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ブラック・スワン降臨


2001年9月11日に起きたあの世界貿易センタービル・ツインタワーへの二機の飛行機の激突とビルの崩落。

あの映像の凄まじさは未だに記憶に新しい。
一機目の時は、何なのかがわからなかったが、二機目の激突を目の当たりにして、これは戦争が始まる。もしくはいや、もはや戦争は始まっている。と思った人は多かったのではないか。

真珠湾を咄嗟に思い浮かべた人も居るだろう。
リメンバーパールハーは戦争が終わった後もずっとアメリカの合言葉となった。
今度のはアメリカ本土だ。
しかも中心地も中心地。

他にハイジャックされた飛行機はあろうことかペンタゴンを直撃。
もはや真珠湾の比ではない。

ところが、真珠湾の時には攻める相手がはっきりしていたが、この戦争は相手が見えない。テロへの戦争。

それにしても「ブラック・スワン降臨」とは、もの凄いタイトルの本だ。

ブラック・スワン(この世に有り得ないもの)が降臨する。

この本では有り得ないはずのアメリカへの本土攻撃9.11事件と、有り得ないほどの日本の民主党政権の危うさ、この二つを書いている。

特に著者が言いたかったのは後者の方だろう。

あの温和な顔で温和な話し口調の手嶋をして、そんなタイトルをつけたくなるほどにあの民主党政権は有り得ない存在だった、ということだろう。

二つの時代を貫く一本の柱は「インテリジェンス」。
インテリジェンスといっても知性や知能のことではなく、情報。
しかも単なる情報ではなく、国家指導者の最終決断の拠り所となる選り抜かれた情報のことなのだと手嶋氏は書いている。

この本で書かれていることの大半はもう既知の事実ばかりである。
それでもその既知の事実を「インテリジェンス」という切り口から再度徹底的に掘り下げているのだ。

9.11が起こることへのアラームを鳴らす貴重なインテリジェンスがあったにも関わらず、それは取り上げられなかった。
そして、9.11後、アフガン、イラクへと突き進んで行く、ブッシュ当時大統領とその側近たちの持つインテリジェンス。

大量破壊兵器があり、生物兵器があることによる脅威がイラク戦の大義名分だったはずなのだが、サダムフセインを処刑した後もとうとう見つからなかった。
誤ったインテリジェンスにリードされてしまったから、と言えるかもしれないが、上の通り、アメリカは初の本土攻撃を受けたのだ。

これに対する報復攻撃をどこへも起こさずに収まるわけがない。
ましてやブッシュのブレーンはネオコンと呼ばれる強硬政策の人達で固められている。
アフガンとイラクへ突き進む、まずこれありきから始まっている。大量破壊兵器の有無などは最初から協調各国への口実に過ぎない。

いずれにしろ、あの事件があってから、飛行機に乗りにくくなったことは言うまでもない。
手荷物はおろかポケットの中身、時には肌につけているものまでをはずしてチェックを受けてからで無ければゲートはくぐれない。
まぁ、安全さには代えられないだろぅ、と言われればそれまでだが・・。

新幹線でテロがあったら新幹線に乗る時も同じことをするようになるのだろうか。

いずれにしろ、どんどん住みづらい世界へとなって来ているのは9.11のせいかもしれないが、その根源は何か。
ブッシュパパの時代の第一次湾岸戦争を境に、アメリカがそれまでの中東のミリタリーバランスを一手に握ってしまったことで、イスラムの原理主義者達からの共通の敵と看做されるようになったことが要素としては一番大きいのではないだろうか。

もっと遡れば当然、この問題の根っこはイスラエルとパレスチナに帰結するのだろうが・・。
それでも対アメリカのテロが本格化していくのは、第一次湾岸戦争後からだ。

この本はビン・ラディンの隠れ家を襲撃するところから始まっているが、ビン・ラディンが倒れたとて、根っこの部分はなんら変わらないのだから、飛行機の不便さどころか、いつでもテロに脅えつつ、という世界から変わることはもはやないだろう。

この本のもう一つの話題であるところの鳩山・菅の史上まれにみるひどさ加減は、もはや手嶋氏の言を借りるまでもなく、日本人なら誰しも「有り得ない」と嘆いていることだろう。

どうしようもないブラック・スワン二羽、とにかく一刻も早く消えて欲しいものだ。

ブラック・スワン降臨 手嶋龍一 著



現代日本の転機


著者は執筆前に韓国、中国に2~3年ほど滞在し、日本へ帰って来てあまりにも日本人が無力感、閉塞感を持ちすぎていることに驚く。

あまりにも被害者意識が強すぎるのではないか。
団塊世代 VS 若者世代、男性 VS 女性、正社員 VS 非正規雇用、都市 VS 地方・・・と対立の構図と目されているものはあるが、各々が被害者意識をよる他者攻撃を行っている。
日本人は結局何に怒っていて、どうしたいのか。
外から見た日本人に対する疑問と同じ疑問を著者は抱く。

日本はかつて福祉国家では無く、福祉国家である必要がないほどの福祉社会と呼ばれた。
そんなバブル崩壊前の「超安定社会」は二度と来ない、と誰しもわかっているはずである。
しかしながら対立の構図から浮かび上がるのは過去の超安定社会を求めているものに他ならない。

日本型終身雇用制度をはじめとする日本的経営は海外からしてジャパン・アズ・ナンバーワンと呼ばれる一方で、長期雇用の弊害やエコノミックアニマルと呼ばれるほどのゆとりの無さが問題視された。
自民党型分配システムも公共事業による中央から地方への分配によって地方の雇用を維持させた安定社会を支える反面、腐敗の温床と批判された。

