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筆に限りなし - 城山三郎伝


この本を見つけた時、もう伝記が出てしまっているのか。
亡くなった報道を聞いたのはほんのつい先日のような気がしていたのだが・・。
と思ったのが実感。

城山三郎さんには、もちろん本を通してであるがずいぶんお世話になった気がする。

『百戦百勝』では山種証券の創業者が描かれ米相場のことや、仕手戦のことなどこれまで知らなかった世界を教えて頂いた。
『雄気堂々』では渋沢栄一の志というものを教えて頂いた。
今や世の中デフレの時代。あちらこちらの業界で価格破壊が起きつつあるが、安売りの先駆であるダイエーの中内社長の行動力を描いた『価格破壊』。
『落日燃ゆ』ではそれまで知りもしなかった広田弘毅という文官では唯一A級戦犯となった人の潔い生き方を教えて頂き、
『風雲に乗る』ではモデルは日本信販の創業者だと思われる人が日本で初めて「月賦販売」という販売方法を行ったチャレンジ精神が描かれ・・・。

などと書いていくと切りがないほどに昭和史、もしくは昭和の経済史を教えて頂いたような気持ちがある。

これは昭和ではないが、圧巻はやはり『鼠』。
米騒動の発端の米の価格暴騰の最大の悪役とされ、焼き討ちにあった「鈴木商店」を大正時代の当時を知る生き残りの証人を見つけだして徹底的に調べ直し、「鈴木商店」の潔白を小説の中で証明してしまう。
これなどは歴史をひっくり返した作品と言っても良いのではないだろうか。

そんな城山三郎さんの生き様を、「城山三郎」と名乗る前の杉浦英一の時代から描いているのがこの「筆に限りなし」である。

城山氏が十代の若かりし頃、軍国少年であった事は折に触れ、本人が発言していた。
そのご自身の体験は『大義の末』を読むことで、戦前・戦後の正反対になってしまう価値観、またそこでうまく世渡りをして行く人間への軽蔑、憤り、というものを描いたことで、一読者としては一段落したものとばかり思っていたが、この伝記を読む限りそうでは無い。
城山氏は生涯を通じて「大義」を信じた時代と、「大義」を信じた自分と格闘していた。

また『輸出』に始まり『神武崩れ』、『生命なき街』、『大義の末』、『総会屋錦城』、『辛酸』、『乗取り』・・・などとそうそうたる作品を仕上げながらも、大学で教鞭をとることとの二束の草鞋を履き続けてまだ作家だけで飯を食うことには不安を持っていたなどと、後年の城山氏の読者にはにわかに信じがたい事が書かれている。

経済小説というものを書く事で文壇からは異端と言われ、足軽作家と言われた城山氏の心情を読者は知らない。

この作者、伝記といいながら城山氏をべた褒めしている訳ではない。
『落日燃ゆ』などは主人公に傾注しすぎであるとか、あの金解禁政策に賭けた名宰相浜口雄幸を描いた『男子の本懐』をして、踏み込みが足りない、執筆の熱気が薄まっている、とかなり手厳しい。

明治以前の日本の歴史は司馬遼太郎を師と思い、大正・昭和の歴史の師を城山三郎と思っている一読者にしてみれば、『男子の本懐』を貶されたのみならず、司馬遼太郎の作品が無自覚で、上から見下ろした俯瞰した視点で書いている、と切られる記述があるのはいささかショックであるが、やはりやむを得ないのではないか、と一読者としては思うのである。

真田幸村を主人公に描く人が徳川家康より真田幸村を魅力的に描くのは当たり前であり、広田弘毅を描く人が吉田茂より広田弘毅を魅力的に描くのは当たり前。

司馬遼太郎作品などは明らかに主人公が魅力的に書かれていることを承知の上で司馬遼太郎を読んでいる。

いずれにしろ、中には手厳しくもあるが、城山氏が如何に勤勉に自分の足を使った人であるか、自らの立脚点であった「大義」との決別を生涯風化させることなく持続させた人であるかを、この作者はあまりにも早い伝記にて教えてくれるのである。

