カテゴリー: カ行



イラストレイテッド・ブルース


一巨大企業が世界を支配する世界。

地球の大半がそのコングロマリットの私有地。

自由自治区として残った数少ない都市、ニューヨークでその巨大企業に刃向かうテロが起きる。

その巨大企業の頂点に立つ会長はもはや人間の域を超えた神のような存在。

それに立ち向かうブルースという名の一人の男。
実際には彼は立ち向かったわけでもなければ、テロを起こしたわけでもない。単に放浪していただけなのだが、テロリストなどには到底及ばない力を持っている。
こちらも神のような存在なのだ。

もはや漫画・劇画の世界を無理やり小説にしてしまったような本だ。

この巨大企業の会長とブルースという男が相対する場面がちょっと面白い。

このブルースの一族は古代エジプト、古代アッシリアの時代から世を騒がせていたというのだとか。
第二次大戦時の連合軍のドレスデンへの無差別攻撃は彼の父を葬るだめだった、とか。
ナチのユダヤ人狩りはブルースの一族を探すためだった、とか。
ナポレオンの敗北にもどうやら関与していたらしい。

壮大なスケールという謳い文句。
確かに地球の支配はおろか宇宙の支配に乗り出そうというコングロマリットは壮大という言葉に近いかもしれないが、その登場人物の持つ力は人間はおろか魔法使いなどもはるかに超えて、もはやなんじゃそりゃ、「何でもありかい!」の世界。

ちょっと活字の世界では難しそうな作品でした。



紙の月


過去に女性のベテラン行員による巨額の横領事件は何度か起きている。

その内の一つがモデルだったのだろうか。

この手の事件が起こるたびに思い出すのが某食品大手メーカーの社長が男性社員の一人に1年間、会社の仕事はしなくていいし、いくら使ってもいいしどんな遊びに使ってもいい。1年間で一つだけ何か商品開発のアイデアを持って来てくれればそれでいい、と言われたサラリーマン氏の話。
彼は億どころか何百万の単位ですら使う事が出来なかった。

それに比べてどうだろう。
若い男への見栄なのかもしれないが、高級ホテルのスイートルームを常宿としてみたり、若い男が住めるようにマンションを借りてみたり、そのマンションの家具や食器類まで高級なもので揃えてみたり、若い男に車を買ってやったりと、散在してしまった金は1億円。

元はと言えば正義感の強い女性。
不真面目だとか自堕落なところは学生時代を通して一度も無い。
クソがつくほどに真面目な人なのだ。

夫が自分の方が稼ぎが多いことをあからさまに言われたところで、彼女の友人が勧めたように、おだてておけばいいものを、それが出来ない。
夫の言葉に違和感を遺したまま、過ぎて行く。

もしあの時、あの若い男性と会わなければ、もしあの時・・・とIFは続くが、
そもそも、自分から何かをやりたいと感じたり、何かをやろうとしたことがないひとなのだ。
違和感を持ってもそれを解消することなく、惰性ですごしているが、実は本当ははじけたかったわけだ。
そのいくつものIFはそのきっかけを与えたにすぎない。
多かれ少なかれ、形は違えど何か道を踏み外していたのではないだろうか。

この本に登場する人たち、同じように際限なくカードローンで買い物をしてしまう人。
真逆に節約節約で子供に小遣いさえ与えず、貯め込む人。

離婚した後に夫と暮らす娘が会いたいと言ってくるのは金のかかる欲しい物がある時だけ、という人。

みんな金に振り回されている人ばかり。

なんとも夢の無い本を書いてくださったものだ。

「アンタ達、男には到底マネできないだろ!ガッハッハ!」とでも笑い飛ばして終わりにしてくれた方がよほど救いがある。

紙の月 角田光代 著



いつまでも美しく


                   -インド・ムンバイのスラムに生きる人びと-

ムンバイのスラムと言えば「シャンタラム」という本を思い出す。
ムンバイがまだボンベイと呼ばれていた頃の話なのだが、母国で犯罪を犯した男がボンベイへ辿りつき、スラムで暮らす。
そしてそのスラムの中に溶け込んで行く。
スラムの中の風景が存分に描かれていた本だ。

