カテゴリー: タ行



涼宮ハルヒの陰謀


登場人物が宇宙人に未来人に超能力者、とあいかわらず荒唐無稽なシリーズである事には違いないのですが、ここにきて、というかこの「陰謀」はまるで小説じゃないですか。
ってライトノベルといえども皆、小説は小説ですよね。
ようやくマンガチックじゃない読み物にこの世界で出会えたといった感じでしょうか。

未来から過去へと来た場合、その未来までの歴史を変えてしまわないように、一旦知ってしまった未来をそのままなぞらえるように、慎重に慎重にと行動しなければならない。

とはいえ、一旦過去へ行って何らかの行動を起こしただけで充分に未来を変えた事にあるのでしょうが、未来人はなんとか歪められた過去を補正しようとしているようです。

過去へ行って何かをしたとしたらそこから二通りの過去の世界が存在する、というような言いまわしがあったかと思います。

「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の世界では過去を変えることは、即ち未来も変わることで、過去も現在も未来も一つしかありません。
その時点まで生き残らないことになってしまう人の写真が目の前からどんどん消えて行ったり、その可能性が高くなるだけで写真が徐々に透明になっていったりするシーンがある事からも、過去が変われば当然、未来も変わり、その未来からバック・トゥした時点でもその影響があらわれる、ということからも過去に決定された未来は一つのようです。

バック・トゥ・ザ・フューチャーに限らず、大抵のSFは過去と未来は一つずつ、それがいわゆるSFにおける論理的な常識だということなのでしょうか。

過去の改変にての二通りの過去。

それは言い替えれば過去が二通りある、というよりも、過去が変わったことによって、二通りあるのは過去ではなく、現在や未来なのではないでしょうか。

彼らが過去へ行くたびに、別次元にもう一つの現在が出来上がる。
未来人は朝比奈みくるだけじゃないようですし、複数の未来人がそれだけ過去へ往来しているのであれば、かなりの数の別次元の現在が存在する。

まるで「五分後の世界」ですね。
第二次大戦にて昭和20年の8月15日に日本は連合国に対して無条件降伏をしてしまうわけですが、その手前では玉音放送を流す事に命をかけた男達と、もちろんそれを阻止しようとする一派との紙一重のせめぎ合いが有ったわけで、もし玉音放送が流れなければ・・・日本は当初から軍部が言っていたように徹底抗戦に突入したわけで、当時の日本相手の地上戦の困難さは硫黄島や沖縄を経験したアメリカには充分すぎるほどにてわかっていたことでしょう。
硫黄島では日本軍は2万人がほぼ全員玉砕。
米軍ももちろん無傷のわけがなく、圧倒的な火力の差をもってしても米兵6千から7千もの死者と2万人を超える戦傷者を出した。
日本本土は都市といえる都市はほとんど空爆したものの本土の大半はそもそも山岳地帯。本土決戦となれば長期戦になることは目に見えており米兵の被害は硫黄島の比ではない事は明らかだったでしょう。
現にその後のベトナム戦争では最終的に地上戦の泥沼で国内からも批判が噴出。最終的には撤退を余儀なくされ、それに懲りたかアフガンでは空爆はアメリカの出番ですが、地上戦の泥沼が怖かったのでしょう。山岳地帯での地上戦などは長びいてしまうでしょうし、そうなればまたベトナムの再来、もしくは旧ソ連のアフガン侵攻の失敗の再来。地上戦はもっぱら反タリバンの北部の同じアフガンの戦士たちに戦わせてアメリカは寧ろその後方支援を行なった。
「五分後の世界」とはまさに日本が無条件降伏をしなかったとしたら・・のIFなのです。玉音放送の流れなかったもう一つの現在。

戦後の与えられた民主主義の中で、かつての日本の誇りに繋がるものは占領軍から抹消され、誇りを持たない国として再生した現在と国土はずたずたでも誇りを失っていないもう一つの現在。