城山三郎伝 筆に限りなし 加藤 仁 著



イノセント・ゲリラの祝祭


ある新興宗教団体で起きた突然死という変死からこの物語は始まる。
実際は団体によるリンチ殺人事件だったのに、危うく急性心不全で片付けられようとしていた。

日本の死者解剖率は2%。
不審な死だと思われて、警察指定医にて出される死因はほとんど「心不全」。
「心不全」とは心臓が停止した状態を述べたに過ぎず、死因を特定するものではない。
死因が「心不全」とはつまり「死因不明」と言っているのと同じことなのだそうだ。
日本の死の9割以上が死因不明のまま放置されている。
先進国の中では稀有なことなのだそうだ。

それもこれも予算の段取りがつかないことがそもそもでありながら、誰も望んでいないメタボ対策みたいなものだけには巨額の予算が継ぎ込まれる。

この本はそんな事柄を背景として、厚労省の官僚を切って切って切りまくる。

故城山三郎に「官僚たちの夏」という高度成長期の通産省を描いた作品がある。
丁度現在ドラマ化され、放映もされていたかと思う。

その中で描かれる官僚達はまさしく日本の牽引役で、寝る間も惜しんで国家のために働く。
官僚たちもまさに戦後経済を引っ張っているのは俺たちなんだという意識があっただろう。

それでも何か違和感が残ることは確かである。

大臣が方向性を示したって、局長会議の方向性の方が優先される。
大臣は目指す方向に進むためには、局長たちに根まわしをしなければならない。

保護貿易か、貿易自由化か、省内は揺れるが、各々法案を作成するのは官僚たちだ。
法律の立案は立法府、即ち国会の仕事が三権分立の基本のはずが、いつの間にか官僚が立法することがもはや当たり前になってしまっているのだ。

戦後の復興をなし遂げようとしたこの「官僚たちの夏」の時代であれば官僚も省益のためよりも国益のために汗を流したのかもしれないが、現在は果たしてどうなんだろう。

会議のための会議、そんな無駄な会議というものが世の中のは多々ある。
それは何も官僚が主催する会議だけではないだろう。
あらかじめ結論も台本も決まっていながら、さながら会議で決まったような形式だけを重んじる会議。
そんな会議はこの日本の中に至る所で存在する。
台本からはずれた意見を言おうものなら次からその会議にも召集されなくなり、会議に参加すべき立場からも引きずり下ろされる。

この本の面白いのは、全てそういう会議の場のやり取りだけをメインに物語を成立させているところだろう。

特技がリスク回避、座右の銘が「無味無臭、無為徒食」。
ミスター厚労省と呼ばれるエリート官僚を大学教授が評した言葉。

部外者のみならず同僚の官僚自らがミスター厚労省にこう述べる。

「市民が必要とすることはせず、自分たちがやりたいことを優先する。やりたくない仕事は遅延させ、やりたい仕事にはあらゆる手立てを使ってブースターをかける。口先で指導、責任が降りかからない安全地帯で体制づくりに専念する」
それに対してミスター厚労省は 「そんなに誉めるな」 の切り返し。
なんとも笑えない現実が見えてくるようだ。
もちろん、官自らがそんな言葉を吐くのは小説ならではなのだろうが、なにやら本音を吐露されているような気がしてしまうのは自分だけだろうか。

この物語の流れは法医学が中心の解剖実施比率を高めることよりもエ-アイ:AI(オートプシー・イメージング)という呼称の画像診断を死後画像に用いることで死因不明放置の対処に、という方向性なのだが、根底は官僚批判そのもの。
上に書いた以外にも官僚自身の口から冗談まじりに官僚批判を山ほどさせている。
それが、はたまた正鵠を得ているように思えてしまうところが悲しい。
具体的な省庁名を出してでは稀有な本かもしれない。

今や官僚批判が世論の趨勢になりつつある。
この選挙期間中も各党ともそれを謳い文句にはしながらも、はてさてどうなんだろう。
小さい政府、大いに結構。
しかしながら、各党の政策実現には小さな政府どころか寧ろ大きな政府が必要となるのでは?と思えてしまう。
官僚からの脱皮を!と訴えながらも果たして可能なのか。
この本から汲み取れるような数々の無駄や欺瞞が廃せるなら大いに廃して欲しいものである。
でも逆に「官僚たちの夏」にあるように、事実上この国を動かしているのが官僚ならば、あまりの官僚批判の中で彼らのモチベーションがどうなってしまうのか、も大いに気になってしまう。