この著者、キャサリン・ブーという人、ピュリッツァー賞を受賞ことがあるというから、ジャーナリストとしては優秀なのだろう。

ムンバイの空港の近くにある「アンナワディ」という名前のスラムについて、3年半に及ぶ現地での密着取材の上に書かれたのだという。

もちろんドキュメンタリーかそうでないかの違いは大きいが、「シャンタラム」に登場するスラムの住人たちは、互助の精神が有り、スラム全体が運命共同体であり、尚且つ貧しい中にも明るさがあった。

こちらは100%ドキュメンタリーだが、この圧倒的な絶望感はなんだろう。
ボンベイからムンバイになって約20年。この20年でインドは国としては目覚ましい勢いで経済成長を遂げている。
その発展とは裏腹にどこまで行っても救いの無い人々。
ゴミ扱いされる人。
金の亡者となった人。
役所も警察も司法も政治家も汚職まみれ。賄賂無しでは話は何も進まない。

この本の中では「アンナワディ」の中でも少数派のイスラム教徒でゴミの仕分けをなりわいとするフセイン一家に見舞われた災難が取り上げられる。
隣家の女と口論の末、女が「はめてやる!」と言ったかと思うと灯油を身体に被って自分に火を付けてしまい「連中が火をつけた!」と叫ぶ。
想定よりも灯油が多すぎたのだろう。惨事となる。

その女の娘が母親が自分で火をつけたのを目撃したという証言があるにもかかわらず、警察はフセイン一家の父親と稼ぎ頭のアブドゥルを拘束し、自白を迫り、暴行する。
フセイン一家ならふんだくれると踏んだのだろう。不利な証言を撤回させるから金をよこせ、と誰もが言って来る。

この本に登場する人の中で異色を放ったのはアシャという女性だろう。
女性では珍しいスラムの長になる野心も満々。
ヒンズーの勢力の党に属し、地方政治家をバックに持ち、何かとトラブルがあれば間に入って口を聞くことで金を巻き上げる。

スラムの人も決して彼女を好きではないが、頼りにせざるを得ないので、彼女に相談に行く。
ゆくゆくは女性政治家でも目指しているのだろうが、住んでいるところは相も変わらないスラムの中。

この本に登場する人物も全てそのままの名前で実在するドキュメンタリーなのだという。
実名をそのまま使う、というのはまさかスラムの人間からクレームを付けることがないからだろうか。

とても不思議なのが、3年半もその地に密着していれば、スラムの人たちになんらかの影響を与えないはずがないと思うのだが、この本には作者の影が全くない。
ドキュメンタリーに徹したと著者は言い、登場人物が三人称で表現され、彼らに介入しないことで小説のように見えるドキュメンタリーと書評や訳者は誉めており、全米で大きな反響を呼んだとされているが、影響を与えないとはどういうことを意味するのだろう。

相談事などでも自分たちを取材するアメリカ人が身近にいるとなれば、強欲なアシャに頼むことなく、このキャサリン・ブーさんに頼んだのではないだろうか。
シャンタラムの中で皆がリンを頼ったように。

アシャにしたって、ピュリッツァー賞を取ったかどうかは知らないにしても欧米のメディアの人が近所に居るとなれば、かなりのおべっかを使いに来ただろうし、自分が人をだましている姿などは見せないようにするのじゃないのだろうか。むしろアシャはこの記者を利用しようとするだろう。

アシャの娘のマンジュが開く学校での英語の教育も黙って見、マンジュがEnglishで悩んでいた際も黙って見て、とにかく影響を与えないようにしたのだろうか。

人の命がかかっていても黙って見ている方を選ぶのだろうか。

このあたり、取材をする側、される側双方に信頼関係が無ければ本音の取材はできないだろうから、実際には影響は与えていたのではないのか。
ならば、それをそのまま書いた方が自然であろうし、それもドキュメンタリーだろう。

いつまでも美しく -インド・ムンバイのスラムに生きる人びと- キャサリン・ブー 著