カテゴリー: タ行



首里の馬


昨年(2020年)夏の芥川受賞作。
私は大抵寝床に入ってから読書をはじめる。
読み始めたら、どうにもページをめくる手を止められず、ついつい睡眠不足になる事多々であるが、久しぶりに全然ページが進まない本に出会ってしまった。

最初に読み始めたのは何か月前だろうか。
途中で停止して別の本を読破することたびたび。
それにしてもなんでこんなにだらだらと長く書く必要があるんだ?

この作家さん、当初は小編を書いていたところ、勧められて5枚を10枚、10枚を20枚、30枚と書き足す様になっていったという。一旦30枚にしてから、今度は20枚に削る作業もした方がいいんじゃないのだろうか。

さて、中身だが、値打ちがあるのかどうなのかさっぱりわからないものを溜め込んだ資料館というところへ通い、そのアーカイブの手助けをする女性の話。資料館の運営、収集ははるか前に本土から移住してきたかなりご高齢の女性が行っている。。
その助手の作業の傍らで彼女が行っている仕事はかなり異様な仕事で世界のどこに住んでいるかわからない人とオンラインで会話し、与えられたクイズの問題を出して、解答を答えてもらいというもの。
海外の外国の人でありながら日本語も流暢。日本の問題などにも蘊蓄が深かったりする。

しかしながら、なんのためにそういう事が行われているのか、雇い主は世界中にそういうことをやっている場があるなどと言っているが、目的もわからなければ、どういう基準で解答者が選ばれたか、どういう機関がこのシステムを構築したのか、何もわからない。

毎回クイズの出題で顔を合わせる人とはもう顔なじみになってしまい、彼らの居場所もだんだんと明らかになって行く。一人は空爆に合うような戦場のシェルターの中からだったり、宇宙空間だったり、南極の深海の中だったり、究極の孤独な環境の人ばかり。

せっかく解答者達とも親しくなってきたという頃に彼女はその仕事をやめてしまう。
また、資料館の方も維持してきた年配の女性が亡くなったことで、取り壊しとなる。

彼女は彼女の家の庭でうずくまっていた沖縄の固有馬をなんとか乗りこなすようにはなるのだが、どうやって生計を立てているんだろう。

小さい事務所から世界とつながってクイズを出すというこのシステムって結局なんだったんだ。
何かのメタファーなのか?

そもそも資料館のアーカウイブにしたって漠然とした表現が多い。クイズにしたってこの描写は漠然としたものばかり。
もっと表現して頂けないものなのだろうか。
3人の外国人に職を去る際に3つのWORDを問題として提供するが、それすらも投げっぱなし。

孤独をテーマにした作品ということはわかったが、結局何を伝えたかったのかさっぱりわからない。
小説ってそもそも誰かに読んでほしい、とか何かを伝えたいとか、そういう気持ちで書くものじゃないのだろうか。
この作家の場合、自分が書きたいから書いている。ついてこれる人はついてこい、みたいに思えてならないがいかがだろう。
おそらく当方の読み込みが浅い、足りないということなのだろうが到底二度読みする気にはなれない本だ。
あまりにも退屈。

芥川賞選者の選評としてはわりと佳作だったとか、評価がそこそこ高いのには驚いた。
選者の中に村上龍さんの名前が無かったが。もうやめちゃったのかな。
龍さんなら、「伝えたい事の不明な小説は好まない」とか言って推さなかったんじゃないかな。



破局


こちらも昨年(2020年)夏の芥川賞受賞作。
こちらはもう一つの受賞作「首里の馬」に比べるとはるかに読みやすい。

主人公は大学4年生。この男にはあきれる事多々あったりするが、何かしら感情移入する出来るところがあったりする。

高校時代ラグビー部に所属。弱小の公立高校ながら地方予選をなんとか準々決勝まで勝ち残り、そこで敗退。
後輩になんとか準々決勝、準決勝の舞台を踏ませてやろうと、後輩の部活に顔を出し、顧問のコーチすらそこまで望んでない、もちろん現役生も望んでない、スパルタぶりを発揮する。

今は、公務員試験を目指して勉強中の身ながら、身体を鍛える事を怠らず、筋トレでどんどん強靭な身体を仕上げて行く日々。
この主人公青年に後輩に対する悪気は一切ない。
パワハラだとかいじめだとかは縁遠く、純粋にそんなことでどうする、準決勝行くにはそんなことで音を上げていたら、行けないぞ、という思いだけでやっている。