だからゆとりを重視したゆとり教育や、個人の自由、新しい働き方を求めた結果が現在だろう。
またまたそれが蒸し返されて、ゆとり教育は全否定。
自民党型分配システムは構造改革の推進にてその姿を無くした。
個人の自由や新しい働き方もそれまでとは正反対の位置づけで、保護されるべき人たちになってしまっている。

かつて良かれ、と思われて推進したことも一部は確かに良かったが、中にはその根本が否定されてしまうというのは、結局は世の中景気次第ということなんだろう。
とはいえ、リーマンショックの少し前までの数年間は神武以来の好景気と呼ばれていた。
著者は構造改革にもクエスッションマークをつけるのだが、構造改革はもっととことんやり通すべきだったのだろう。
また好景気でも自由で新しい働き方から安定思考への流れが止まらなかったのは、やはりバブル崩壊後の就職氷河期と呼ばれる時代を先輩たちが経験したことも要因の一つだろうし、企業側も一旦味わってしまった雇用の流動性によるメリットをもっと享受していたかったことの影響もあるのかもしれない。

いずれにしろ時計の針は戻らない。
今さら、超安定を求めたところで流動化したものを固形化するなど猛暑日に溶ける氷を扇風機で冷やして氷らそうするに等しい愚である。

この本は最近出版されたばっかりだと思っていたのだが、第一刷出版は鳩山政権が発足してからしばらく後の頃だった。
当然、書いている頃は、まだあの政権ではなかったわけだ。

これを書いている頃よりもずっと今の方が無力感、閉塞感を持つ人は多いだろう。
なんせあの政党による政権がまだ続いているのだから。

とはいえ、この本の内容が陳腐化したわけではない。

日本がGDP世界第二位を中国に明け渡したときに、韓国の人はこう言っていた。
「これまでが良すぎたんでしょ。でも、まだまだ良すぎますよ。」と。
外から見たら、そんなものだろう。

1970年以降というまだ歴史になっていない時代を現代史として洗いなおし、今日に至る経緯がいかなるものだったのか。
現代というものがいかなる時代なのか、をあらためて解説してくれている。
特に若い世代に読まれて欲しい本だと思う。

現代日本の転機 ―「自由」と「安定」のジレンマ (NHKブックス) 高原 基彰 著



春申君


晋と楚の二大国とその狭間にある小国の数々、晋の有力者の韓氏、魏氏、趙氏がそれぞれ独立して韓、魏、趙の三国に分割となり、小国乱立の中、相変わらず強国だった楚、どんどん力をつけて来る秦。

その戦国時代も秦の始皇帝の登場で終焉するわけだが、その終焉する手前の何十年間を背景として据えている。

戦国四君の一人と言われる春申君。

戦国四君とは斉の孟嘗君、趙の平原君、魏の信陵君、そして楚の春申君なのだそうだが、何故この四人が戦国四君なのだろうか。

孟嘗君なら理解できるが、以外は単に「君」を号しただけではないのか。

将軍としてなら、この本にも登場する白起などの方が、はるかに名将だろうし、宰相として有能な人というなら、やはりこの4人ではないだろう。
共通点は、食客を何百、何千と集めたところなのだろうから、この「君」の定義は食客の多い人、なのだろうか。

この著者の本、時代背景というか前提無しでいきなり始まるようで、宮城谷本を読破した方ならなんとも無かろうが、そうでも無ければなかなか物語に入って行けなかったのではないだろうか。

登場する人物についても、宮城谷本か何かを読んだ人でなければなかなか、ついていけないのではないか、という気がしてならない。

宮城谷の本はほとんどが楚を脅威とみなす楚の北の国の登場人物が多いので、楚の視点から描かれたこの「春申君」は宮城谷とは別の視点を追い求めた結果なのかもしれない。

さすがに孟嘗君を悪く書いているところはないが、宮城谷が『奇貨居くべし』という長編の主人公に据えた呂不韋などは、まるで武器の商人、悪徳商人のごとき扱いなので、やはり楚から見た眼というものもたまには必要なのかもしれないが、それにしてはどの人物も描き切れていない。

この本の中に白起が趙軍を撃破してその敵兵40万人を生き埋めにした、とある。
実際に何かの史書に書かれているのだろうが出典は書いていない。
中国の古代史、いや古代史どころか現代史でも有りがちであるが、こういう何十万人云々はよく出てくる。

だが、実際に考えてみてどうだろうか。

死んだ人間、40万人を土葬にするだけだって壮大なスケールの土木工事が必要になるだろうに、ましてや相手は生きた敵兵でそれを生き埋め、って一将軍が撃破だ、突破だ、という行為だけで為せる技ではないだろう。
それこそ、魔法使いでも無い限り。

こういう話が残っている、ということは、誰かがそのように喧伝して廻ったという事実があるのみで、40万どころか、100人の生き埋めがあったかどうかさえ疑わしい。

しからば、そのように喧伝して得をしたのは誰か。
秦の横暴を唱えたい側か、秦に逆らうと恐いぞ、脅しに使う秦の側か。

はたまた秦の後の漢の時代にでも白起の凄まじさを表現する誰かが書きあげてしまったのか。

こういうあたりを素通りしてしまうところが、この本の奥行きを無くしているように思える。

いずれにしてもまた一人、中国の古代史を描く人が現れたのは喜ばしいことには違いないが、どうにもまだまだ、時代の風景が見えるところまで行っていないのが少々残念である。