あの時、もしこうだったら・・、歴史にIFはつき物ですが、所詮空想の世界です。
歴史には往々にして紙一重の差がその後の世界を変えている。
池田屋事変の時、桂小五郎(後の木戸孝允)は、池田屋に着いたのが皆より早すぎたために、一旦その場を離れたために池田屋事変に遭遇しなかったと言われているが、時間通りに来るか、もしくは同士と会っていたらどうだったでしょう。
間違いなく新撰組に斬られていた。桂小五郎と西郷の会談無くして薩長同盟は有り得たか。有り得たかもしれませんし、現代は江戸幕府の延長だったかもしれない。
今でこそ地方分権が合言葉の様に言われていますが、江戸時代こそまさしく地方分権そのもの。中央集権ならぬ藩という地方分権化社会が残っていたかもしれない。

織田信長が明智光秀に毛利征伐支援を命じなければ、明智光秀は大軍を率いることは無かったでしょうし、織田信長も本能寺で討たれることはなかった。
そうなれば日本は徳川時代を迎えなかったかもしれない。
大阪城は存在せず、滋賀県の安土が日本の首都だったかもしれない。

そんな歴史のIFはやまほど存在するでしょう。
で、実際にそのやまほど存在する5分後の世界ならぬ別次元の現在が存在するとしたら・・。はたまたそこへ迷い込んでしまったら・・。
迷い込んだとしても、どこでボタンの掛け違いが発生したのか、その世界の歴史年表を見せてもらわない限り絶対に意味不明でしょうね。
それもこの世界の歴史を知らなければ、どこで違ったかさえわからない。
それを聞こうにも言葉さえ違っている可能性すらありえますよね。
200年前、300年前の日本人の話言葉だって理解できるかどうか疑わしいし、どこからか掛け違った世界では日本語はポルトガル語になっているかもしれないし。
まるでSFですね。

ということでハルヒの陰謀、陰謀というからには空恐ろしいことを・・を想像するでしょうが、極めておとなしいハルヒの巻なのでした。



涼宮(すずみや)ハルヒの退屈


これがライトノベルと言われるカテゴリなのですね。
ライトノベルとは即ち軽く読める小説、という意だとばかり思っていました。
だから新幹線の中で読み終えてしまえるような一冊。古くは松本清張だとか大薮春彦だとか・・ってこれは例が悪いですね。
新幹線って乗り降りする駅にもよりますが、東京-大阪以上の距離なら眠るかアルコールを入れるかをしない限りは、かなりの本が、いえ大方はその範疇に入ってしまいます。

では、ローカル電車で京都-大阪間ならどうだ。赤川次郎だとか・・ってこれも無理がありますね。
そもそも読む時間の問題じゃないんでしょう。
大江健三郎だって開高健だって短いものはほんの短時間で読めてしまいますし・・。

だからと言って短時間で読めたその本を振り返らないかと言えばそうではないのですね。他の作品も読んでみてあらためて、短時間で読んでしまったその本を再読したりする。

じゃぁ、ライトノベルとは何か。要は簡単にお気楽に読めてしまって読んだ後に残るものがないもの?

「ライトノベルとは挿絵にアニメのイラストを使用している本の事だよ」と教えてくれた友人がいるが、果たしてそうなのでしょうか。
アニメ調のイラストが入っていても重たい作品は重たいでしょう。
明治・大正時代の文学にアニメのイラストが入っただけでライトノベル?
ツルゲーネフにアニメのイラストが入ればそれはライトノベル?
ドストエフスキーの本にアニメのイラストが入ればそれでライトノベル?
ライトノベルの「罪と罰」。うーんそれはそれで興味あったりして。

などと「ライトノベル」の定義を云々するのが目的ではなかったはずですね。
ジャンルやカテゴリ分けなど、本屋さんの棚じゃないんだからどうでもいいっちゃどうでもいいんですけどね。

