-インド・ムンバイのスラムに生きる人びと-
ムンバイのスラムと言えば「シャンタラム」という本を思い出す。
ムンバイがまだボンベイと呼ばれていた頃の話なのだが、母国で犯罪を犯した男がボンベイへ辿りつき、スラムで暮らす。
そしてそのスラムの中に溶け込んで行く。
スラムの中の風景が存分に描かれていた本だ。
この著者、キャサリン・ブーという人、ピュリッツァー賞を受賞ことがあるというから、ジャーナリストとしては優秀なのだろう。
ムンバイの空港の近くにある「アンナワディ」という名前のスラムについて、3年半に及ぶ現地での密着取材の上に書かれたのだという。
もちろんドキュメンタリーかそうでないかの違いは大きいが、「シャンタラム」に登場するスラムの住人たちは、互助の精神が有り、スラム全体が運命共同体であり、尚且つ貧しい中にも明るさがあった。
こちらは100%ドキュメンタリーだが、この圧倒的な絶望感はなんだろう。
ボンベイからムンバイになって約20年。この20年でインドは国としては目覚ましい勢いで経済成長を遂げている。
その発展とは裏腹にどこまで行っても救いの無い人々。
ゴミ扱いされる人。
金の亡者となった人。
役所も警察も司法も政治家も汚職まみれ。賄賂無しでは話は何も進まない。
この本の中では「アンナワディ」の中でも少数派のイスラム教徒でゴミの仕分けをなりわいとするフセイン一家に見舞われた災難が取り上げられる。
隣家の女と口論の末、女が「はめてやる!」と言ったかと思うと灯油を身体に被って自分に火を付けてしまい「連中が火をつけた!」と叫ぶ。
想定よりも灯油が多すぎたのだろう。惨事となる。
その女の娘が母親が自分で火をつけたのを目撃したという証言があるにもかかわらず、警察はフセイン一家の父親と稼ぎ頭のアブドゥルを拘束し、自白を迫り、暴行する。
フセイン一家ならふんだくれると踏んだのだろう。不利な証言を撤回させるから金をよこせ、と誰もが言って来る。
この本に登場する人の中で異色を放ったのはアシャという女性だろう。
女性では珍しいスラムの長になる野心も満々。
ヒンズーの勢力の党に属し、地方政治家をバックに持ち、何かとトラブルがあれば間に入って口を聞くことで金を巻き上げる。
スラムの人も決して彼女を好きではないが、頼りにせざるを得ないので、彼女に相談に行く。
ゆくゆくは女性政治家でも目指しているのだろうが、住んでいるところは相も変わらないスラムの中。
この本に登場する人物も全てそのままの名前で実在するドキュメンタリーなのだという。
実名をそのまま使う、というのはまさかスラムの人間からクレームを付けることがないからだろうか。
とても不思議なのが、3年半もその地に密着していれば、スラムの人たちになんらかの影響を与えないはずがないと思うのだが、この本には作者の影が全くない。
ドキュメンタリーに徹したと著者は言い、登場人物が三人称で表現され、彼らに介入しないことで小説のように見えるドキュメンタリーと書評や訳者は誉めており、全米で大きな反響を呼んだとされているが、影響を与えないとはどういうことを意味するのだろう。
相談事などでも自分たちを取材するアメリカ人が身近にいるとなれば、強欲なアシャに頼むことなく、このキャサリン・ブーさんに頼んだのではないだろうか。
シャンタラムの中で皆がリンを頼ったように。
アシャにしたって、ピュリッツァー賞を取ったかどうかは知らないにしても欧米のメディアの人が近所に居るとなれば、かなりのおべっかを使いに来ただろうし、自分が人をだましている姿などは見せないようにするのじゃないのだろうか。むしろアシャはこの記者を利用しようとするだろう。
アシャの娘のマンジュが開く学校での英語の教育も黙って見、マンジュがEnglishで悩んでいた際も黙って見て、とにかく影響を与えないようにしたのだろうか。
人の命がかかっていても黙って見ている方を選ぶのだろうか。
このあたり、取材をする側、される側双方に信頼関係が無ければ本音の取材はできないだろうから、実際には影響は与えていたのではないのか。
ならば、それをそのまま書いた方が自然であろうし、それもドキュメンタリーだろう。