後輩どころか、世の中の人全員の夢がななうのを願うような男なのだ。

自分なりのルールに厳格で、父親から唯一言われた言葉「女性には優しくせよ」を守るのはもちろん、数々のルールで自分を縛る。

ルールを自分に課すだけならまだしも、他人に向けられる厳しさには、少し怖いものを感じる。
食事時に、チャッチャッと音を出して食べるのが許せない、というより嫌い。
自分の彼女が滑り台を登って行く際に、スカートの中が見えるかもしれない場所に居る男が許せない。
男女共用のトイレから男が出てきた際に便器が上げられた状態だった、これは後に入る人の事を考えていないからだ、許せない、とルールを作るのは構わないのだが、彼の場合、そのルールを破った相手に殴りかかってしまうのではないか、とひやひやするのだ。

通常、公務員試験を受けようとする男なら暴行をはたらくなどという愚行を犯すはずがないのだが、何故か彼にはその危うさがつきまとう。

ここで上げられたルールだとか、好き嫌いなどは、おそらくだが、この作者の好き嫌いそのものの様な気がする。

それにしても、学生時代ってこんなにも元気だったっけ。
朝から2回連続で自慰で抜くのが日課って。どれだけ元気なんだ。
さすがにここばかりは作者そのものでは無いだろう。



線は、僕を描く


水墨画などという地味な題材がテーマなので、途中で眠くなる様な本なんじゃないだろうか、と思いつつ読み始めたが、なんだろう、このぐいぐいと水墨画の世界の中に引っ張られるような感じは。
とまらなくなってしまった。

結局、一度も休むことなく読み切ってしまい、翌日から二度目の読みに入った。

これを、書くのにどれだけ取材したんだろう。書かれているセルフの中にはその世界に居る人でなければ絶対にわからないような表現がいくつもある、などとと思っていたが、この砥上さんという作家そのものが水墨画家なのだった。

小説家が水墨画のことを勉強して小説にしたのではなく、水墨の絵師が小説の形を借りて、水墨の世界を紹介したということなのだが、この水墨画の先生の文章は卓越している。
登場人物はもちろんフィクションだろうが、水墨に関するところはノンフィクションなのではないだろうか。

ストーリーは、高校時代に両親を交通事故で失い、その後、空っぽになってしまった大学生が主人公。
大学へ進学するも空っぽのまま。内に籠ったまま誰とも親しくなる気が無い。
そんな彼が大学で開催される水墨画の展示会の設営のアルバイトを引き受けた時の出会いがまさに人生を変える出会いとなる。
日本の水墨画のトップに君臨する絵師、篠田湖山という著名な先生だとは知らずに、一緒に水墨画を見て廻り、思ったままの感想を述べただけで、君には見る目が備わっている、と「私の弟子になりなさい」と半強制的に弟子になる嵌めになってしまう。

芸術というものを文章で表現するなど、ほぼ不可能だろうと思えるような事を砥上氏はやってしまっている。
白と黒とその濃淡だけで表される水墨画。しかし、主人公の青年は描かれた薔薇を見て、黒いはずなのに赤く見えるという。それを読んでいるこちらも黒いのに赤く見える薔薇を想像している。

巨匠が認めただけあって、この主人公君は見る目を持っているのだ。
観察眼がすごい。
日本の水墨画の頂点の二人、またその頂点の絵師の一番弟子、二番弟子が実際に水墨画を描くところを目の前で見、その観察眼で、腕の動き、筆の動き、そして出来上がった生き生きとした水墨画を見て、頭に叩き込む。

彼の観察眼で見たものを描写して表すことで、読者もまた、その目の前に日本の頂点を極めた人たちの水墨画を思い描く事ができるのだ。
それが表現できてしまうのが自身が絵師としての表現力を持っているからなのだろうか。

クライマックスは二番弟子の斉藤湖栖という先生が白い薔薇を描き最後にその薔薇に蔓を描くシーン。もう一つは湖山先生が大学の学園祭に引っ張り出され、キャンパスで揮毫を披露するシーン。
ただの線のはずなのに見えないはずの風が吹き、匂うはずもないのにかおりがし、重さががあるはずもないのにその質量を感じるその線。
そこに描かれたのは生命の息吹きそのもので、見るものは誰しも感動する。

水墨画は瞬間的に表現される絵画で、その表現を支えているのは線である。
そして線を支えているのは、絵師の身体。
線を眺めているとどんな気質のどんな性格の持ち主が描いたのかも推察できる。

主人公君が空っぽで真っ白な自分に生き生きとした生命の宿った水墨画という線を描いていく、そんな話だ。

まるで芸術作品を鑑賞させてもらったような豊かな気持ちになる本である。

二度目をじっくりと読んだ後もしばらく余韻に浸っていられた。眠ろうと目を閉じても生命力ある水墨画が頭に浮かんでくる。こんな読後体験は初めてかもしれない。

水墨画展など、ついぞ聞いた事も無かったが、今度開催を見つけたら、なんとしてでも行ってみたい。

線は、僕を描く  砥上 裕將著