲しい」と女性が訪れる。
手がかりは年代の異なる写真が四枚のみ。

そこからこの探偵の調査が始まるのだが、彼の調査結果は全く親友の行方を探しているものでは無かった。というより、その友人のことなどかすりもしていない。

たまたま写真の中に居合わせたかもしれない一人ひとりの人の身の上話を調査結果として報告しているのだ。
その調査結果がそれぞれ「待つ女」、「ものぐさ」、「安心」、「英雄」という四編に綴られている。

「ものぐさ」
一家の主婦である。その主婦が面倒くさいからと食事を作らない。
面倒くさいから洗い物をしない。
夫の帰宅が遅くなるので食事はコンビニ弁当で済ませるようになる。
ゴミを捨てに行くのは面倒くさいから部屋に放置する。
洗濯も面倒くさいからしない。
電話が鳴っても立ち上がるのが面倒くさいから放っておく。
玄関のチャイムが鳴っても面倒くさいから放っておく。

これだけの面倒くさがり屋が良く出産など出来たものである。
出産しないのもまた面倒だったのだろうか。

夫も妻が電話を出るのに立ち上がりもしないほどに面倒くさがりなことを容認しているのであれば、携帯電話でも買い与えておけば良かったものを・・。
それがあればその後の事態は変っていたかもしれないのに。

それだけの面倒くさがりでもコンビニへ出かけるのだけは面倒くさがらずに続けている。気になるのはその生活費。
一家の稼ぎ頭を失ってしまって、この女性の怠惰な生活では仕事に就くなど有り得るはずもなく、生活保護でも受けるしかないのだろうが、役所へ出向いて届けを出すなどという面倒なことをどう考えてもしそうに思えない。
生活費を賄ってくれる裕福な親でも居たのだろうか。
それな親が居たなら、こんな生活を放ったらかしにするはずがない。
・・・などという現実的なことをついつい考えてしまうのである。
もともと探偵さんの作り話かもしれないような話なのに。

話はどんどん凄惨さを増して行く。

心配性という世界をはるかに超越してしまっている女性。
不安神経症とでも言うのだろうか。いやそんな世界もはるかに超越してしまっているだろう。

物を購入してもその物が壊れることを異常に怖れるためにあろうことか、その購入物を破壊することで、ここまでしても壊れなかったと安心する。
携帯電話を落として壊してしまったらどうしよう、その恐怖を取り除くために2階から買ったばかりの携帯を投げ落とす。
無事なら無事でさらに高いところから落としてみて・・と最後に破壊されるまでの一通りの確認作業を行わなければ気がすまない。
幼いころからそうだったようで、金魚を飼うと死んでしまったらどうしよう、とあろうことか漂白剤を水槽に入れ続けるのだ。

ある意味、この確認作業なしですまない人が良く大人になるまで生きてこられたものだ、と驚くばかりである。

この二人の異常さに比べたら「英雄」の主人公などははるかにまともだろう。
ただ、その地方そのものが少々異常。
岸和田のだんじりを知っている者からすれば、何よりも祭り優先の地方があってもおかしくはない。
中にはそこで命を落とすことこそが名誉、という考えの地方があってもおかしくはない。
ただ、凄惨さの描写はこれが一番かもしれないので、気の弱い方にはお勧めではない。

著者はこの異常さを日常の延長だと言いたいのだろうか。
「待つ女」の異常さ、初対面の時にその人が前日ナンパした相手じゃなかったことがわかったところでどうだというのか。
その後、今の妻とはずっと付き合い続け、子供もいる。それのどこが偽りの夫婦なのか、読者はそう思うが、常に別の見方を作者は提示し続けるのだ。運命の人ではなかった、と。

「ものぐさ」ではだって面倒くさいんだからしようがないじゃない、と。

ジャンルではホラーということになっている。
確かにホラーなのだろう。
お化けも幽霊も登場しないが・・。
現代版のホラー小説か。
いや本の背表紙にある通り「悪夢のような連作集」というのが妥当な表現なのだろう。

セピア色の凄惨 (光文社文庫) 小林 泰三 (著)