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マークスの山


行きつけの本屋で「李歐」と「マークスの山」が平積みにされていたので、何も考えずにまず購入してしまった。
購入した後で高村薫、高村薫、高村薫、高村薫・・どこかで聞いた覚えがあるな・・そうだ、レディジョーカーの作者では無いか。
あの「グリコ森永事件」を題材にほぼこれが真相に近いのでは無いかと思われる様な物語を書いた人だ。
「グリコ森永事件」と言うともうはるか前の事の様であるが、あの事件は地域性も身近であり、「けいさつのあほどもへ」で始まる挑発的な挑戦状が新聞トップを飾っていたのも印象に残っている。
あの事件を書いた高村薫の本か。と李歐をまず読破。
新しい形の美しく壮大な青春の物語だのなんだのっていう歯の浮いた様な誉め言葉が帯に書いてあったっけ。
そんなたいそうな、というのが実感。この本がそもそも書かれたのは大分以前であろうから、その頃にしてみれば現在頻繁に発生している中国人犯罪を予見していたと言う事だろうか。
出張など長旅のお供には丁度いい本かもしれませんよ。

さて、いきおいで買ったもう一つの「マークスの山」。
この本で面白いところは、警視庁という組織の有りようが良くわかるところだろうか。
同じ捜査一課でも係りが違えば、他所の組織となって情報のやり取りすらスムーズには行われない。
東京で発生した連続殺人。その関係者を調べて行くと、必ずや行き当たるのが某大学登山部の同期生。
各々が地位ある立場となった人達だ。またその人達も次々と死んで行く。
捜査に乗り出した刑事は上からの圧力との戦いをしなければならない。
犯人は自らをマークスと呼ぶ青年。
二重人格者なのか多重人格者なのか、それとも大人しい性格の時は、単に芝居をしていただけなのか、ついに最後までわからない。
結局、一連の事件の背後には十数年前、その地位ある人達まだ学生だった時代に遡る。

詳細は書かないが、事件の解明に至るのは、同期の登山部の卒業生の医者(病院長だったか)が、書き残した遺書である。
なんともはた迷惑な遺書を残したものだ。
同じ同期の登山部仲間と南アルプスへ登山した際に、同行した一人を不幸にも死に至らしめてしまった事について、遺書の中で詫びたいというのなら、その人に対する哀悼の念だけを書けば良いだろうし仲間の事も書く必要は無いだろう。
ところがこの医者、自分が癌で先が無いからと遺書を書くのはいいが、あまりにも饒舌なのである。
仲間の学生時代の秘密、裏口入学で入った事やら、交通事故のもみ消しが有った事やら、墓場まで持って行けばいい様な事を全て暴露しているのだ。全く遺書としては書く必要の無い事を書いている。
そういう内容の事を書き残す事で、それが少しでも漏れれば、仲間であったかつての同級生にどれだけ迷惑がかかるか、想像すればわかるだろうに。またそんなものどこから漏れるか知れたものじゃない。
自分の死を直前にしての仲間への裏切りであり、最後っ屁としか思えない。
この本上下巻の長編なのだが、作者は刑事に突き止めさせる努力を怠ってしまったのだろうか。

捜査会議の描写やら、キャリア対ノンキャリ。各捜査班同士の対立など、現実的に見える箇所がふんだんにあっていろいろな圧力の中苦労して捜査する過程を散々書いておきながら、この様な非現実的で一足飛びで真相解明の遺書の登場。
そして、犯人の青年についても記憶障害という病気でありながら、綿密な計画を立てて実行して行く過程についても結局非現実的のまま終ってしまった。

やっぱり、現実にあった事件をモチーフとしないとレディジョーカーの様な作品は生まれないのかなぁ。



ダ・ヴィンチ・コード


これまでここで取り上げられる作品は、丁度もうじき映画化、もしくはドラマ化されるものを選んでいるフシがありますが、そういう意味ではこの「ダ・ヴィンチ・コード」は、時期を逸してしまっていますね。既に映画化されて映画でも大ヒット。この作品についての賛否両論はいろんなメディアで取り上げられています。
もう今更、と言った観が無きにしも非ずなのですが、敢えてUPしてもらう事にしました。

上・下巻共、書き出しはこの一文から
「ここに記述されている事は全て真実を元に書かれている」

筆者は真実だ、と敢えて言っているのは推理小説っぽい展開があるからでしょう。
但し、その歴史的背景は全て真実です。と断わりを入れている。
この一文がまたクリスチャンを刺激するのでしょうね。

また、この本の中核を為すシオン修道会の歴代総長の中にレオナルド・ダ・ビンチ アイザック・ニュートン ヴィクトル・ユゴー ジャン・コクトー などの名前が出て来るのが興味深いですね。

イエスは神であり、神の子だ、という事を信じているクリスチャンに、敢えて真実はこうですよ、と言ってあげる必要などあるだろうか、という気は確かにします。しかしながらキリスト教そのものが歴史に与えた影響はあまりに大きいので、真実を探求する事の方が大事な気もします。

キリスト教に限らず、仏教にしても大抵の宗教の敬虔な信者というもの、私の知っている限りにおいては、まず世知辛い世の中にあって世知辛く無い。何が何でもという欲が無い。日々非常に幸せそうに笑みと共に生きている、というのが私の実感としてあります。
先日もクリスチャンの方のお葬式へ行って来ましたが、一般のお葬式が規格品の様なものだとすると、クリスチャンの方のお葬式というもの、本当に心がこもっていて、亡くなった方への手作りの式、というイメージです。