中学生の友人が「ライトノベルならこれが傑作だよ。でも小説としてなら微妙だけれどね」と意味不明のお勧めしてもらったのがこの涼宮ハルヒシリーズ。

そういえば、その中学生の読む本、ことごとくにアニメ調のイラストが有った様な気がする。

「涼宮ハルヒの退屈」まったくの荒唐無稽な作品で、まるでアニメそのもの。アニメがたまたま活字になっている、という印象。
それもそのはずでした。
後になって知った事ですが、元々はアニメだったらしいですから。

しかもシリーズものですよ「涼宮ハルヒの憂鬱」からはじまって「溜息」三作目のこの「退屈」、「消失」、「暴走」、「動揺」、「陰謀」・・・と続いて行く。

登場人物達が所属するのは「SOS団」という学校からはクラブとしても認められなかった変な集まり。部活とは呼べないのでサークル活動の様なもの?

主人公以外には超能力者が居たり、未来人が居たり・・でその団長が涼宮ハルヒ。
荒唐無稽というのはその「SOS団」は団長である涼宮ハルヒを退屈させないために、何か活動を考えなければならない。
何故、涼宮ハルヒが退屈してはいけないか。退屈してしまうとハルヒの精神状態が不安定になり、閉鎖空間という異常な空間が広がるからだそうです。

そんなこんなでいきなり野球大会に出場しようという突飛な発想にも皆うなづいてついて行く。相手は社会人野球でも通用しそうな本格的なチームを相手に閉鎖空間を拡げないために、超能力を使って無理矢理11連続ホームランなどをしてでも勝ってしまう。

もうそのあたりまで読めばちょっと大人の人はもうついてこれなくなるか、アホらしくなるか、本を投げ出してしまうはず。
でもそんな事でめげているようではせっかく本を紹介してくれた中学生の友人に申し訳がない、というもの。

7月7日の七夕には25年先と16年先の願い事をしなければならない。
お願いする相手は牽牛星(アルタイル)と織女星(ベガ)。それぞれの星は25光年と16光年の彼方にあるので、1年先のお願いをしても意味が無い、という事らしいのです。ね。さすがマンガの世界。
うーん!発想が違う。
と妙に感心してしまうのです。

そう言えば例の少年君の読んでいる小説では女の子は大抵、自分の事を「僕」とか「俺」という一人称を使う。これも最近の傾向なのでしょうね。
男女雇用均等法以来、職業でも男女を区別する呼称がなくなりました。

一人称も区別が無くなって来たって決しておかしくはない。

その少年は自分の事を「僕」とか「俺」って言っていたよな。
はたして彼は男だったのでしょうか。

こういう世界に僕も若干ハマりつつあるわけで・・。
だから僕も実は男では無く女なのであります。

なんてオチじゃ誰も満足してくれないだろうな。

涼宮ハルヒの退屈 (角川スニーカー文庫) 谷川 流 (著)



ホームレス中学生


中学生が夏休みに入って家へ帰ると家は差し押さえ状態。
帰って来た父親から兄弟に告げられた言葉はなんと「これにて解散!」これはすさまじい父親だ。

ホームレスとは言っても自宅の近所の公園で寝泊りをする。
持ち金が尽きてからは、
「自動販売機の下をあさって小銭を探す」
「草を食べてみる」
「ダンボールを食べてみる」
「雨をシャワー代わりに使う」
「鳩にエサを撒いているおじさんから鳩のエサであるパンの耳をもらって食べる」
というような有名な? もしくはどこかで聞いたかもしれない? エピソードが続く。

15少年漂流記の様に無人島へ行ったわけではないのだから、その危機状況さえ人に説明すれば・・・確かに友人に明かすには、恥ずかしいかもしれないが、ちょっと勇気を出してみたら手を差し伸べてくれる人は最初からいただろうに・・・などと思ってしまうが、それではやはり話にならない。
「まずは自分の力でやれるところまでやって」が無ければあのようなエピソードは体験できなかっただろうし、白ご飯のありがたさやお湯のお風呂へのありがたさは生まれなかったということだろう。