9月以降、この国はいったいどこへ向かっているのだろう。

イノセント・ゲリラの祝祭 海堂 尊 著 (宝島社)



会社に人生を預けるな リスク・リテラシーを磨く


この本、リスクという言葉が一体何回登場するのだろう。
1ページに一回、二回、三回・・・と二十回を超えたところで数えるのを止めた。
サブタイトルにもある単語なので、何度か登場するべき単語なのだろうが、頭の良い人らしいので愚鈍な読者にこうやって繰り返し、繰り返し、同じ単語を使って、読者を洗脳して、いや教育しておられるのだろうか。
なんといっても「世界で最も注目すべき女性50人」の一人なのだと本の筆者紹介にあるほどの人だ。

先日サンデープロジェクトという番組に勝間和代という女性が登場していた。
あぁ、この人だったのか、と読んでいる本の筆者にテレビで遭遇。

その番組では月々17万の給与で保育園の園長をしながら二人の子育てをするシングルマザーがその日々の苦労を語り、この筆者はほんの二三回、話を振られた程度で、「政府はもっと子育てを支援しなければ・・」云々の様なコメントを述べておられたように思う。
この同世代と思われる二人の女性がテレビにツーショットになる絵、テレビ局にも本人にもその意思は全く無いのだろうが、どうしてもいわゆる勝ち組(この言葉はあまり好きではないが)とそうでない組のツーショットに見えてしまうのはなんとも皮肉であった。

そこで筆者が本でさんざん述べておられる「リスク」という言葉を持ち出して、
「結婚する時にリスクを考えたの?」
「子供をつくる時にそのリスクを考えたの?」
「離婚する時にそのリスクを考えたの?」
などと畳み掛ければ、なるほろ、この人は一貫しているんだ、などと変に感心してしまったかもしれないところであったのに。

それは余談。
さて、この本は一体誰に対してうったえたかったのだろう。

終身雇用の制度を奴隷制へなぞらえ、会社を辞めて転々とするとどんどん就職が困難になる現状について片や述べながら、会社に人生を預ける事を否定する。
現在就職している人や、これから就職する人達を対象に発しているのだとしたら、何か矛盾してやしないか。
世の中の経営者連中や大企業の採用担当へ働きかけるのであれば、それはそれで筋が通っているかもしれないが、会社を辞めて就職しづらくなっている人達に向かって就職が困難になるが、会社に終身雇用される考えを捨てよ、といってもそれは言う対象者が違うだろう、という気がしなくもない。

とは申せ、我々のコンピュータ業界ほど、終身雇用の概念の薄い業界も珍しいかもしれない。技術者はそれなりのスキルを身につければ、より条件の良い会社に転職するという事が最も他の業種よりも早くから行われていた業界である。
業界そのものにも転職者というものに対しての違和感が全くない。
このご時世でこそ、敢えて自ら退職して独立しようという人は少ないが、これまでは、転職の末、最後は入社せずにフリーの技術者になるというパターンも少なくなかった。
筆者の言うところのリスクとリターンは表裏一体であるという事を充分意識し、体現して来たのは我々の業界だったのかもしれない。

我々の業界はその動きが早かっただけで、一時、というより少し前までは終身雇用などはもう古いという風潮が当たり前になりつつあったのではなかっただろうか。

その最後のピークが、筆者の批判する小泉政権の時代だったかもしれない。

この本は一体誰に対して・・・の答えが読んでいくうちにわかったような気がする。
今の政治に対してうったえたかったのだろう

「よりよく生きるために」
「リスクを取れる人生はすばらしい」

これらの投げかけは目下の仕事を確保するのに精一杯の人達に対してのものではないのだろう。
政治に対して言いたい事が多々あるお方なのだと思われる。
まもなく総選挙もあることだ。
この筆者は政治家が向いているのではないか、とお見受けした。