この「ダ・ヴィンチ・コード」の映画が封切りされると同時に巻き起こった、各国での「ダ・ヴィンチ・コード」排斥運動と、あの無害な幸せそうな信者とはどうにも繋がらないのです。
イスラムの諷刺画を描いて、暗殺されそうになった人も居ましたね。
宗教というのは、そんな偏狭なものなのでしょうか。

誰々が水の上を歩いただの、死んで3日後に生き返っただの、マリア様が天から授かったのって、それそのもののを真実として、絶対否定を許さないものとして受け止めているから信者だという訳でもないと思うのですが・・・。
寧ろ大切な事は、教えの箇所なのではないでしょうか。
「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」だとか
「汝の敵を愛せよ」だとか
「求めよ!しからば与えられん」だとか
「汝ら人を裁くな」・・・・という様な教えを大切にしているからこそ、一つの教義の元で信者を続けて行けるのでは無いのでしょうか。

では、なにゆえにさほどの排斥運動などが必要なのでしょうか。
こういう事なのでしょうね。
教会の行事は聖書の教えがと賛美歌が無くては成り立たない。
聖書や賛美歌の中にはイエスの復活だとか、神の子イエスはやはり人間では無く神で無ければ歌や教えに矛盾が生じるのでしょうか。

話を変えますが、この「ダ・ヴィンチ・コード」の主人公のラングドンという人物、物凄い博学ですので、宗教の事以外でもかなり勉強になりました。
その一つが宇宙で最も美しい数値だという「黄金比」(約1.618)を解説している箇所。
①ミツバチの群れにおける雄と雌の個体数の関係において、世界中どのミツバチの巣を調べても、雌の数を雄の数で割ると、その答えは黄金比になるという。

②巻貝の螺旋形の直径は、それより九十度内側の直径の1.618倍(黄金比)になる。

③ヒマワリの頭花に逆方向の螺旋がいくつも渦巻いて並んでいる。
それぞれの渦巻きを、同様に九十度内側と比較したときの直径の比率が「黄金比」。
黄金比は自然界のいたるところに見られる。そこまではいいでしょう。
人間の身体にも言えると言うのですが、
④頭のてっぺんから床までの長さとへそから床までの長さの比率が「黄金比」。
⑤肩から指先までの長さと肘から指先までの長さの比率は「黄金比」。
⑥腰から床までの長さを、膝から床までの長さで割ると「黄金比」。
  ⇒こうなるとちと怪しいですね。それって個人差があるんじゃないんですか?
でも事実に基づいて書いているのだから、事実なんでしょうか。

建築物においても、
ギリシャのパルテノン神殿、
エジプトのピラミッド、
ニューヨークの国連ビルに至るまで、建築寸法に黄金比が使われているのだそうです。

と結局、お茶を濁してしまいました。

ダ・ヴィンチ・コード〈上〉 ダン・ブラウン (著)  越前 敏弥 (訳)



不撓不屈(ふとうふくつ)


なんと言っても実名なのである。
出て来る、出て来る。渡辺美智雄、津島雄二、小渕恵三、小泉純一郎、旧社会党の平岡忠治郎、勝間田清一、旧民社党の春日一幸、国税庁直税部長時代の鳩山威一郎・・・
こういう実名を目にすると、この「不撓不屈」という本、飯塚毅という税理士や税理士事務所、実物をモデルにした小説でも何でも無く、実話でなければならない。
これが実話だとしたら、居たのであろう。一介の税理士の立場でありながら、国家権力そのものと言っても良いキャリアバリバリの大蔵官僚を敵に廻して、戦った人が。

税は1円も余分に払うべからず、また1円の払いの漏れも有ってはならない。
完璧主義者であり、自身の仕事について100%の自信が無ければそんな事は出来ないだろう。
とは言うものの企業にしてみれば、そんな事よりも実務優先で、税務官僚を相手に真っ向から、などと言う気はさらさらなく、なるべく穏便に素早く片づけてしまいたい、というのが本音ではないだろうか。
企業たるもの最終的には何らかの社会貢献をする事を目的としているであろうから、税金を少々余分に払ったところでそれは許せる様な気がする。
許せないのはやはり年金制度だろう。そもそも年をとってから還元して欲しい人の為にある制度であれば、強制加入では無く任意加入という姿が好ましい。
これまで集めて来た年金運用資金を勝手に使い切ってしまった上で、若い世代が年金に加入しないなら財源が無いなどと言うのは運用して来た側の責任であって、若い世代の責任では無い。いっその事税金に一本化してしまったら良いでは無いか・・などと考える今日この頃である。

不撓不屈、この男ただ者では無い・・確かにそうだろう。
国家権力と真っ向から対峙する税理士。
この飯塚毅という人が非常に清く、正しく、凄まじい人である事は言うまでも無いが、
何故、税理士なんだろう・・とやはり思ってしまう。

貧しい布団屋の倅として生まれ、本来であれば布団屋を継ぐところだったのが、あまりに成績優秀にして、先生をしてその専門分野で打ちのめしてしまうほどに優秀な人が選ぶ道が何故、税理士だったのか、結局税理士という立場であったからこそ、この人が如何に優秀で理路整然と正しい事を行ったとしても、自分より年下の政治家である渡辺美智雄などに頭を下げ、政治家の力で助けられたのでは無いか。

ちなみにこの本を取り上げてみようと思ったのは、この本が映画化される話を聞いたからであるが、実はもう昨年に映画化されたのだという。

別段賞与という名の賞与引当金が争点である。さぞかし一般受けしない映画だったのではないだろうか。

上記は誤りでした。昨年に映画化は誤りでこの6/17に封切りだそうです。観に行かなければ・・。
ps.この文章かなり税理士や税金、税務署について突っ込んだ事を当初書いていたのですが、あまりに不穏当、という事で半分以下に割愛されてしまいました。

不撓不屈(ふとうふくつ) 高杉良著