読む前に予備知識が入りすぎてしまったのか、タイトルが「ホームレス中学生」だったからなのか、はたまた本人の風貌からなのか、実はもっと本格的なホームレス物語を期待してしまっていた。
河川敷あたりでダンボールで家を作ってそこで炊事も行なっている様な・・・。
中学生時代からずっとホームレスをやっていたのだとばっかり思ってしまっていた。
レストランやホテルのゴミをあさったり、ダンボールや空き缶を拾って売ったりして糧を稼ぎ、そしてホームレス仲間から可愛がられたり・・という様な中学生のホームレス生活を連想していた人には少々拍子抜けだったかもしれない。

実際には夏休みに入ってのほんの少しの期間の事なので、ホームレス生活を描いた部分はこの本の前段の一部で、その後は生活保護を受けながらの兄姉との3人でのアパート生活で、高校卒業までの間の出来事が綴られている。

タイトルが「ホームレス中学生」だが、この本の主題はホームレス以外のところにあるのだろう。人の親切のありがたさ、日々の食事や生活に対する感謝の心、周囲の人への感謝の心、兄弟愛、亡き母への愛情を支えとする主人公の心・・といったあたりが本の主題だろうか。

それにしてもこの人のお兄さん、責任感は強いしっかりとした人のようだが、ちょっとぐらいは「蓄え」というものに対する考えはなかったのかなぁ、などと思ってしまう。
月々生活保護でいくらのインカムになったのかは書かれていないが、生活保護で生活が少し豊かになったとたんに、一人毎日2000円ずつ与える、というのはどうなんだ。

弟である主人公は、一日2000円を必ず使い切るつもりなので、飯代では使い切れずに友達に奢ってやったりしている。
生活保護で支給されるお金も税金なんだぞ!などと怒るつもりは毛頭ない。
生活保護を受けている一家でありながらその親父は外車を乗りまわしていた、という話やら、本来なら身体に障害を持つ人が頼るべき福祉施設でありながら、そこでは五体満足な男達が昼間からのんべんだらりと働きもせず・・・などという類いの連中と一緒にするつもりはない。
この兄弟こそ生活保護法に規定される通り生活保護されるに相応しい人達なのだろうから。

一日2000円生活から一日300円生活へと落ちたとはいえ、もう高校生以上が3人、住む場所は確保してもらっているので3人がアルバイトをすればそこそこ食生活は成り立ったのではないか、などと思ってはしまうが、そんな展開ではタイトルが泣くというものだ。
そこはお兄ちゃんの最後まで部活を続けろ、という弟に対する愛情から敢えて腹ペコ状態を選択したものだと素直に読んでみよう。

腹ペコ状態に陥って一日一膳の米を噛みしめて噛みしめて兄弟3人してとうとうご飯の「味の向こう側」へと到達するというあたりはさすがなのだ。
※ 生活保護法 第三条 「この法律により保障される最低限度の生活は、健康で文化的な生活水準を維持することができるものでなければならない」
「味の向こう側」という超文化的な生活水準にまで達したわけだ。
ふむ、ちと意味不明だったか。

それにこのお兄ちゃんも芸人志望だった。
なるほど、若い芸人志望に蓄えなどという考えは似合わない。
貧しさこそが芸の肥やしと言ったところか。

この本はストーリーの中の些細な箇所に一ヶ所一ヶ所突っ込みを入れるような本ではないのだ。
一膳のご飯のありがたさ、一杯の味噌汁のありがたさ、あったかいお風呂のありがたさをあらためて教えてくれる、という意味で飽食の時代の子供達への良い教材なのだろう。

と結んで終わりにしようと思ったが、主人公の中高生の時代も飽食の時代と言えば最高の飽食の時代だろう。なんと言ってもその頃はバブル絶頂期じゃなかったか。
その主人公が現代を飽食の時代というのはなんだかなぁ、・・・などという些末な突っ込みを入れたら終わりにならなくなる。

この言葉で結びにしよう。 この言葉に全ては集約されていると思いたい。
「僕はお湯に感動できる幸せのハードルの低い人生を愛しています」

ホームレス中学生 麒麟 田村裕 著